さいわい、先日kazekozou69さんがupしてくれました。消えない(消されない)うちに書いておこうと思います。
昭和39年4月から41年3月末まで、火曜日午後6時から6時25分の枠で放映されました。主演は池田秀一です。
池田秀一は60年代の「天才子役」でした。昭和39年の映画「路傍の石」(家城巳代治監督)の主人公・吾一役も演じています。「次郎物語」と同じく、逆境に耐えて努力を続けるひたむきな少年役です。
憂いを帯びつついくぶん神経質そうにひそめた眉と、しっかりした自己主張を示して尖らせた口元が、私の印象に残っています。
(70年代以後の少年たちにとっては、テレビアニメ「機動戦士ガンダム」のシャア・アズナブルの声優として人気を博したようで、wikipediaももっぱらそのエピソードばかりを満載しています。これもまた、東山明美「私の恋人」の項で書いたと同じく、wikipediaの書き手の主観性による偏りの一例です。)
では、こちらで聴きながらお読みください。kazekozou69さんに深く感謝しつつ無断リンクします。
昭和39年
作詞:横田弘行 作曲:木下忠司
一 ひとりぼっちの次郎はのぼる
ゆらゆらゆらゆらかげろうの丘
ひとりぼっちの次郎はのぼる
ぴいろろぴいろろひばりの峠
次郎 次郎 みてごらん
松の根は岩をくだいて生きて行く
二 ひとりぼっちの次郎はころぶ
ちらちらちらちらこな雪のあぜ
ひとりぼっちの次郎はころぶ
つんつんつんつん凍った堤
次郎 次郎 みてごらん
白鳥は風に向かって飛んで行く
三 ひとりぼっちの次郎はかける
ほうろろほうろろふくろうの森
ひとりぼっちの次郎はかける
からからからから落葉の林
次郎 次郎 みてごらん
北極星はじっとひとりで光ってる
作詞の横田弘行は「次郎物語」の脚本を手がけた人物です。次郎という少年に焦点を当てて、見事に表現しました。
次郎は生まれてすぐ乳母の家にあずけられた関係で実母の愛情が薄い一方、仕事で留守がちな父親は次郎を信頼して父性的な愛情を示す、という設定でした。(実母の頑なな心は実母が息を引き取る際にやわらぎ溶けて次郎との和解が成立します。)
詞は、岩を砕いて伸びゆく松の根、逆風をものともせず飛翔する白鳥、夜空に孤高に光る北極星によって、次郎に対する人生の指針を示します。厳しい人生に立ち向かう勇気を息子に教えるのは父性の役割です。
「松の根」も「白鳥」も「北極星」も、ここでは具体的な景物であると同時に、人生の生き方の寓意を託された観念です。 人生訓というものは、いくぶん、抽象的で観念的です。
一方、各連の前半部分は、あくまで具体的な描写です。「ゆらゆらゆらゆら」「ぴいろろぴいろろ」「ちらちらちらちら」「つんつんつんつん」「ほうろろほうろろ」「からからからから」、子供の感覚に寄り添った擬音語・擬態語が生きています。
丘にのぼる次郎を、粉雪の畦や凍った堤でころぶ次郎を、夜の森をさびしく駆ける次郎を、「ひとりぼっちの次郎」を、誰かがいつでも見守っているのです。それは母性的なまなざしです。その母性性をペギー葉山の歌声が表現します。
つまり、次郎は「ひとりぼっち」ですが、この歌は、父なるものと母なるものが、いつでも彼を見守り励ましていることを示しているのです。
名作です。名曲です。
テレビドラマ「次郎物語」は、御承知のとおり、下村湖人が戦時下の昭和11年から戦後の昭和30年に亡くなるまで書き継いだ長編小説『次郎物語』(全五部、未完)が原作です。
私は中学生のころ読み切ったはずですが、内容はもう覚えていません。テレビドラマの内容も場面もちっとも覚えていません。例によって主題歌ばかりが心に残っていました。
以前、テレビドラマ「記念樹」の子供たちの歌声を聞くと涙がにじむ、と書きましたが、「次郎物語」の方は、その歌詞によって、近頃とみに、私を泣かせます。
