フォービズム(野獣派) のリーダー |
『赤い部屋』 |
『ダンス』 マティス作品は生命が溢れエネルギッシュ |
墓地入口。最寄りはニース駅 | “マティスの墓はこっち”の看板 | 墓地の奥から階段で下へ |
なんとマティスだけ特別区に! | 2002年 初巡礼はドシャ降りだった! | 2014年 12年ぶりの巡礼。父子で画家に感謝 |
装飾が一切ないとてもシンプルな墓 | タンポポの花をお供え | 墓地の高台から地中海が見えた |
フランスの画家。フォービスム(野獣派)運動をブラマンクらと主導。 マティスは法律家を志していたが、21歳の時に虫垂炎を患い、長い入院生活の中で絵画に目覚め画家に転向、ギュスターヴ・モローの門を叩く。ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホの絵を深く愛し、34歳でシニャックらの点描主義を知ってからはその技法を発展させ、色彩のみで形を描く革命的スタイルに到達した。1905年(36歳)、大胆な色彩で妻を描いた『緑の線の肖像』などの作品で、ブラマンクらと共にフォーブ(野獣)と呼ばれる。 マティスは画家の直感を重視し、絵描きが意思をもって色や形をコントロールするのではなく、色や形自身が絵描きの感性に命じて配置を決めると考えていた。死の数年前からは色と形を追求してきた男の集大成として「切り絵」の制作に没頭した。ニースにて84歳で他界。代表作に「ダンス」「オダリスク」、南仏ヴァンス「ドミニコ会修道院礼拝堂装飾」など。 ※僕は黒にも“明るい黒”というものがあるのだと、マティスの絵を通して初めて知った。 晩年は切り紙絵を制作。 初巡礼の際は大雨。明るい絵を描いた彼の墓にせっかく来たのだから、溢れんばかりの陽光の中で会いたかった。そう思いながら12年、再巡礼は願い通りに雲一つない好天だった! 「私が目指す絵画は、調和のとれた、純粋で静謐(せいひつ)な芸術だ。人の心を乱したり、気を滅入らせる主題が無いものだ」(マティス) |
●ブレイクの詩から 一粒の砂に世界を見 一輪の野の花に天国を見る 手の平に無限を 一瞬の内に永遠をつかむ |
ダリ(左)とアンディ・ウォーホル。これは酷い!(笑) | 『記憶の固執』 |
ユトリロが愛したモンマルトル | パリを描きまくり | 『コタン小路』 |
モンマルトルは坂が多く墓も斜めに(2002) | 7年後。この時は右手前の植木も青々と茂ってた(2009) | 女神がパレットを持っている |
モンマルトルには巨大墓地があるが、ここはそことは別のとても小さな墓地。管理人は「日本人がユトリロを訪ねてきたのは初めてだ」と言うので少し驚いた。だって日本でユトリロはけっこう人気あるもの。 母親のシュザンヌ・ヴァラドンは、ロートレック、ルノワール、ドガなどのモデルで、自身も絵筆を握った。奔放な性格の彼女が18歳の時に産んだ子どもがユトリロで、父親が誰なのか分からず彼は祖母に育てられた。父はルノアールという噂もあったが、最終的にスペイン人ジャーナリストのミゲル・ユトリロが認知。ユトリロは10代でアルコール中毒になり更生施設に入所。治療の一環で医師に絵を勧められたのが画家になるきっかけだった。 |
2002 | 2009 | 墓前のコロー像 |
彼の風景画は、薄い銀色のレースを通して見える光景と言おうか、光が鉄分を含んでいる感じの独特のくすんだ色合いだ。僕は渋めの絵が好きなので、コローは大のお気に入り。(学生時代に趣味で絵筆を握り、初めて模写したのもコロー)。彼は“コローおじさん”と呼ばれ印象派の若手連中から慕われていた。「コローは印象派の師である」(モネ)。 ※コローが一生独身を通したのは一人で森と向き合う時間が欲しかったから。それほど自然を愛していた。 |
グレコが愛したトレドの夕暮れ(世界遺産) |
城壁の中は細い路地が網の目のように入組んでる。 方角が分からないし目印になる建物もないし、 なかなかグレコが眠る教会にたどりつけなかった(涙) |
