メインカラムの始まり
早慶戦100年
東京六大学野球の早慶戦は、2003年に100年を迎えました。過去に数々の名勝負を見せてきた早慶戦。それは、歓声の沸き起こる神宮球場を両分する3塁側義塾と1塁側早稲田の、天下分目の戦いでもあります。
日本の学生野球史の根幹を形成すると言っても過言ではない、伝統ある早慶戦の歴史を紐解きながらご紹介します。
(以下、画像資料は慶應義塾福澤研究センター所蔵)
日本の学生野球史の根幹を形成すると言っても過言ではない、伝統ある早慶戦の歴史を紐解きながらご紹介します。
(以下、画像資料は慶應義塾福澤研究センター所蔵)
早稲田大学からの挑戦状(第1回早慶戦)
早稲田からの挑戦状
第1回早慶戦に出場した両軍メンバー
明治36(1903)年11月21日、早慶戦第1回戦が義塾の三田綱町グラウンドで行われた。
この戦いは明治34(1901)年創部の早稲田が、9年早く発足した義塾に「教えを請いたい」と対戦を申し込んだもので、「(早稲田の)選手皆幼稚を免れず候に就ては近日之中御教示にあづかり以て大に学ぶ所あらば素志此上も無之候」との一戦申込みに、義塾も「貴校と当校とは是非共マッチを致す可き者」とただちに応答したことから実現した。
約3000人の観衆を集めた試合は、11対9で義塾の勝利。早稲田の選手たちは朝から下駄を鳴らしながら戸塚村(現在の早稲田)を出発、三田までの13キロの道を歩いて来たという。
両校がライバルとなった歴史的第一戦であった。
この戦いは明治34(1901)年創部の早稲田が、9年早く発足した義塾に「教えを請いたい」と対戦を申し込んだもので、「(早稲田の)選手皆幼稚を免れず候に就ては近日之中御教示にあづかり以て大に学ぶ所あらば素志此上も無之候」との一戦申込みに、義塾も「貴校と当校とは是非共マッチを致す可き者」とただちに応答したことから実現した。
約3000人の観衆を集めた試合は、11対9で義塾の勝利。早稲田の選手たちは朝から下駄を鳴らしながら戸塚村(現在の早稲田)を出発、三田までの13キロの道を歩いて来たという。
両校がライバルとなった歴史的第一戦であった。
早慶戦の中止
1906(明治39)年早慶野球戦(綱町)
明治39(1906)年秋、1勝1敗で迎えた第3回戦を前に、早慶戦は突然中止された。試合は毎年秋1回で勝負することになっていたが、同年秋から3回で勝負すると取り決めがなされた。決勝戦は11月11日の予定だったが、早慶両校の学生の余りの熱狂ぶりに、両校の協議の末やむなく試合を中止した。発端は、試合に勝った方の応援団が互いに、両校の建学者福澤諭吉、大隈重信の自宅前で「万歳」と叫んだことだった。1勝1敗の後の決勝戦を前に、両校の興奮はその極に達し危険な状態となっていた。
復活は東京六大学野球連盟が発足した20年後の大正14(1925)年秋。翌年春からリーグ戦の一部として行われるようになった。六大学野球、特に早慶戦は当時のスポーツ界最大の行事であり、昭和4(1929)年には天覧早慶戦が行われるほどであった。
復活は東京六大学野球連盟が発足した20年後の大正14(1925)年秋。翌年春からリーグ戦の一部として行われるようになった。六大学野球、特に早慶戦は当時のスポーツ界最大の行事であり、昭和4(1929)年には天覧早慶戦が行われるほどであった。
リンゴ事件
昭和8(1933)年秋、早慶戦第3回戦でその事件は起きた。9回表の守備についた義塾・水原茂3塁手が、早稲田応援席から投げ込まれたリンゴの芯を投げ返すと、リンゴが早大生の顔面を直撃。しかも9回裏に義塾が逆転勝利を収めたため、興奮した早稲田応援団の一部が試合終了後、義塾応援席側に乱入し、指揮棒を奪い取る騒ぎに発展した。その後、早大応援部解散、水原選手自主退部により事件は幕を閉じた。
最後の早慶戦
学徒出陣した選手たちのサインボール
