社会人として生きているなら、誰しもが本音と建前を駆使して日々を過ごしているのだろうが、疲れてくると建前が剥がれて見事に本性が現れてくるというお話。
本音と建て前
(余計なことはすんなよ)→「その手もありますねー(ニッコリ」
(こうしたほうが早いじゃねえか)→「それでいきますか!(ニッコリ」
(時代遅れだな)→「さすがはベテランですね!(ニッコリ」
こんな感じで過ごしてる。括弧内は本音だ。いつもどす黒いものが渦巻いてるのに建前トークを維持できるほどメンタルは強くないので、日頃から感謝を忘れないように心掛けてはいるし、年をおうごとに丸くなってきたのが自分でもわかる。だが、心の奥のほうにいるのは悪い僕、本音の僕なのだ。これは間違いなく呼吸をしている。静かに、だが確かな息遣いを感じる。
社会で生きている時間が長いと、建前という「仮面」の耐久度が年々あがっていき、次第に怒ったり毒づいたりすること自体がなくなっていく。人間関係で少しでも摩擦やトラブルをなくすための処世術が、自然と身についてくるということだろう。しかし、この仮面が剥がれることがある。疲れた時だ。
極度に疲れた時
日中はまだまだ元気で建前全開。軽妙なトークで相手を少し浮かせては気持ちよくさせる。傍から見れば太鼓持ちなのだろうが、対人関係でストレスを蒙るくらいなら太鼓の一つや二つを持ったほうがマシ。何の苦でもないのだ。今日もポンポンと軽快に太鼓を鳴らしていく!
しかし、日が暮れてまだまだ仕事が終わらず、体力的にも精神的にも疲労度が蓄積してきたとき、自分の中で何かが崩れる音がするのがわかる。「ポジ熊君、悪い顔してるよ」なんて同僚が面白おかしく言ってくる。あぁ、今日はメッキが剥がれてきるなぁ。
要領の悪いやつがみんな馬鹿に見える。どう考えてもこのほうが早いし合理的じゃねえか、古い因習にとらわれていらないもの守ってんじゃねえよ爺どもが!という心の奥底に眠っていた闇のフォースがむくむくと首をもたげ始め、それが言動に如実に出る。もちろん、このまま口に出そうものなら和を完全に乱してしまうので致さないが、言葉の端々に「こうしたほうが良いですよね?」とか、少し皮肉交じりになってくる。
ああ、まずい。このままでは強烈な皮肉を放ってしまう。頼むから大人しくしていてくれ、悪い俺よ。もうすぐ仕事は終わるじゃないか、それまでの辛抱だ。お前の出番はないんだよ。一生大人しくしていてほしいんだ。頼むよ、頼む・・・なんて、心の中で祈る様にして悪い自分を押さえつける。
仕事が明けて自省する。「禅が足りない」この程度の疲れであのような態度や言動をしているようでは、まだまだ幼稚である、と。「あの時、こうしていれば」と終わったことに腐心するのは精神的にも良くないので、「次からはこうしよう」のマインドで前進していく心持でいる。
どうすればこの悪い自分を抑えられるのか、まだまだ心がけが足りないのではないか。あの人はこういう人なのだから、それに対してはこのように振る舞えば円滑にコミュニケーションがとれるのでは?
なーんて物思いにふけりながら
びっくりドンキーより飯テロをお送りします pic.twitter.com/1IfkWZF7KE
— ポジ熊 (@poji_higuma) May 25, 2016
びっくりドンキーでハンバーグを食べつつ考える。ファミリーテーブルでやたらと考え込んでいるおじんさんが一人でハンバーグを食べるというのも、滑稽であるね。
本当の自分は見えないところにいる
性根から変わればこのような悪い自分は浮上してこないのだろうが、やはりまだまだ幼稚であり、どこか周りを蔑んで見ている自分がいるのは間違いない。いくら疲れて建前が崩れてくるとはいえ、思ってもいないことは出てこないはず。いったい、どこに潜んでいたというのか。
人間の価値は平等であり、老若男女問わず接し方は等しくありたい!だとか、喜怒哀楽を極力抑えてフラットであろう!なんて大業な理想を掲げてはいるが、所詮は一人間、やはり卑しく弱い魂は心の見えないところにいるのだね。これについては無理に押さえつけようとはせず、今後は建前の仮面をグレードアップさせてどんなに疲れても和を乱さずに退社できるような大人になりたいと考えている。
同時に、もっと禅を積もうとも思う。この「禅」というものに具体性はないのだけど、要は悟りの境地に近づこうという感じ。平たく言えばね。人間の清濁を見つめ、そのうえで穏やかな人格を保てるような胸中に達したい。
悪い僕は、まだまだ現役バリバリで建前の仮面が崩れるのを虎視眈々と狙っている。今後もこのような折に浮上してくるであろう、暗黒面に落ちた自分との戦いは続く。