やっと見つけたサント・ドミンゴ・ エル・アンティーグオ教会! |
グレコの墓は地下にあって一般の人は近づけないけど、教会の 床が一部ガラス張りになってて、彼の棺を見ることは可能! |
『ゴールデン・フィッシュ』 |
『不吉な家の上にのぼった星々』 |
代表作のレリーフが彫られていた | 『メデュース号の筏(いかだ)』 |
沈没する船を脱出し、大海をいかだで漂流している人間が、水平線上に船影を見とめた劇的瞬間を描いた“メデュース号のいかだ”。人肉食もあったというこの実際に起こった事件を題材にした作品は、一大センセーションを巻き起こした。製作中のジェリコーのアトリエを訪れたドラクロワは、作品の力強さに衝撃を受け、自ら画中に描かれる死者のモデルをかってでたという。 |
「干草車」 | 鉄の柵で守られている | 右上にコンスタブルの名前があった |
フランスのミレーは他人だぜッ! | 『オフィーリア』 彼女の瞳は見開かれ、体の周りを編みかけた花輪がユラユラ |
よくミレーと間違えられるけど、こちらはミレイ。ハムレットの恋人「オフィーリア」を描いた傑作で知られる。オフィーリアは(1)ハムレットに父を殺される(2)なのに、めっちゃ冷たくあしらわれる(3)発狂する(4)花を摘もうとして川に落ちて死ぬ、というフルコースを満喫した。 この絵でモデルを担当した女性は、中世のドレスを着たままバスタブに4ヶ月間浸かり続け、肺炎になってしまった。ちなみに彼女は、後に画家ロセッティの妻となった。 |
2002 植物が育ちすぎピサロが見えん(笑) |
2009 7年後。植木鉢から移されたみたい |
心臓しか入っていない | 『ナポレオンのアルプス越え』 |
20世紀の抽象画の巨匠 | 「コンポジション8」(1923) 57歳の作品 |
閉門時間にギリギリセーフ!一緒に 喜んでくれたタクシーの兄ちゃん(2009) |
カンディンスキーはグランダルシュ (新凱旋門)が見えるエリア53に眠っている |
墓参の帰り。最寄りの駅(デファンス駅) は巨大な新凱旋門の地下だ |
案内してくれた管理人さんは、「写真を撮るんだったら先に 花の手入れをしてあげよう」。おかげでキレイになりました♪(2005) |
4年後。植物の種類がすっかり変わっていた(2009) |
背中からダンディズムが漂う、007のダニエル・クレイグに似た管理人さん!(2009) |
ピカソやブラックとも親しい | 『マダム・シャネルの肖像』 |
広大な墓地の一番奥に眠っている(2002) | 7年後。植木が成長していた(2009) | ローランサンの名前はかすれて判別が困難 |
野獣派 | 『コンポートのある室内』 |
2002 大雨の中の巡礼 | 2014 12年ぶりの巡礼。この時は好天 |
墓地の一番奥。地中海が見える高台に眠る | 十字架が彫り込まれている | 冷や奴っぽい |
2005 | 2009 | アングル像つき |
壁面には「フラゴナール」とあったが棺がない。この下に埋蔵されているのか?(大きな棺は他人のものデス) |
マネと同じ墓に彼女も眠っている |
ウージェーヌはマネの弟。 モリゾはウージェーヌと結婚した |
マネが描いたモリゾ |
『赤・青・黄のコンポジション』 | 『ブロードウェイ・ブギウギ』 |
ボックさんが買った『赤い葡萄畑』は400フラン(今の約15万円) |
彼女も画家だったらしい。でも知名度は低く 殆ど一般市民。会える確証はなかった |
管理人さん「訪ねて来たのは君が初め てだ」。書庫から70年前の埋葬名簿を 出して、墓の位置を調べてくれた |
「こっちか?…いや、あっちだ!」 管理人さんと一緒に墓地を右往左往 |
ついにアンナ・ボックさんを発見! |
「よくぞ買って下さいましたーッ!」 僕が御礼を言うのもヘンだけど(#^.^#) |
「どうだ!満足したか!」 見送ってくれた管理人さん |
