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4、 わたしは決して忘れない | 横畑由希子(ブラッセル)


はじめまして。ブラッセル在住の横畑由希子と申します。   

本日は戦争を知らない世代の普通の日本人女性としての立場で、慰安婦問題に関して私が気づいた点を話させて頂きたいと思います。

私はルーヴァン大学歴史学科のマスター論文で、1930年代の極東のユダヤ人に対する日本の政策のイデオロギー的側面について調べました。今月からはルーヴァン大学の日本学科で博士課程を始めます。私は慰安婦問題について専門的に勉強したわけではありませんが、重大な問題として関心を持ち続けてきました。従って本日はオランダと関わりのある一個人としての立場でお話させて頂きたいと思います。

まず、オランダの新聞NEDERLANDS BLADから話をはじめさせて頂きたいと思います。現在私はベルギーに住んでいますが、オランダ人のパートナーが NEDERLANDS BLADを購読しているため、私もこの新聞を読んでいます。NEDERLANDS BLADを読んでいて気がついたのは、日本のことがよく取り上げられているということです。

現在私が住んでいるベルギーやかつて住んでいたイタリアでは、このように日本のことが取り上げられることはあまりないように思います。

オランダは日本の動向について、特に戦争に関する日本の政治家の言動等、非常に敏感で、慰安婦問題に関しては非常に関心が高いということを認識せざるを得ませんでした。しかも日本に関して非常に厳しい記事が多く、正直なところショックでした。

日本軍がインドネシア(または他の場所においても)においてオランダ人の捕虜を虐待した事実は、私がかつてそうであったようにほとんどの日本人が知らないのではないかと思います。「ほとんどの日本人」とはもちろんここに集まって下さった日本人の皆様にはあてはまりません。日本の過去について強い問題意識をもっていらっしゃる方々が来てくださっているわけですから。

私は以前はオランダについては鎖国時代も日本と交易のあった唯一の西洋国、日本に医術などの西洋科学をもたらした国、という日本と親しい国というイメージしか持っていませんでした。

これは私が集めた、NEDERLANDS BLADに掲載された日本に関する記事の切り抜きです。
たとえば、こんな記事があります・・・(記事を見せる)。

  • 2007年2月20日、‘‘慰安婦’はもう十分不平を言った’
  • 2007年3月2日、‘日本の首相、慰安婦の申し立てに疑問’
  • 2007年3月8日、‘日本は慰安婦について再調査’
  • 2007年3月17日、‘日本大使召喚’

2007年3月17日に、バルケネンデ首相が日本政府に怒りを表明した記事を読んで非常にショックを受けたわけです。バルケネンデ首相は安倍晋三首相が第二次世界大戦中の「慰安婦」への強制性はなかったと発言したことに対する抗議を表明しました。この抗議の中で、バルケネンデ首相は「慰安婦」の中にはオランダ人女性も含まれていたことをはっきりと述べています。

2007年3月17日の記事の一部を読ませて頂きます。

フェーハーヘン大臣(外務大臣)は、いわゆる慰安婦についての政府の発言について、日本大使の説明を求めた。大使は外務省に召喚される予定。当決定は昨日閣議で決定された。バルケンエンデ首相は第二次世界大戦中の慰安婦の強制売春を否認した日本政府に対して怒りを表明した。その慰安婦の中にはオランダ人も含まれていた。(・・・)1993年以来、日本軍による強制売春と強姦は、娼館において組織的に行われたというのが公的な見解である。バルケンエンデ首相は新たなる否認は‘不愉快な驚き’と語った。首相は、オーストラリア、インドネシア、イギリス、アメリカなどの、犠牲者が住む別の国々において、日本の方向転換への苛立ちが大きいのがよく理解できるとしている。首相によれば、‘次ぎの段階へ進むことをお互い検討しなければならないかもしれない’のである。

私はオランダ人女性の慰安婦がいたという事実を初めて知り、非常に驚きました。

私はさっそく日本の新聞をサイトで見てました。ところが、バルケネンデ首相の抗議について触れた記事は私が見た限りではまったくありませんでした。オランダ側が安倍首相の慰安婦への強制性否定に対して、これだけはっきり怒りを表明したにもかかわらず、です。私は、日本に電話して家族にニュースでこの件が取り上げられているかどうか聞いてみたのですが、まったく報道されていないとのことでした。このとき、日本でもっぱら話題になっていたのは、北朝鮮の核問題でした。

日本でバルケネンデ首相の抗議がまったく取り上げられていないとのことで、私は二重のショックを受けました。日本側の慰安婦問題への認識と、外国の日本政府への批判との間に大きな溝が横たわっていることを改めて自覚せざるを得ませんでした。

