2016年5月26日木曜日

2016年5月26日の小沢健二

オザケンという人はとても頭がいいのだろう。

というのが小沢健二に対する私感だ。この人はどんなコード進行を聞いても、どんな歌詞を聞いても、どんなアレンジを聞いてもその構造が化学式で見えてしまうのだろう。例えば私たちが植物として見えるもの



が、こう見えてしまうのだろう。




この人は頭がいいので音楽の化学式から新しい物質を作ろうとしていたんだと思う。

しかし、90年代のオザケンの面白さとはそんな頭がいい人が突然ウータン・クランやキミドリやディアンジェロという自分よりも悪そうな人たちの音楽にはまり衝撃を受けてそこからの影響を隠さず、どうにかその未知の物体から化学式を見つけようとしていたところだと思う。アルバート・ホフマンがマジックマッシュルームからシロシビンを作ろうとしたようなものだ。

その時代のミュージシャンの一人として同時代の音楽家の自分の理解の範囲を超えたものを真摯に受け止めて新しいものを作ろうとしていた。完璧そうな人間が、真摯に自分の中に無いものを認めて、それを自分の中に吸収しようともがいている過程にファンは共感したり、これから生み出されるであろう音楽に期待していた。

しかし、小沢健二はある時からそれを止めてしまった。同時代のミュージシャンの一人であることを止めて、もっとオーセンティックなジャズやクラシックや古典といったものの方に擦り寄りそちらのフィールドで熟成とか洗練していき、恒久的な音楽を作る方を選んだのだと思う。結局、自分の理解の範囲を超えたものから抽出した化学式から再生成されたものがそれは同じものにならないということに気がついたというのと、どんなに悪ぶっても、自分の素質というのは真面目なPURISTのそちらだと分かったのだろう。

やがて彼は沈黙する。

そして、長い沈黙の後2010年、再び小沢健二は日本でライブを始めた。それは、日本の音楽界でビッグ・ニュースとなった。

その後、何度か来日をし、順調に音楽への復帰をしようとしているように見えたが、その間にオザケンのファンとその他の人たちの間での小沢健二に対する認識はどんどん背離していった。その原因としてはライブで新曲がほとんど演奏されることは無く、昔の曲のバリエーションばかりだったり、詩の朗読の時間が有ったりするというエキセントリックさだったりと、その伝え聞く情報に「今の小沢健二」を積極的に見たいと思わせるものが無かったからだ。正直、「そんなだったら見に行かなくて良かった」と思えるものばかりだ。見に行った人の感想を検索してもファンの「オザワ君が目の前で歌ってくれて涙が出た」とか「オザワ君が〇〇という曲をやってくれて感激」ばかり。結局、今、日本で、小沢健二が何をやってるのかが全然伝わって来ないのだ。

そのうち、定期的に来日するオザケンに対して口の悪い奴らは「日本へ出稼ぎ」「野沢直子か小沢健二か」と言い出すようになった。

そんな雰囲気が一気に噴出したのは 小沢健二のホームページの2014年記事での小沢健二のceroに関する部分だ。

リンク

この記事を受けての ライター磯部涼のツイッター




はかなり話題になった。別に磯部氏だけでなく、このひふみよのceroの部分にカチンときた人は多かったのは事実だし、これを契機にオザワ君ファンでは無い人たちの小沢健二に対する認識が一気に表に出た感じになったのは確かだ。

「王様は裸だ」と誰かが言い出して、ひれ伏していた観衆からだんだんと笑いが起こっていく瞬間だった。

それでも、当の小沢健二自体にそんなことが伝わる訳もなく、オザワ君をオザワ君のファンが取り囲み大きな人垣が出来、その中でオザケンが平常営業という図式は変わらなかったと思う。

ところが、そんな平和な図式が変わる事件が有った。それが「1・20クワトロ事件」である。




前日突然全国のライブハウスに上のようなポスターが貼られ、それを見たファンがシークレットライブだと思ってクワトロに駆けつけると、そこで小沢健二が出てきてライブツアーの告知が有り、あと何個か詩を朗読して終わったという事件である(リンク)。ファンには「オザワ君だからしょうがない」「むしろ貴重だった」という意見で有ったようだが、ファン以外の人間はここで決定的に呆れたと思う。

外野がなんだかんだと言ってもオザケンはオザケンのファンに対してだけは誠実であるというのが売りだったはずだか、このクワトロにはファンを利用してツアーの宣伝をセンセーショナルにやるという以外の意味が有っただろうか?本人がこうなることを予想して無かったとは思えない。思ってなかったとしたらかなり感覚が一般から乖離してるんじゃないだろうか?そこまで自分のアーチストパワーを誇示したかったのか?噂ではこのポスターを見た地方の人が仕事を休んでクワトロに来たらしいが、そもそも東京以外のライブハウスにポスターを貼る意味が有ったのか?

