ゲームがゲームである根本的な部分、それはゲームが『プレイ』するものであるという事にほかなりません。
ゲーム黎明期には、ビジュアルノベルという文章中心のゲームがまだあまりなかった時期に、読ませる面白さのある「痕-キズアト-」というゲームが大ヒットしました。ヒットゲームが出れば、便乗でそうしたノベルゲームが乱造されたましたが、それらのゲームの中には選択肢が全くないモノもあったのです。
ゲームの好きな自分などは、「ダマされた~!!」と感じざる得ませんw
文章をただ読み進めるだけでは、それは挿絵付きデジタルノベルもしくはデジタルコミックでしかありません。当時はオートモードもないのでクリックするだけ本やコミックより手が疲れますしねw
プレイヤーによって能動的に行動した結果が反映されるということが“ゲーム”である事の意義ではないかと自分などは感じます。
上質なゲームの中には、選択肢の判断に難しいモノもありますし、また、選択肢を選んでいく事で、様々な展開を見せるゲームもあり、そんなゲームをプレイして、トゥルーエンドにたどり着く事が出来れば、プレイヤーは大いに“達成感”を得る事ができるでしょう。
読書をしても、この“達成感”というものはなかなか得がたく、それは自己で成しえたという感覚を持てなければならないものであるからでしょう。
例えば、サスペンス色の強いゲームなら、選択肢のミスで即座にデッドエンドがあったりするので、なかなかにスリルを体験でき、それらデッドエンドを回避して生存エンドにたどり着けたら、なかなかに達成感が得られるのではないかと。
また、自分は読書もアニメも好きではありますが、時に、この主人公はどうしてこんな行動を行なうのだろうか? 自分だったらこんな行動はせずに別の言動をするのだがなぁ~と感じたりする事があります。
もし、ゲームでそうしたプレイヤーの考える行動が反映され、その結果で展開が大いに変化するのだとしたら、それはとても面白い作品ではないでしょうか?
書籍や、漫画、アニメやドラマなどでは、その描かれた世界に共感できなければ感動や感嘆を感じる事はありません。いわば受身でしかなく、受動的なメディアです。
受動的なメディアで感動する作品というのは、著者や制作者と読者や視聴者の感性が近しいものでなければ共感したりキャラに感情移入することができず、共感できなければ感動する事などありえません。
しかしながら、ゲームでは、プレイヤーが自身で選択する事で導く結果として、どんな結末(バットエンド)であれど、それは自己の選んだ結果である以上、それなりに達成した結末として楽しめる面があると思います。
たとえば、5人のヒロインが登場するゲームで、マップ上でヒロインのアイコンがあるゲームでも、極端に言えば選択として誰を選ぶかしか選択肢がなかったとしても、どのヒロインを選ぶのか? どんな順番で選ぶのか? その選んだ順番で、作品の世界観や背景設定を知る順番が変わってくるわけで、それだけでも普通の読書とは全く違う楽しみ方ができるのではないかと思います。
ゲームはプレイヤーの遊び方によっては楽しみ方が変わるものなので、わざとあからさまに良くないと思える選択肢であっても、それを選ぶ事で、例えバッドエンドまっしぐらであっても、そのバッドエンドに至る過程を知るということも楽しめると言えるのです。
中にはバットエンドにも様々なパターンや展開があり、意外性に驚かされるゲームもありますヨw
ネットやゲーマーの批評では、あまり高い評価を得ていない作品に「ホワイトブレス」というゲームがあるのですが、このゲーム、主人公は難病を患っていて、普通にプレイすると倒れるけれど回復してグッドエンドになるわけですが、あえて主人公を死なせるバッドエンドにすると、ヒロイン毎にその死に直面しての反応が違い、強く前向きに生きようとするヒロインもいれば、ガックリ落ち込んでしまう娘もおりと、様々な違いがあって面白かったと自分は評価をしているのですが、死ぬしかない結末しかない作品では後味は悪く、回復してハッピーエンドしかない作品でもありきたりなご都合主義的なものにしか思えず、評価できる作品だとはとてもいえなかったのではないかと思うのです。
ハッピーエンドがあるからバッドエンドも楽しめる作品という事もゲームならではなのではないかと思うのですがどうでしょう?
バッドエンドが無理矢理過ぎて冷めた作品があります。結局は作風に合わせるのがベストだと思われます。 正解など存在しないのですから。毛糸のカービィのようにグッドエンドだけにするか、他の ...続きを読む