古今東西、今も昔も、芸人と酒は密接な関係にある。
特にあの頃は、若手はともかく、師匠クラスになると劇場入りした直後から、それこそ朝から飲み始めるなんてことも当たり前だったから、より関係が深かったことだろう。中でも淡海さんは人の何倍も飲むという噂だったから、かなりの酒量だったに違いない。
振り返れば、芸人と酒の親密な関係性を世間が喜んでくれていた、最後の時代だったのだ。
ただ、この2年前に脳内出血という大病で倒れていた淡海さんは、お医者さんからキツくお酒を止められていた。
もちろん周囲も飲まないよう説得していたし、本人も禁酒を宣言していたのだが、それでも、淡海さんはお酒を断ち切れなかった。
「俺はアレ、ビールとトマトジュースば割ったやつがよか」
数ヶ月後に仕切り直された、博多温泉劇場での淡海さん座長公演。
その打ち上げでペペルにやってきた淡海さんの顔色を、店用の派出なスーツに着替えていた僕と満さんは、直立不動で伺っていた。
体調は良くなったそうだが、依然として左半身は麻痺している。
ほんの数年前まで、間寛平さんと舞台を縦横無尽に駆け回る姿や、お婆さんに扮した淡海さんが得意としていた「正座した状態でポーンと飛び上がる」ギャグをテレビで当たり前のように見ていた僕からすれば、やっぱり今の淡海さんは信じられないし、受け入れがたい。
極力、元気に返事をするように心がけてはいたが、すぐに突きつけられる現実を前にすると、淡海さんの言葉に合いの手を打つのが精一杯で、おそらく満さんも同じ気持ちだったのだろう、僕たちは会話の全てを、淡海さんの正面に座ったお母さんに丸投げしていた。
「レッドアイとかいうやつ、あれば出しちゃってん」
「ススムちゃん、お酒はダメ!」
「トマトで割るけん、よかと」
「ダーメ!」
「トマトで割ったらよかって医者も言いよったけん、早よ!」
「ダメって言いよろうが、もう!」
「じゃあお前に頼まん! おい、若い衆、ちょっと作っちゃれ!」
福岡吉本の芸人を全員まとめて「若い衆」と呼んでいた淡海さんは、相変わらず僕たちに優しかった。
楽屋でも気さくに声をかけてくれたし、ついさっき、ここで僕たちが働いていると気づいた時には
「お前たち、いつかこの店に恩ば返さないかんぞ!」
という叱咤激励の後に、
「なんか、世話ば焼かしたごたあね」
と、お母さんにあらためてお礼を言ってくれるほど、僕たちのことを気にかけてくれていたのだ。
しかし、だからといって、前の店でも飲んできたのが丸わかりの淡海さんに、これ以上お酒を提供するわけにもいかない。
それでも、淡海さんの注文を僕たち若い衆が無視するわけにもいかないのだ。
目と目が合った状態でそう言われた僕は、慌てて冷蔵庫があるカウンターの中へと走った。
トマトジュースを取り出し、グラスにビールをどれぐらい注いでいいのか、躊躇しながら少しづつビールの小瓶を傾けていると、急に腰のあたりを下から誰かに引っ張られた。
驚いて目をやると、僕の足下に、いつの間にかカウンターの中へ入ってきていたお母さんがしゃがみ込んでいた。
「アタシがスペシャルで作っちゃるけん!」
そう大声で叫びながら、僕の手からビールとグラスを奪い取ったお母さんは、またカウンターの下に隠れると、少しだけグラスに注がれたビールを床に放り捨て、そこに大量のトマトジュースを流し込んだ。
「ススムちゃん、出来ましたよ~!」
おどけながら立ち上がり、グラスを見せびらかすようにして席へ戻ろうとするお母さんの左手を、今度は反射的に僕が引っ張る。
「お母さん、それ、バレません?」
そう小声で耳打ちすると、お母さんは
「どうせ酔っとうけん、よかくさ!」