ここで外務省のサイトに掲載されている、『慰安婦問題に対する日本政府の施策』(平成19年4月)の翻訳をお配りします。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/asia_jk_genjyo.html) アジア女性基金そのものは政府によるものではないので、アジア女性基金を通じての補償は国としての謝罪ではありません。個人の事業に政府が便乗したと言っても良いかと思います。(アジア女性基金についてはさまざまな議論がなされているので、本日はこれ以上深入りしません。)
お配りしたプリントの『慰安婦問題に対する日本政府の施策』の中の、「1.アジア女性基金への協力 (2)インドネシア」の項目を読んでいただけますでしょうか。

(2)インドネシア
日本政府は、アジア女性基金とともに、日本国民の償いの気持ちを表すためにインドネシアにおいてどのような事業を行うのが最もふさわしいかにつき検討してきたが、インドネシア政府が、元慰安婦の特定が困難である等としていることから、元慰安婦個人を対象とした事業ではなく、同国政府から提案のあった高齢者社会福祉推進事業(保健・社会福祉省の運営する老人ホームに付属して、身寄りのない高齢者で病気や障害により働くことの出来ない方を収容する施設の整備事業)に対し、日本政府からの拠出金を原資として、10年間で総額3億8千万円規模(最終的な事業実施総額は3億6700万円)の支援を行うこととし、平成9年(1997年)3月25日にアジア女性基金とインドネシア政府との間で覚書が交わされた。
なお、同施設への入居者については、元慰安婦と名乗り出ている方や女性が優先されることとなっており、また、施設の設置も、元慰安婦が多く存在したとされる地域に重点的に設置されることとなっている。最終的には69カ所の高齢者福祉施設が完成し、最終年度には、元慰安婦14人が入居する施設も建てられた。

インドネシア政府の要請により元慰安婦個人を対象とした事業ではなく高齢者社会福祉事業になってしまった時点で、本来の目的である謝罪の要素が限りなく薄れてしまっているのがおわかりいただけるかと思います。

この文書には元慰安婦が優先されると明記されていますが、実際は広報は行われておらず、入居者は一般の高齢者です。(『「慰安婦」問題が問うてきたこと』、p.13.)

インドネシア政府が実質的に元慰安婦を日本からの資金援助を受けるために犠牲にしたことは、NRCのWEEKBLAD(2010年4月24−30日)にも記載されています。
私はこのインドネシアの元慰安婦の特集を読もうとしました。けれどもこの表紙の写真の女性の目を見ると、罪の意識に駆られて読むことができませんでした。明日こそ読もうと毎日思いつつ、机の上に長く置かれたままでした。そう
こうするうち、村岡教授から同じ記事が送られてきてしまいました。そこで観念してやっと読んだのでした。この記事を読むのは本当に辛かったです。

その記事の一部を読ませて頂きます。

それは独立のためのやむを得ぬ犠牲、と初代インドネシア大統領スカルノはすでに言っていた。占領者である日本は、同時にオランダの植民地支配から国家を解放した解放者でもある。経済的補償を約束されて90年代についにその声を発した時、インドネシアの慰安婦は政府から“君達は罪を見せびらかすべきではない”と言われた。日本のアジア女性基金の金は国庫の中の高齢者福祉施設の建設費として消えた。女性達は一銭も手にしなかった。

オランダの慰安婦問題についてはオランダ首相のバルケンエンデ首相がはっきりと抗議している一方、経済的に日本に頼らざるを得ないインドネシアの場合は政府がまったく逆の立場をとったこと。そしてまたもや元慰安婦が政治的思惑の犠牲となったことは重い事実だと思います。

さて続けて「1.アジア女性基金への協力、(3)オランダの項をお読みください。

(3)オランダ
オランダにおいては元慰安婦の方々の認定が行われていないことを踏まえ、日本政府は、アジア女性基金とともに、日本国民の償いの気持ちを表すために如何なる事業を行うのがふさわしいかにつきオランダ側の関係者と協議しつつ検討してきた。その結果、平成10年(1998年)7月15日、アジア女性基金とオランダ事業実施委員会との間で覚書が交わされ、慰安婦問題に関し、先の大戦中心身にわたり癒しがたい傷を受けた方々の生活状況の改善を支援するための事業を同委員会が実施することとなった。

アジア女性基金は、この覚書に基づき、日本政府からの拠出金を原資として、同委員会に対し3年間で総額2億5500万円規模(最終的な実施総額は2億4500万円)の財政的支援を行うこととし、同委員会は79名の方に事業を実施した。この事業は、平成13年(2001年)7月14日、成功裏に終了した。