なお、本日使用した画像は以前ネット上で取得したものです。謝意をこめてURLを記しておこうと思いましたが、いま見つかりません。ただ、画像の元は「グラフNHK」の昭和40年V/1号(5月1日発行)のものです。
雑誌は放送開始2年目を迎えた時点の号。実母が亡くなった頃まで放映が終っていたようです。池田秀一はこのとき高校一年生(東海電波高校)になったばかり。
「次郎のまわりに いろんな人が登場してくるけれど 善意の人がいっぱいいるでしょう そんな次郎の環境にひかれるなあ まえに読んだんだけれど もういちど読みかえしました これが終わったら 山本有三先生の『波』なんかやってみたいな……」
とあります。(いまどきの高校一年生タレントにはとても言えそうにない内容ですね。)
山本有三の『波』を挙げているのは、上に書いたように、前年昭和39年に山本有三原作の東映映画「路傍の石」(家城巳代治監督)の主人公・吾一少年を演じた関係でしょう。(なお、その4年前、昭和35年の東京映画「路傍の石」(久松静児監督)で吾一少年を演じたのは太田博之でした。)
『次郎物語』や『路傍の石』は困難を経ての主人公の成長を描きます。それを教養小説(ビルドゥングス・ロマン)といいます。この二作は少年を主人公にした教養小説の双璧でしょう。
ちなみに、『路傍の石』の映像化は、1938映画、1955映画、1960映画、1964映画、1966テレビと続いて、そこで終ります。(1986にテレビアニメがあるそうですが独立した作品とは少し性質が違います。)
『次郎物語』の方は、1941映画、1955映画、1956テレビ、1960映画、1964~66テレビ、と続きます。(ぽつりと飛んで1987映画があります。)
1960年代は、少年たちの苦闘と成長の物語に日本人が涙し共感し励まされた最後の時代でした。
なお、上記でおわかりのとおり、下村湖人の『次郎物語』が昭和11年から書き出され、少年次郎の物語の中心が戦前に発表されていたのと同様、山本有三の『路傍の石』も昭和12年から連載開始された作品です。(最終的には未完におわったが、吾一の少年時代を描く中心部分は完成していた。)
つまり、戦前と同じ、刻苦勉励の人生観が1960年代の「高度成長期」までは続き、そこで終ったということです。
同じことを、井口時男は『少年殺人者考』で、世間を騒がせた少年殺人者たちの変貌ぶりとして書いています。
井口によれば、1958年の李珍宇(賄い婦殺し、小松川女子高生殺し)にも1968年の永山則夫(連続射殺事件)にも貧困からの離脱願望と(知的)向上心があったが、80年代以後の少年殺人者たちには、26歳の宮﨑勤(連続幼女殺人事件)が「大人」になることを拒否した「子供」だったように、もう「向上=成長」しようとする意欲がないのだそうです。彼らは子供のまま、子供じみた妄想の中で、人を殺してしまいます。「成長の物語(ビルドゥングス・ロマン)」の時代が終わったからだ、と井口は書いています。
(ただし、主人公が試練を経て成長するというのは物語の基本形なので、サブカルチャーがこの基本形を捨てることはありません。たとえば、もはやリアリズムを離れますが、60年代後半の「スポ根」もの「巨人の星」だってそうでした。また80年代以後の「ガンダム」も「エヴァンゲリオン」も、設定はさらに荒唐無稽な未来世界ですが、少年の「成長の物語」の変形として読むことはできるでしょう。この「変形」にはかなり興味深いものがありますが、父・母・子(息子)の「エディプス」関係の「変形」についてのそういう分析は「オタク」系の社会学者たちにでも任せておきましょう。ただし、論じるなら是非とも、50年代の「イガグリくん」や「赤胴鈴之助」ぐらいはきちんと「勉強」して射程に入れたうえで論じてほしいものです。)