つまり、マイナスの自尊心と言うべきなんだろうけれど、いわゆる「神話」みたいなものを持っている人は多数派であり、そして自分のように「神話」を失ってしまった人間というのは少数派なのだと思っている。
つまり、神話というのは誰かにとっての信じるに足る世界なのであり、自分自身の根拠の裏付けみたいなものなのであり、つまりは自分と世界の価値が存在すると信じられるだけの証拠みたいなものなのであって、そういうものを殆どの人は持ち続けているような気がするのである。
だからこそ、そういった人々は無邪気に生きていて、自分自身の存在が価値あるものであると思うことができて、大体今のまま生きることを望んでいる――そんな気がするのである。
勿論、これは歪んだ自己認識であり歪んだ世界認識であるわけで、つまりは偏見なわけだけど、でも、そんな気がするのである。
自分に関して言えば、「神話」を失ってしまったのは僕が十五歳くらいの時で、確かその時くらいから阿呆みたいに文章やら文芸作品やらを書き始めていたと記憶している。その二つが完全にリンクしているわけでは無いにせよ、ある意味ではそれはシンクロしていたし、ちょっとした引き金のようなものになっていたのではないかと思っている。いずれにしても、僕にとってその時神話は失われてしまっていて、じゃあ神話が失われてしまった後の世界にはもう神話と呼ぶべきものは何一つ存在しないのかと言えばそうではなくて、新しく選ばれるのを待っている神話の気配がそこには息づいていて、でもそういうものに関しては僕は殆どの部分で拒否していて、ちょくちょく受け入れたりはするものの、基本的にはかつて存在していはしたものの今となっては失われてしまった神話の回復と復権だけが生きる目的になってしまっていたわけで。というわけで、現在僕の世界には古い時代の神話が少しだけ息を吹き返していて、そのお陰で僕は少しだけ安心して昔みたいな世界を生きることができているというわけなのであった。
思うに、若い頃から今にかけてまともな恋愛ができなかったというのは、その所為もあるのかもしれない。つまり、恋愛とは一種の「物語」の共有であると僕は思っているのだけれど、つまり、お互いが信じている何らかの価値とかそういうものを擦り合わせて、「あ、大体自分達の『物語』は同じっぽいぞ」というテレパスを感じた時点でまともな(世間では「まともだ」と思われている)恋愛というのが始まるということではないかと思っているのだけれど。で、僕はそういう誰かと共有するべき物語というか神話というか何というかを持ち合わせていなかったので、どうにも自分の隣に立っている女の子が異星人か何かのように思えたりして、それでどうにも上手くいかなかったのではないか。いや、たくさんの女の子を愛したのだ。愛だけはたくさんあったのだ。僕の中には、新しく息づこうとしている神話が幾つか生まれつつあったのだ。でも、それは女の子たちが持っている物語とは全く違ったものだった。女の子が求めている物語と、僕の持っている神話というものは随分違ったものだったのだ、結局のところ。
まあ僕が恋愛下手であるというそれ以上の結論は存在しないんだけれど、それでも、同じような物語をお互いに「持っている」と感じることができたのであれば、その恋愛は割と上手くいくものなのではないか、とそんなことを思う。
というわけで、僕は誰かと共有するあてのない物語を書き続けている。
何かを失ったり、何かを手に入れたりする人々の話を書き続けている。
それらが日の目を見ることはひょっとしたら無いのかもしれない。
それでも、僕は書き続けている。
それらの物語を、他の、誰かと共有するために。いつの日か、自分にも価値があったんだと思うことができるようになるために。
神話を失っていないひと達へ。
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