この資料だけを読むと、日本政府はアジア女性基金を通じてすでに犠牲者達に補償を行ったような錯覚に陥ってししまうのではないでしょうか。

二つの立場−オランダ側からみた慰安婦問題と日本側からみたそれの違いの大きさにはとまどいを覚えざるをえません。この両極端ともいえる二つの立場の間に横たわるもの、それが歴史的な認識の違いなのだと思います。
まず歴史的事実を知った上で、この二つの立場を再検討することが必要なのではないでしょうか。私を含め、日本人の多くが、韓国、中国の慰安婦問題については耳にしていてもオランダ人の慰安婦が存在したということはほとんど知らないのではないかと思います。インドネシア人の慰安婦の存在についても同様だと思います。
先ほどすでに触れたように私自身、オランダの新聞を読んで初めてオランダ人の慰安婦が存在したということを知りました。

日本における政府や歴史修正主義者達の慰安婦問題を批判する前に、まず私達一人一人が歴史的事実とは何かを考えなければならないと思います。
日本語の慰安婦問題の本を探してみると、一般的な「慰安婦問題」に関する本は出版されているものの、オランダ人の慰安婦問題についてテーマを絞った本はほとんどありません。
だからこそ2008年に出版された『「慰安婦」強制連行』 は大変重要な成果だと思うのです。 この本は、

  1. 太平洋戦争中、日本帝国陸海軍による当時のオランダ領東印度(インドネシア)占領下におきた、オランダ人女性に対する強制売春事件に関するオランダ軍バタビア臨時軍法会議の資料と解説、
  2. その関連資料であるオランダ政府調査報告書と欧州会議に於ける日本政府への謝罪要求決議の全文翻訳、
  3. 日中戦争末期の日本軍による強制売春の被害者の女性とその子を尋ねたルポからなります。  ・・・それは強制売春などではなく、強姦に他なりません。

すべてのオランダ語資料は村岡教授により翻訳され、解説はドイツ在住のジャーナリスト、梶村太一、ルポルタージュは糟谷廣一郎によってなされています。

この『「慰安婦」強制連行』を読んだ後、あらためてオランダの新聞の記事と外務省の資料を読んでみると、バルケンエンデ首相の抗議の重みと、日本政府の対応がいかに表面的なものかがはっきりと浮かび上がってくるように思います。
私はこの本を日本の多くの人に読んで欲しいと思うのです。

その理由は、第一になによりも、オランダ人の慰安婦問題を扱った本そのものが少なく、その事実がほとんど知られていないからです。

第二に、この本で取りあげられている文書は大変貴重な証言であり、軍法会議の判決文と証拠書類でるからです。その訳は世界的な言語学者である村岡教授によるという、大変信頼性の高い資料となっていることも重要です。

第三に、資料についての解説を書いたジャーナリストの梶村氏は第二次世界大戦後の日本とドイツのあり方の違いについて非常に興味深い記事を書いています。

もし、日本政府、歴史修正主義者がこの本を読んだとしたら、彼らは「慰安婦」への強制性の否定など絶対にできないと私は確信いたします。
加害者である私達日本人が過去の古傷を忘れたふりをしても、被害者側では決して忘れることはないでしょう。私達自身が同じ過ちを繰り返さないためにも、過去の事実を正確に知ることが一番大事なことではないでしょうか。
被害者の方達の苦しみを思うとき、この貴重な証言を無視してしまうことは、あまりにも非人間的行為と思われます。
過去の事実をしっかりと見つめることは、被害者の国に対する謝罪へのはじめの一歩であると同時に、日本自身のめでもあるのではないでしょうか。

ここで日本軍の捕虜の扱いについて触れさせて頂きたいと思います。

「あるアメリカの団体が、捕虜となったアメリカの名簿から、捕虜となり死亡したアメリカ兵の割合を地域別に算出しました。そのデータからは日本とドイツの差がわかります。ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2パーセントに過ぎません。ところが、日本軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は37.3パーセントにのぼりました。これはやはり大きい。日本軍の捕虜の扱いのひどさは突出していたのではないか。もちろん、捕虜になる文化がなかった日本兵自身の気持ちが、投降してくる敵国軍人を人間と認めない気持ちを生じた側面もあったでしょう。しかしそれだけではない。このようなことはなにから来るかというと、自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が、どうしても捕虜への虐待につながってくる。(・・・)このような日本軍の体質はもちろん国民生活にも通底していました。」(加藤陽子、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』、pp.397-398.)

