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なんと、カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』の日本語訳が出てしまった! 出る出る詐欺にはひっかかるまいと思って英訳版を読んだ身としては、もう少し待てばよかったか、と悔しい思いもある一方で、それがもう数年前だしあのとき読んでおいてよかったという気もする。
さて、ご記憶の方はご記憶だろうけれど、ぼくの『テラ・ノストラ』に対する評価は、決して高いものではない。詳細に関しては以下を参照してほしい:
簡単にまとめると、以下の通り:
- 力作なのはまちがいない。長さといい密度といい。
- でもその長さと密度(そしてそのために必要とされる構築性)こそが、本の主張を裏切っている。
- 本で表明されたイデオロギーは単純で、秩序を指向する現代文明にメキシコ/スペイン文化の神話や芸術を対比させてアウフヘーベンさせようというもの
- でもその現代文明=進歩重視=秩序化=すべて固定する不毛という認識自体おかしい。だって進歩するって、固定しないってことだよ?
- それに対する神話/芸術の力みたいな話も、きわめて退屈で妥当性のない代物。
- しかもそのイデオロギーを説明しすぎて、小説としての広がりが犠牲になっている。
テラ・ノストラの原書が出た1975年――つまり執筆時点ではオイルショック前だろうね――では、米ソ冷戦構造が圧倒的に強くて、そのベースとなっている資本主義/社会主義とその根底にある進歩主義史観みたいなのがドーンとエスタブリッシュメントとしてあった。だからそれに対する土着主義とか反進歩とか神話とか芸術とかいうのをいっしょくたにして、オルタナティブな選択肢でございという提示の仕方には、それなりの説得力があったんだろう。ヒッピー運動も、そんな整理されない思想/指向のごった煮だ。
でもまさに本書が出たときに、オイルショックと公害問題に伴う経済後退で状況は変わってしまった。そして変な土着崇拝やドジン信仰の問題点、神話=宗教が実はやばいカルトのたまり場であること、その他フエンテスがいっしょくたにしていたものが、実はいっしょくたではなく、そんなにありがたいものでもないことがわかってきてしまった。その時点で、たぶん本書のような小説のそもそもの存立根拠はなくなったんじゃないか。
長い小説なので、そうしたイデオロギー面がなくなっても、見所はある。ただ本書の場合、そのなまくらなイデオロギーがこの長大な小説の骨格を構築しているので、それが成立しないと、もうぐずぐずになってしまう。冒頭と最後の部分はとてもかっこいい。でもその間の部分は……
もう一つ。解説にもあるけれど、本書で(いやこれまでの各種の著作で)フエンテスは、唯一のただしい読み方に対する多様で異質な読み方というのを称揚してみせる。途中で、主人公格の一人が、グーテンベルグの印刷術の話を伝え聞いて「そんなもので万人が本を読むようになったら、みんなが勝手な読み方をして、唯一の正しい読み方が台無しになってしまう」と懸念するところがある。フエンテスは、みんなが読んで、みんなが書くような状態を『セルバンテス、または読みの批判』でしている。
でもその異質な読み方ってなんだろうか。本書だと、それがエログロスカトロ奇形両性具有、風刺に茶化しになるんだけれど、それが必ずしも豊穣さにはつながっていない。むしろオルタナティブ文学とか実験小説とか言われるもののワンパターンになっていて(例:ウィリアム・バロウズ)、もはや異質であることの均質性みたいなものになっている。それが何かパワーを持てているかというと、ぼくはそうは思わない。本書の解説では、『テラ・ノストラ』の中で、実は高潔な騎士であるはずのドンキホーテが女衒の手引きで、清らかに崇拝するはずのドゥルネイシア姫を手込めにしちゃったんだぜ、という話が出てくるのを見て、それが異質な読みだという。ふーん、そうなんですか。でもそれがどうしたんですか?
フエンテス以外でもそうだ。たとえばテロにあったシャルリエブドという風刺雑誌があるけれど、襲撃されちゃったもんで、なにやら立派な風刺で高度な言論であるかのような言われ方になっている。でも、実際はレベルが低いし、その風刺も大したことはない。むしろ、それを襲撃した連中の、「異質な読み」なんかいっさい認めない文字通りの「正しい」読みにこだわるやりかたのほうが、えらく衝撃力を持つようになっている。そのほうが、いまの世界のあり方に対する批評性を持ててしまっている。
(ぼくはこの点は重要だと思っていて、いまアーティストとか名乗っている人たちはこれをよく考えてほしいと思っている。ちなみに、原理主義の人たちは、批評性を持とうとしてイスラム国をやってるわけじゃない。だから批評性というのは実は作品の問題ではなく、受け手の問題なんだというのもわかる。がそれはまた別の話)。
だから『テラ・ノストラ』は、ある意味で20世紀的な新しい小説のありかたを完全に、しかも実に見事な形で実践した小説ではある。現代社会批判、その背景にある進歩思想批判、「正しい」読みに変わる異質な「読み」と「書き」。パロディ、引用に本歌取り、言葉遊び、小説内小説、時間の倒錯、猥雑な語り口、著者と読者の融合と可換性。でも、それをほぼ完璧にやったがために、本書はその限界をすべて引き受けることになってしまった。そして、20世紀的な新しい小説が前提としていた20世紀の社会が変容したとき、そうした時代認識とそれに結びついていた「技法」は、宙に浮いてしまい、いわば無駄な力作になってしまったんだと思う。
それでも、再読してぼくは、この小説にまだ救える部分があるんじゃないかな、という印象も受けた。なんかまだ整理しきれないので、これはまたいずれ。