自画像 友達思いのすごく良いヤツ! |
晩年のレーピンは右手が不自由になったが、 パレットを胴体に巻き左手で描き続けた! |
『ボルガの舟曳(ひ)き』 貧困と重労働にあえぐ民衆の姿を描くことでレーピンはロマノフ王朝の理不尽さを告発した |
この労働者の表情に見入ってしまう ※ウィキペディアに超拡大画像あり |
『イワン雷帝と皇子イワン』 息子が謀反を企んでいると誤解したイワン雷帝は、杖で我が子を殴り殺す。我に返った雷帝は 死にゆく息子を抱きしめた…。“ロシアのレンブラント”と呼ばれるように光と影の演出が劇的だ |
『帝国枢密院設立100周年記念の儀礼』 写真に見えるけどこれは絵!レーピンは様々なタッチで描くことが できた。4m×8.7mという彼の最大の作品。ロシア政府の依頼で描かれた |
ムソルグスキー | トルストイ | リムスキー=コルサコフ | メンデレーエフ |
レーピンは交流のあった当時の芸術家、文豪、学者たちをリスペクトして描きまくった! 作曲家ムソルグスキーが貧困の中で死んだ時、レーピンが埋葬費用を負担し葬式を出した |
ペテルブルグのフィンランド駅。ここから郊外に向かう。 外国人にとってロシアの旅は本当に大変!案内板は ロシア語表記しかなく、基本的に駅員は英語を話せない |
切符売り場ではどの窓口に行けばいいのか分からず、ホームもたくさんあってどの列車に 乗ればいいのか分からなくて狼狽していたら、剣道の面と竹刀袋を持った青年が! “彼はきっと日本が好きだ”と思い駆け寄ると、大ハッスルで助けてくれた!彼の名前は アレクサンドル君。あ、あ、ありがとう!君のお陰で無事に乗ることができたよ〜(涙) |
しかし!列車が動いてからも緊張MAX。日本と 違って時刻表は当てにならないし、車内放送は 当然ロシア語オンリーだし、窓から駅名が見えにく かったりで、いつ目的地に着くのか分からない |
駅が停車する度に、僕が必死こいて 涙目で窓から駅名を見ていると、初老 の男性が声をかけてくれた。この イワノフさんがめっさ良い人だった! |
プリントアウトしたレーピンの家(記念館)の写真を見せると、イワノフさんは 指を6本立てた。“残りの駅かな?”と思っていると、次の駅で指が5本になった ので間違いなかった。さらにイワノフさんはレーピンの家に行ったことがある らしく、駅からの地図を書いてくれた!「歩き方」には載ってないので助かった! |
車窓はずっと白樺の林が続く |
約1時間で目的の「レーピノ」駅に到着!ちなみに「P」はロシア語では「L」の 音に、「H」は「N」の音になる。ここでイワノフさんに丁寧に御礼を言って 別れた。※“有難う”は「スパシーバ」。“ボリショイ”をつけると“すごく”になる |
午前10時半。てくてくと駅から歩き始める。 前方にはお婆さんが1人だけ |
レーピンの家まで約30分かかる |
途中の団地の中にひっそりとレーニン像が残っていた。ソ連崩壊時に ニュース映像で各地の像が撤去される様子が流れてただけに新鮮 |
さらに進むとこの公園が。敷地に点在して いた動物たちのオブジェが可笑しかった! |
君は…“ハチ”なのか? | 病気っぽい顔色のカタツムリ。口紅を塗りすぎだよ〜 | 可愛いような殴りたいような(笑) |
レーピンの自宅「ペナトゥイ」の正門に到着! ※ペナトゥイ=「家庭」「郷里」の意 |
“ペナトゥイ”10:30-18:00 |
晩年の住居兼アトリエがそのまま記念館に。 1940年に開館し、今は世界遺産に登録されている |
●玄関脇の銅鑼(どら)と帽子かけ※撮影許可済 彼は生き方として召使いを置かず、自分の事は自分で やった。玄関脇の銅鑼の上には次の言葉が。 「客は自分で帽子とコートを壁に掛け、明るく楽しげに 銅鑼を叩いて訪問を知らせること」。レーピンのひょう きんな人柄が分かり親しみやすさがグンとアップ! |
