「日本書紀」から抹殺された「饒速日命」
12月中旬紅葉も終わり、弱い冬日の奈良・京都を巡った。
早大オープンカレッジの宗教関連授業の仲間と一緒だった。
京都で新幹線を降り近鉄特急で奈良に入り、後は貸切りバスだ。
一般観光客も少ない時季なので、のんびりした旅である。
大和は国のまほろば、歴史の宝庫でもある、先ず最初は奈良盆地の
東南に位置する三輪山の麓、「大神神社」を参拝した。
「大神神社」と書いて「おおみわ」と読むが、
それは三輪山そのものをご神体としているからである。
「大神神社」で観光客用の小さなパンフレットを貰ったが、
驚いたことに、通り一遍の雑な説明しか書かれていない。
一部引用してみると、次の通りである;
“遠い神代の昔、
三輪山に鎮められ、大物主(詳しくは
の御名を以ってお祀りされたのがはじまりです。”
一般にはこのような事で済まされているのでしょうが、賎しくも元官幣大社、
我が国皇室の先祖神を祀る神社としてはお粗末と云うか、無責任としか云い様が無い。
それで偶々社殿内を案内して呉れた中年の神官に歩きながら、
“此処は大物主、即ち「饒速日尊」を祀っている神社で大国主命は全く関係ないじゃないですか“
と話しかけたところ、彼は笑いながら“そうなんですが、まあそれはそれとして、まあ一つ宜しく、
又、機会でもあれば”とだけ云って逃げられてしまった。
勿論、これはこのパンフレット作成者だけを責める訳にはいかない。
遠因は古く8世紀初頭天武天皇が編纂させた「日本書紀」の史実改竄に始まるからである。
天武政権は自分達の皇統は天照大神を始祖とする日向系氏族の正当性を謳いあげ、
素佐之男命を始祖とする出雲一族である饒速日尊―宇摩志麻治尊―物部氏への血脈を
史書より抹殺したことに端を発している。
即ち日本書紀には大物主命は
嘘を書いているが、実際は全くの別人である。
具体的に云えば、3世紀初頭、素佐之男命は出雲地方全体を統治し、
その後、息子の大物主命(饒速日尊)及び末娘、須世理姫の入婿に当たる
伴って九州地方も制圧した。
魏志倭人伝にある“
名を卑弥呼と曰う”はこの時の事である。勿論、卑弥呼は
「大物主命」とは素佐之男と奇稲田姫との間に生まれた8人兄弟(5男3女)の三男
「
因みにこの大物主奇饔玉饒速日尊(大物主命)の諡号は「天照国照彦
火明櫛玉饒速日命」であり、別名としては「大国魂大神」、
「大歳御祖大神」等がある。
素佐之男が九州西都原で没した後、
大物主自身は統治の実務を大国主命に任せて自分は大和平野を制すれば、
出雲、九州を含め西日本全体を制することになると大和に乗り込む。
その時(183年頃)大和を支配していた長髄彦の妹である「三炊屋姫」を娶って戦わずして
大和の地も従属させ自分は三輪山の麓に居を構えた。
大物主命(饒速日尊)が出雲の須賀にある三室山の近くに永く住んでいたことから、
この大和の山を
今は「古事記」に書かれた三輪山神話から「三輪山」が正式名称として定着しているが、
今でも三室山とか
饒速日尊は三炊屋姫との間に2男1女をもうけるが、その長男が後の物部氏の
先祖となる「宇摩志麻治尊」である。次男は「天香山尊」(高倉下尊)で末娘が「伊須気依姫」である。
饒速日尊は大和地方の完全掌握に成功した後、近隣の山城、摂津、河内、和泉を従属させ、
続いて現在の和歌山、兵庫、四国の阿波、讃岐まで順次遠征して全国統治へと地域を拡大して行った。
その後、饒速日尊(大物主)は九州地方では大日霊女女王が統治するようになった
220年頃この世を去った。
然し、当時は末子相続の時代であったため、大和は伊須気依姫が正式相続人であるが
未だ幼いため兄の宇摩志麻治尊が政治を取り仕切っていた。
一方、九州日向では大日霊女も相当な高齢であり相続人と言えば
「鵜茅草葺不合尊」の末子「伊波礼彦尊」(大日霊女の孫)で、後の「神武天皇」である。
そこで九州の智慧袋として大日霊女を補佐していた「高皇産霊神」が全国を大同団結して
一本化する最善策として伊波礼彦尊を大和の相続人、伊須気依姫に婿入りさせることになった。
これが世に言う「神武の御東征」であるが、此処に述べた事情から
正しくは「御東征」ではなく「御東遷」であるべきだと思う。
「日向系神々の系図」を作成しましたのでご参照下さい。
(余計なことだが、私なども戦前ではあるが、小学校では「御東遷」と教えられた記憶がある。)
然し、伊波礼彦尊(神武天皇)が難波から生駒山系を越えて大和入りしようとした際、
長髄彦と激しい戦闘となり九州から介添え役として同伴した
長兄「五瀬尊」も傷つき和歌山で亡くなっている。
この事実を捉え飽くまでも「御東征」ではないかと反論が出るかも知れないが、
確かに伊須気依姫の叔父に当たる長髄彦一人だけがこの婿入りに最後まで反対したに過ぎない。
結局はこのルートでの大和入りを諦め、船で紀伊半島を迂回し熊野から
入ったわけだが、この時は宇摩志麻治尊の弟である天香山尊(高倉下尊)が
道案内をして大和に迎え入れたことを見ても御東遷であることが分る。
「古事記」「日本書紀」は飽くまでも皇祖を天照大神とし、神武が初代天皇として
武力を持って全国統一を成し遂げ大和朝廷が成立したとの筋書きを作り上げたものである。
では何故歴史的事実まで歪曲しなければならなかったのか。
その答は日本史の中で唯一と言える宗教戦争である。
仏教の伝来以降、時の天皇家を中心に仏教が広まるにつれ、勢力を増してきていた崇仏派の
蘇我一族と日本古来の神道を奉じる出雲系の物部氏との確執が抜き差しならぬ処となり、
589年、蘇我・物部戦争を経て神武以来権力の座にあった物部氏は滅びる。
物部氏没落後、蘇我が実権を掌握し仏教勢力の力が盛り上がるにつれ、
天皇家の先祖がその仏教に反対した物部氏ではどうしても困る。
幸い神武天皇は日向の系統である。そこで出雲の系統を日本の正史から
抹殺しようと試み書き上げられたのが「日本書紀」である。
それは物部氏没落後、約100年後のことである。
以上が日本書紀以前の日本古代史の真相であり、従って「大神神社」の主祭神は
大和朝廷の基礎を築かれた
(尚、出雲系の神々の家系図はこちらをご参照下さい。)