アーチストとしてやりたいことをやりたい方法でやるのは自由だし、この前亡くなったプリンスも同じようなことをしている。でも、誰もが認める現在進行形天才ミュージシャン・プリンスと、定期的に来日してるけど何をやってるのか全然伝わって来ない小沢健二とでは意味が違う。むしろこの事件により、多くのファンでは無い人間というか、かつて小沢健二が自分の音楽を聞いて欲しいと思っていた人たちの多くに「どうでもいいな、この人」と思わせてしまったのだ。

余談だが、この日「情報発信は文字情報によるもの、または手書きのイラストやメモを写真に撮ったものに限る」ということでニュースサイトではイラストのみ公開されたが、これが裁判の法廷画みたいで異常だったし、そのクワトロになぜか物販が有り、ステテコが売られていたというのも「これはマジなのか?たとえギャグとしても伝わらない」という感じだった。

ということでオザワ君のファンでは無い自分を含めた多くの人たちは、クワトロで発表されたツアーに興味も無く、チケットを取ろうともしなかったのだが、ツアー初日が近づいて、「オザケンのチケットが半額以下で取り引きされている」と聞いて、実際にその現状を見たら急に見たくなった。



別に本発売のチケットは売り切れているのだからそれが正式なアーチストへの評価だし、転売目的で大量に買った人がダブらせたのはアーチストとは関係無い話だけど、たかだか2000人くらいのキャパの会場の外にどうしても見たいという人が全然いないということは、オザワ君の周りをオザワ君のファンが取り囲んで人垣が出来てるけど、その外側にはもはや誰もいないという状態が出来てしまっているということなんじゃないだろうか?

という話をオザワ君ファンの嫁にしたところ、「行くのは勝手だけど最初から馬鹿にするつもりなら行かないで欲しい」と言われ、それもそうだなと一度は止めたのだが、A:別に馬鹿にしに行くつもりは全然無い。むしろ素晴らしいライブであることを期待している B:これはひょっとしたら小沢健二と自分の最後の接点かもしれない という理由で結局行くことにした。

今、目の前の港にオザケンという船が停泊している。結構お高いのかと思ったらお手軽な値段で乗れるという。そして自分は思う

「ここでこの船に乗ってみなければもうこの船に二度と乗ることは無いだろう」

(以上がライブを見る前に書き込んだ部分。これ以降はライブを見た後に書き込んだ部分)

一言で言えば、「オザケン vs 今のJ-POP」だった。

ライブを見る前に書いた中でceroに関する部分で一部でビーフが有ったことを本人は知らないだろうと思っていたのだが、意外と本人知ってたかもなぁという感想。それほど新曲が今のJ-POPを意識した曲だった。そう思うと妙に充実している物販やサイリウムの代わりに売られていた「機械式なんとか」など今のJ-POPのコンサートの雰囲気っぽい。もっと言うと確実にceroを意識してたんじゃないのかな?楽器の編成や配置がそれっぽかったし。

もうどちらかと言えば50歳に近いオザケンが自分よりも10や20歳下のミュージシャンにギラギラのライバル心を燃やして本気でつぶしに来た。「格の違いをみせつける」ために。

その方法論は、「J-POPの王道のアレンジの上に今まで誰も踏み込んだことの無い領域の歌詞」だったと思う。歌詞に関しては間違いなく他のミュージシャンでこんな歌詞で歌っている人を聞いたことが無いレベルのものだった。

曲はと言えば、昔の曲もやっていたので比べると分かるが昔の曲が複雑なコード進行なのに対して、新曲はよりシンプルなコード進行(と言ってもまだ十分複雑)をアレンジで聞かせるタイプの今風のものにシフトしていた。

そして、この日やった新曲(7曲)すべて良かった。

正直、2016年の現在、オザケンの昔の曲に全く思い入れが無いので周りの人たちが昔の曲で盛り上がる中ずっと「その曲はいいからもっと新曲聞かせろ」と思っていた方の人間だ。この7曲がアルバムになったら是非カーステで流しながら河口湖あたりにドライブに行きたいと思った。マジで。

が、しかし

新曲が王道のJ-POPであろうとするあまりにあの今のJ-POPを化学式で分解して再結晶化という例のあちらの方法にまた戻っていたのではないか?聞いてて「あ、このコード進行スティーリー・ダンで聞いたことが!」とか思う瞬間が有るのだが、そこは頭のいい人なのでナノレベルまで分解しているので元ネタがわからない。(1曲だけ「I Can't Go For That」をサンプリング的に使った曲有り)

でも、ぶっちゃけ新曲はすべて今のJ-POPとして非常にハイレベルの曲ばかりなのだが音楽的な冒険はゼロなのだ。冒険という部分は全て歌詞の方にウエイトを置いている。

そして、ここが一番問題だと思うのだが、キーボードに森俊之が参加してることで明らかになった、今のJ-POPの王道アレンジを森俊之に任してるということだ。

「自分でやらないんだ、そこ」

なんだろこのホームラン競争で一人だけ金属バットで来た感... ステゴロなのに一人だけメリケンサックつけて来た感...

この「格の違いをみせつける」と言いながら絶対に自分の芯を見せない感じ、これこそがオザケンなんでしょうか?

あと、もうひとつ。曲がすごくいいなぁと思いながらどの曲もまったく腰から下に来ないというのが不思議。これがアレンジのせいなのか、バンドとの連携不足のせいなのか、出音のせいなのかは分からないのだが、全く足を揺らしたくならない。俺は知らない曲でもリズムがかっこ良ければ踊る方だと思うし、正直、曲としてかっこよければ歌詞なんかどうでもいい方なんだがどれもピンと来ない。これはひょっとして、オザケンという人には「ダンサブル」が有っても「ファンク」が無いんじゃないのか?この辺は正直ツアーの後半になってみないとどちらかは分かりません。

というのがオザワ君のファンで無い音楽好きが見た正直な感想でした。で、結局どうだったかと言えば、新曲すごくいいので是非音源でまた聞きたい。そして、それを聞きながらドライブしたい。親父のカローラIIを売ったお金を頭金にして買ったプリウスで、という感じです。以上、現場からでした!