●レーピンのアトリエ※撮影許可済 大型の絵も描けるよう広々としたアトリエ。冒頭の写真にある腰巻きパレットがそのまま 展示されていた。係員の人はとても親切で、僕が日本人と分かると日本語の解説テープを スピーカーで流してくれた(まさかここで日本語!仰天した!ツアーの人が来るのかな?)。 館内は撮影禁止だったけど、1人でここまで来る日本人は珍しいらしく、その熱意に免じて(?)、 アトリエと玄関の撮影許可をもらえた。有難い!※ただ録音テープはボリュームがデカすぎ、 静かに見学している他のロシア人観光客に申し訳なく、すっごい肩身が狭かったよ〜(汗) |
家は地図下方。墓所は一番上 | 肩車で墓所に向かう親子♪ | ムムッ、人だかりが見えてきた! | お墓の写真を撮っていた!無事に着いた〜! |
「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)!レーピンさん!」 レーピンはロシア画壇最大の有名人だけあって、 ひっきりなしに墓参者が訪れていた |
レーピンの墓はまるで花壇のよう。花は手入れがよく行き 届いていた。オーチン・ハラショー!(めっさ素晴らしい!) |
ロシア正教徒の墓は十字架の上下 に横線がある特徴的な形。お陰で 他国でもロシア人の墓はすぐ分かる |
ロシア写実主義を代表する画家。1844年、現ウクライナのチュグーエフに生まれる。美術アカデミーに反旗を翻し、貧困に苦しむ民衆に共感を表明、庶民の生活を丹念に描き、絵画を通してロマノフ王朝を批判した。1873年(29歳)、牛馬のように働く労働者を描いた『ボルガの舟曳(ひ)き』の圧倒的なパワーにより、画壇で一躍注目される。
30代前半に印象派全盛のパリで学ぶも、古典的な写実主義路線を堅持。その後も多くの画家仲間がキュービズムなど前衛絵画に走っていく中、古典絵画の王道を究めていった。作曲家ムソルグスキーは、庶民への共感に満ちたレーピンの眼差しを見て「画家達は民衆の中に入り戦っている、音楽家は何をしている」と自らを叱責した。 1885年(41歳)の『イワン雷帝と皇子イワン』では、息子殺しの父親の鬼気迫る表情をレンブラントのように劇的な筆致で描き、人々に息を呑ませた。1903年(59歳)、『帝国枢密院設立100周年記念の儀礼』を政府の依頼で描き、これは横幅が約9mという彼の最大の絵となった。レーピンはトルストイやムソルグスキーなどロシアの芸術家や文豪の肖像画を多く残したほか歴史画にも挑み、ロシア革命後も高い評価を受け続ける。 1930年に86歳で他界し、死の10年後にペテルブルグ郊外クオッカラにある晩年の住居&アトリエ「ペナトゥイ」が記念館として一般公開された。死後、大画家の偉業を称えてクオッカラの土地は「レーピノ」に改名された。 |
『雄羊の頭とタチアオイ』 | 『ポピー』(1927) | 『ピンク・チューリップ』(1926) |
オキーフを写した写真 | オキーフの手の写真 |
あまりに荒涼として世界の果てに来たようだった | この2人が「ここで間違いない」と証言 | うわ…“雄羊の頭”だろうか? |
ダンディなホッパー | シカゴ美術館にある代表作『ナイトホークス』は大人気! |
素晴らしい墓地。丘の上にホッパーの墓がある | ホッパーもここに眠れて嬉しいと思う |
立派な角を持つ鹿に見とれた(ここは墓地です!) | ウサちゃん! |
グリーンリバー墓地 | 手前の墓は夫人のリー・クラスナー・ポロック | この巨岩がポロックの墓だ!! |
よく見るとカラースプレーが墓のあちこちにくっついてた。墓でもアクション・ペインティング | 墓の上に巡礼者が石を積んでいた |
車道から墓地は見えない。白い建物の背後にある | ロスコの墓は入口近くの右側にある |
画風の変化を見るため左から年代順に並べてみた。女性像は30歳当時のもの。若い頃はロスコも一般的な人物画を描いていた。だが40代半ばから “色の重なり”に純化した絵になっていく。右端の赤い絵は自殺直前の最晩年の作品。死を決意した画家の目には世界が赤一色に見えるのだろうか |