と早口で吐き捨てるように言い、何食わぬ顔でトマトジュースでいっぱいになったグラスを淡海さんに差し出した。すぐに口をつけた淡海さんは、案の定、怪訝そうな表情を浮かべ、お母さんに詰め寄った。
「おい、これビール入っとうとや?」
「入っとうよ!」
「トマトの味しかせんばい」
「飲み過ぎて味がわからんっちゃないと? アタシちゃんと入れたけん、ねえ?」
「……はい! ちゃんと入ってます!」
お母さんからの目配せに、僕はイチかバチかの返事をした。
「……そうや。ならよかたい。これなら医者もいいって言うけんね」
それから小一時間後、公演の疲れもあったのだろう、数杯のトマトジュースを飲んだだけで、淡海さんは早めに店を後にした。まだまだお客さんはいたから、急いでテーブルの上を片づけ、とりあえずの洗い物だけをしていると、目の前のカウンター席に誰かが座る気配がした。
顔を上げると、そこには滅多に吸わない煙草に火をつけたばかりの、お母さんがいた。
「くたびれたけん、ちょっと休憩。」
他の席に煙が回らないよう配慮しているのか、お母さんは床に向かって煙草の煙を吐き出しながら、僕に話しかけてきた。
「まあ、元気そうで良かったって、そげん思わなね」
「……はい」
僕は手を休めないよう心がけながら、お母さんの言葉に耳を傾けた。
「ばってん、なんで止めきらんかねえ。あげな体になってしもうたら、普通はもう飲みきらんハズよ。アタシやったら絶対飲まんもん。ねえ、あんたやったら飲む?」
「いや、飲まないと思います」
「そうよね。あー、ホント、腹の立つ」
そう言っているお母さんの目が本当に寂しそうだったので、僕は視線を手元に戻し、洗い物に集中するフリをした。
「でもお母さん、あれ、バレなくて良かったですね」
「は?」
「トマトジュース、淡海さん、最初ビール入ってないって言い出したから・・・」
「ああ。たぶん向こうもわかっとうくさ。トマトジュースって」
「え?」
まだまだ吸える煙草をもみ消しながら、お母さんが言葉を続ける。
「アタシから渡されたら、文句言われんやろ。いつから知っとうと思いよるとね? もう長いんばい」
「……淡海さん、気づいてたんですか?」
「そこまで酔うとらんかったし、100%のトマトジュースよ。気づかんかったら、今度は舌の病気で入院せないかんばい。アハハ……」
悪戯っ子のような屈託のない笑顔を浮かべるお母さんを、僕は不思議な気持ちで眺めていた。
「……アタシはようわからんけど、芸人は酒飲まないかんっちゃろ?」
「……いかんことはないと思いますけど」
「そりゃあ、あんたはまだ若いけん」
「……」
「他のお客さんもススムちゃんに気づいとったし、あんたみたいな後輩もおるとに、その前でススムちゃんが水やら飲むわけにはいかんっちゃろ?」
淡海さんは、芸人と酒の親密度を世間様が期待していた、そんな時代の座長だったからー。
「なんか、ススムちゃんは昔からそげん言いよったよ。まあ、わからんでもないけど、さすがにもう飲まんでよかっちゃない?」
「……はい」
「アタシは同級生やけん、ススムちゃんも、アタシの前なら飲まんでよかと」
「……」
「アタシがおる限り、この店はススムちゃんにとって普通の酒場やないけんさ。やけん、ススムちゃんに何かあったら、アタシにすぐに教えないかんよ」
「はい」
「じゃあ、行ってきまーす」
そう言ってホールへ戻ったお母さんは、低めの天井にぶらさがっているミラーボールを手で回して加速させた。これはお母さんが日に何度もやる、気合いの儀式だ。
早送りの星空のような景色が、薄暗い店内を駆けめぐる。その残像を全身で浴びながら、小躍りして常連さんの待つボックス席へと滑り込んでいったお母さん。
その姿を洗い場から目で追っていた僕の口元からは、愛想ではない笑みがこぼれ落ちていた。