この事実を「日本人もまた日本軍の犠牲者であった」とのみ解釈してはならないと思います。日本軍の捕虜の死亡率が37.3パーセントであったという事実はしっかり受け止めなければならない事実だと思います。そのことを考え合わせると、慰安婦問題は戦争という究極の状態で「偶然」発生した不幸なできごとなのではないと考えざるを得ません。だからこそ慰安婦問題は私達日本人が何をしたのか、そしてこれからどうするべきか、自己のあり方を問いかけてくる問題なのではないでしょうか。

ここまでは日本の‘全体的罪’についてお話いたしましたが、ここで個人の行動の重要性について触れたいと思います。
『「慰安婦」強制連行』の中に、 小田島董大佐という人物が登場します。彼は 陸軍省俘虜管理部に所属し、1944年4月に東京から抑留所の調査のためスマランへやってきます。抑留所のオランダ人リーダーから、若い女性達が強制連行された旨を直接訴えられた小田島はただちに東京の陸軍省、およびシンガポールの南方軍司令部に慰安所封鎖の意見書を送ります。そして5月10日にはジャワ島のすべてのヨーロッパ女性のいた慰安所は閉鎖されたのです。

『「慰安婦」強制連行』に記載されている「スマラン事件軍情報部調書・宣誓尋問調書」にその時のいきさつが具体的に描かれています。

「44年4月末、朝7時半頃、日本軍の大佐が副官を伴って抑留所に現れました。彼は以前にも視察に来たことがありましたので、彼がスマランの本部から来たものと、私たちは結論しました。早朝だったので (−ママ)は抑留所にまだ出てきていませんでした。私たちは、たちどころに、若い女性たちについての希望を述べました。すると、彼は、この事情にまったく通じていないのが、私たちには読み取れました。これまでの経過を私たちの方から説明しますと、名前と番号を提出するように私たちに求め、家族はできるだけ早く娘たちのところへ行けるようにすることを力を込めて約束しました。」(Nelfis16.BN3209.- 『「慰安婦」強制連行』, p.129.)

小田島大佐が、抑留所のリーダーの訴えに耳を貸し、たちどころに判断し、行動に移したことの意味は大きいと思います。
社会の倫理的基準は移ろいやすいものであるように思います。特に戦争のような究極の状態においては極端に変わりうるものではないでしょうか。それだからこそ、戦争期における個人の良心と選択に想いを馳せざるを得ません。一人の人間はすべてを変えることはできません。けれどもたった一人の人間の良心と選択が多くの人を助けることもありうるのです。たった一人の人間、つまり「私」、または「あなた」が何かできるということは、希望でもあり同時に責任でもあると思うのです。「私」、または「あなた」は何かをやらなければならないのですから。
日本政府と歴史修正主義者を批判することはたやすいことです。けれども慰安婦問題と真摯に向き合うのは簡単なことではありません。

私自身、こうしてここに来ることは、大変苦しいことでした。ここにはインドネシアで日本軍の収容所で大変な思いをされた方達もいらっしゃるのを知っていましたから
このスピーチの原稿を用意するために資料を読むにつれ、日本の犯した罪を感じ、恥ずかしく思い、できるならば逃げ出したい思いだったのです。

そんな中、この会の司会をされた星野さんの言葉には目から鱗が落ちた思いでした。
星野さんは、「この会では様々な人に会えるのが楽しい、また戦争の経験を持っている人達に会って話を聞くことで、学ぶべきことがたくさんある。」というメールを下さり、星野さんがここでこうして皆さんに会えるの心から楽しみにしていらっしゃっるということにに励まされ、明るい気分でここに来ることができました。星野さんはつい2日前にメールでエルスさんの笑顔について語ってくれた。私はエルスさんに会ったことはありませんが、星野さんの描写から彼女の美しい人柄が偲ばれました。

今日皆さんに会えてとても嬉しく思います。
加害者の国の日本人の代表としては、荷があまりにも重過ぎて私は何もできません。けれども横畑由希子という個人としては、私は皆さんと話し、皆さんのことを知りたいと思います。
皆さんの意見、経験を教えてください。皆さんの意見と経験を私は忘れたくありません。
歴史を学ぶものとして、私は皆さん一人一人の歴史とその貴重な証言を心に留めて日本の若い人達に伝えることができればと思います。
今日こうしてここに来てくださった皆様、毎年この会をオーガナイズしてくださっている皆様の一人一人に感謝したいと思います。

有難うございました。

〈参考文献〉
 ・大森典子、川田文子『「慰安婦」問題が問うてきたこと』、岩波書店、2010.
 ・大沼保昭、『「慰安婦」問題とは何だったのか』、中央公論新社、2007. 
 ・梶村太一郎、村岡崇光、糟谷廣一郎、『「慰安婦」強制連行』、金曜日、2008.
 ・加藤陽子、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』、朝日出版社、2009.
 ・保阪正康、『昭和良識派の研究』、光人社、2005.






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