出陣学徒壮行早慶戦
昭和18(1943)年、六大学野球リーグ戦の灯は戦況悪化に伴い、消えることになった。英米などで発達し日本に移入されて盛んになった野球やテニスなどが厳しく規制されていた時代であった。ただ対校戦の道は残されていた。
「このまま戦場に行くのはいやだ。なんとか早稲田と最後の一戦を交えたい」。「出陣学徒の想い出となる催しには早慶戦が最適」と学生の意を汲み取った小泉塾長(当時)は、早稲田と交渉をし、ようやく了解を得た。
戸塚球場で行われた試合は義塾側の負けに終わったが、勝敗は問題ではなかった。慶應は早稲田の「都の西北」を、早稲田は慶應の「若き血」を力の限り歌い互いに激励した。以後、残念ながら、早慶戦は昭和20(1945)年まで 行われることはなかった。
戦後、三田の山に戦没学生を偲んで「平和来」と題する彫像が建てられた。朝倉文夫作のこの若人の像の下に、小泉元塾長は次のように書き誌した。「丘の上の平和なる日々に征きて還らぬ人々を想う」。
「このまま戦場に行くのはいやだ。なんとか早稲田と最後の一戦を交えたい」。「出陣学徒の想い出となる催しには早慶戦が最適」と学生の意を汲み取った小泉塾長(当時)は、早稲田と交渉をし、ようやく了解を得た。
戸塚球場で行われた試合は義塾側の負けに終わったが、勝敗は問題ではなかった。慶應は早稲田の「都の西北」を、早稲田は慶應の「若き血」を力の限り歌い互いに激励した。以後、残念ながら、早慶戦は昭和20(1945)年まで 行われることはなかった。
戦後、三田の山に戦没学生を偲んで「平和来」と題する彫像が建てられた。朝倉文夫作のこの若人の像の下に、小泉元塾長は次のように書き誌した。「丘の上の平和なる日々に征きて還らぬ人々を想う」。
早慶6連戦の死闘
昭和35(1960)年秋、早慶が同率となり、史上初の再度の優勝決定戦となる。第5戦、0対0で迎えた11回裏、義塾にチャンスが訪れる。無死満塁の チャンスに4番打者がフライを打ち上げた。タッチアップでランナーは走ったが、早稲田のライトからの返球は絶妙だった。審判の判定はアウト。0対0で引き分け、サヨナラ勝ちを失い涙を飲んだ。翌日の試合にも敗れ、「早慶6連戦」の軍配は早稲田にあがった。全6戦の観客数は延べ約35万人。今の巨人阪神戦以上の盛り上がりを見せた球史に残る名勝負だった。
延長18回の早慶戦
昭和50(1975)年、東京六大学野球秋季リーグ戦の末尾を飾る早慶戦は、1勝1敗の後をうけて10月28日神宮球場で行われた。試合は2対2のまま延長戦に入り、六大学史上初の延長18回となったその回裏、義塾は無死1,2塁となり、春季リーグ戦で戦後3人目の三冠王となった後藤寿彦君(当時法学部 4年・義塾野球部元監督)が右前へサヨナラ・ヒット。4時間10分にわたる伝統の熱戦に終止符を打った。15回までしかないスコアボードは延長回からのスコアを新たにボードに刻んだ。
ストッキングの白線
昭和3(1928)年腰元名監督の下、義塾野球部は10戦10勝の全勝優勝を成し遂げた。この快挙を記念し、ブルー・レッド・アンド・ブルーのストッキングに、白い線が一本入った。この記録を再現すべく昭和60(1985)年秋には志村亮投手の好投で早稲田に連勝、13年ぶりの優勝を全勝で飾り、二本目の白いラインをストッキングに入れた。「陸の王者」慶應の伝統と歴史は、早慶戦100年を迎えた今もなお続いている。
早慶戦始末記(『三田評論』(昭和42(1967)年8・9合併号より抜粋)
「ペリカンあわれ、早慶戦の夜首に死球」。昭和42(1967)年六大学春季野球リーグ戦が義塾の優勝によって幕を閉じた翌日の読売新聞夕刊の見出しである。それは日比谷公園のペリカンの噴水が、心無いイタズラで壊されたことを報じたものだった。新聞には義塾の名前は載っていなかったが、当夜の状況からみて明らかに塾生の仕業に違いないものであった。