2007年5月、マーク・ロスコの『ホワイト・センター』がNY・サザビーズで競売にかけられ、現代美術としては史上最高額の87億円で落札された!絵の真ん中に白い線が入っているので“ホワイト・センター”と呼ばれる抽象画だ。 ロスコの絵は「子供でも描ける」「俺の方が上手い」とかジョークで言う人もいるけど、いつまでも見飽きない色の調和、色面の配分は、シンプルであるほど難しいもの。優れた感性のたまものだ。数色しか使っていなくても、見ているだけで自然に気持が落ち着くのは、実に不思議というか、神秘としか言いようがない。 こう書いても「ふーん」って感じの人もいると思うけど、美術館で本物を前にすると、写真やポスターでは伝わらない異様な迫力に包み込まれ、圧倒されてしまう。絵の前で足が釘付けになり、離れがたくなるんだ。それは彼が自殺したという事実も大きな理由になっている。 ロスコは心が繊細過ぎて世界と折り合いが付けれなくなり、両手首を切って命を絶った。それも普通にカミソリで横切りするのではなく、“縦”に切って肉を開いて動脈を取り出し、直接血管を切るという壮絶な死…。 作品のぼやけた輪郭と色からにじみ出てくる、言葉にならない静かな悲しみ。ロスコの絵の前で泣いている人が時々いるけど、絵を見る前に、その人からもらい泣きしそうになる。響き合う色を見ているだけなのに、宗教画のような崇高さを感じてしまう芸術の奇跡。 国内では千葉の川村記念美術館がロスコ・コレクションで有名なので、興味を持たれた方はぜひ実物を。ロスコの展示室が薄暗いのは本人の意思とのことデス。 ※ロスコの絵をネットで探しているうちに、ロスコを235点も閲覧できるバケモノみたいな海外美術サイトを発見。1920年から他界する70年まで50年間の作品が年代順に掲載されているので、画風の変遷がよく分かった(GOボタンはリンク先の左上)。 |
「ディスカバリング・サンタ」 | いくら探しても墓がなかなか見つからず涙目に… | 諦めかけた時、墓地の奥の茂みに気がついた |
生け垣の隙間から、墓石らしいものが見える! | うおお、ロックウェル家だった! | 家族の石碑の背後にノーマンの墓 |
キュールンゲンが描いた |
『霧の海を眺めるさすらい人』(1818) | 『山の中の十字架』(1812) |
『氷の海』(1823-24) |
『キュールンゲンの墓』※キュールンゲンはカス パーの2歳年上の画家。48歳で山賊に殺された |
『雪の中の修道院の墓地』(1817-19) カスパーは墓地の絵が多く墓マイラー御用達 |
ドナウ川が流れる古都ドレスデン | 墓地の左奥に眠っている | 古い墓だが文字はハッキリと読める |
ドイツ・ロマン主義絵画を代表する画家。ベートーヴェンやゲーテと同時代を生きている。宗教的含意を込めた静寂感のある風景画で知られ、人が背後からしか描かれないのも特徴(人物と共に風景を見ている)。 人生で母、姉、弟、妹の死に接しており、人格や画風に影響を受けている。主要作品はドレスデン美術館に。代表作「霧の海を眺めるさすらい人」「氷の海」「山の十字架と聖堂」。 |
グハーッ、教会まで行ったものの日曜ミサ の最中でお墓を探す状況ではなかった! |
教会の窓にはキリコのポスターやサイン。 めっさ“ココに墓あり”って感じなのに…残念! |
このサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会は、ベルリーニ の傑作彫刻「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」で有名 |
確かに『GIORGIO DE CHRICO』と書いてある!(撮影 ユアサさん) |
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