義塾では、早速学生部長名で告示を出し、塾生の反省を求めた。
-「嘗ては『学生の稚気』として一笑に付された時代もあったが、現在は『学生』なるが故に厳しく裁断される世情にある。自己の行動に自律の力を働かせようではないか。又右の行動に思い当り反省した者は学生部に名乗り出て頂きたい」-
「私がいたしました」。名乗り出る塾生がいるかどうか半ば諦めていたところ、法学部4年の塾生が申し出た。本人の当夜の行為そのものは厳しく批判されねばならないが、その非を悟って、敢えて名乗り出るのは相当の勇気のいることである。
更に経済学部4年の一塾生からは「私自身いたずらをしたわけではないが、弁償の一部にあててほしい」と、金500円が学生部へ届けられた。6月の小遣いの残りだとのことだった。
「独立自尊」「気品の泉源」が塾生に求められていることは、今も昔も変わりはない。
義塾では、早速学生部長名で告示を出し、塾生の反省を求めた。
-「嘗ては『学生の稚気』として一笑に付された時代もあったが、現在は『学生』なるが故に厳しく裁断される世情にある。自己の行動に自律の力を働かせようではないか。又右の行動に思い当り反省した者は学生部に名乗り出て頂きたい」-
「私がいたしました」。名乗り出る塾生がいるかどうか半ば諦めていたところ、法学部4年の塾生が申し出た。本人の当夜の行為そのものは厳しく批判されねばならないが、その非を悟って、敢えて名乗り出るのは相当の勇気のいることである。
更に経済学部4年の一塾生からは「私自身いたずらをしたわけではないが、弁償の一部にあててほしい」と、金500円が学生部へ届けられた。6月の小遣いの残りだとのことだった。
「独立自尊」「気品の泉源」が塾生に求められていることは、今も昔も変わりはない。
野球殿堂入り(元読売巨人軍監督・藤田元司氏)
野球殿堂は、野球の発展に寄与した人を表彰する。義塾からは23人が殿堂入りを果たしているが、ここでは平成8年に殿堂入りを果たした、元読売巨人軍監督の藤田元司氏(昭31政)にスポットを当てる。
藤田氏は速球派投手として、大学時代には通算31勝の大活躍。日本石油を経て、巨人に入団後は、新人賞や2年連続MVPを獲得するなど輝かしい成績を残した。現役引退後は、読売巨人軍、横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のコーチを務め、1981年から3シーズン、89年から4シーズンの通算7年間巨人の監督に就く。その間に4回のリーグ優勝、2回の日本一を達成し、「優勝請負人」と呼ばれる名監督ぶりを発揮した。
大学時代には「悲運のエース」と呼ばれ、読売巨人軍ではマナーの良さから「球界の紳士」と称えられた。しなやかな長身から投げ下ろす快速球を武器とするオーバースローの投球フォーム、終始冷静にベストを尽くす姿勢に多くの塾員・塾生が惹き付けられた。(
『塾』2003年秋号「塾員山脈」)
藤田氏は速球派投手として、大学時代には通算31勝の大活躍。日本石油を経て、巨人に入団後は、新人賞や2年連続MVPを獲得するなど輝かしい成績を残した。現役引退後は、読売巨人軍、横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のコーチを務め、1981年から3シーズン、89年から4シーズンの通算7年間巨人の監督に就く。その間に4回のリーグ優勝、2回の日本一を達成し、「優勝請負人」と呼ばれる名監督ぶりを発揮した。
大学時代には「悲運のエース」と呼ばれ、読売巨人軍ではマナーの良さから「球界の紳士」と称えられた。しなやかな長身から投げ下ろす快速球を武器とするオーバースローの投球フォーム、終始冷静にベストを尽くす姿勢に多くの塾員・塾生が惹き付けられた。(