こんにちは、田中です。
相手に私を好きになってほしい、という欲求がある。
だが、そもそも、人が相手を好きになるとは、何を好きになることなのか?
「あなたのことが好き」とか、「あなたを愛してる」と言われるとき、誰を指してるんだろう。
「あなた」とは、何を指しているのか。
身体のことだろうか、人格のことだろうか。
「1人の人間に対してだ、決まってるだろ!」
たしかにそうだ。1人の人間を好きになるとは、どういうことだろう。
誰かのことを好きと言うとき、その人の性質や機能を好きだと考えて、好きだと言いますよね。
人の性質や特徴を完全無視して、「とにかくこの人だから」という理由で、誰かを好きになることはない。
例えば、私が女性に対して「私はあなたを愛してます」と言う場合、私は彼女の見た目や雰囲気という性質を愛しているだろう。
彼女のかわいい顔とか、見た目に対して、好きという感情を持っているかもしれない。
または、彼女の強気な性格とか誠実さとか、優しさなどの性質を愛しているだろう。
彼女の優しさという性質に対して、好きという感情を持つ。
彼女という何か固有の確固とした存在が好きだというよりは、私が好むいろんな性質や特徴を、彼女が持っているから、私は彼女に魅力を感じる。
もしそうなら、「あなたのことが好きです」と言うとき、それは、何か全く独自の存在を好きなのではない。
相手の人間の持つ性質や機能の集まりに対して、好きだと感じる。
私が持つ、いろんな条件や特徴の集合体が、相手に愛されている。
私という何か特別な存在など関係ない。
だから、もしその性質や特徴が失われれば、自分は相手に愛されなくなる。
好きな人の外見や記憶や性格が変わったらどうなるか
もし、自分が好きな人が、全く別人の外見や顔や体になってたら、自分はその人を好きでいられるだろうか。
もし、自分の彼女が、ある日記憶をなくし、別の記憶を持ち、趣味も性格も人格も変わってしまったら、自分は彼女を好きでいられるだろうか。
「そんなこと現実ではありえないんだから、そんな不毛なこと考えても無駄だろ」
そう言われるのはごもっともだが、相手を好きになるとは何を好きになることかを考えるため、あえて考えてみたい。
私はたぶん、相手のことを好きではなくなると思う。
多くの人もそうだろう。
それでも相手のことが好きだと言えるのは、相手と自分が一緒に過ごした時間とか記憶があるから、かもしれない。
その場合、共有した時間や記憶を愛する、ということかもしれない。
そもそも、「私」なんて存在するんだろうか?
そもそも、「私」という何か特別な存在があるかどうかも疑わしい。
「オレは・・・」とか「自分は・・・」と考えるとき、何か特別な存在があるような気がするのだが。
食欲も睡眠欲も、性欲も、生物の欲求だから、自分という特別さとは違う。
承認欲求も、名誉欲も権力欲も、私という特別さではない。
身体はもちろん自分だが、何か特別な意思、みたいなものがある気がするというか。
何か、特別な意識があると思いたいわけです。
私という何か絶対的な特別で固有のものが存在する。
私は人から私自身を愛してほしい。
だから、・・・
という論理がある。
しかし、「私を愛してほしい!」と思っても、その「私」とは非常にあいまいだ。
いろんな欲望が集まったものを自我と呼んでるだけな気がする。
バートランド・ラッセルが言うように、「私」とは、いろんな性質や特徴の集まりであるかもしれない。
例えば、顔とかルックスとか性格とか、記憶とか。
「私」とか「彼」とか「彼女」とか、「〇〇さん」などと、誰かを呼ぶとき、もちろん1人の人間を指している。
そして1人の人間を指すとは、その人の体の特徴や、性格や記憶などの人格を指しているだろう。
だから、「私」という何か絶対的で特別なものなど存在しない。
存在するのは、いろんな性質や特徴の集まりだ。
言い換えれば、性質や特徴が組み合わさっているかによって、その人間の独自性が生まれる。
身体や人格や行為などのいろんな性質の組み合わせによって、私の個性や独自性が生まれる。
性質や機能を高めることによって、相手から選ばれる
以上のことを前提にすると、恋愛で相手に好きになってもらうには、相手が好む性質や特徴や機能を、いろいろ持っている必要があると言える。
だから、性質や機能がないのに、相手から好かれようなんてのは、不可能ということになる。
何か、相手が価値を感じる性質を、持たなくてはならない。
「私」という何か特別な存在が愛されるのではない。
自分が持つ性質の束が、相手に愛される。
まとめ
・人は、相手自体ではなく、相手の人間の性質や特徴に対して好きだと感じる。
・好きな人が別の姿や記憶や性格になったら
・何か不変の確固とした、独自の存在みたいな「私」は存在しない。
「私」とは、いろんな性質や特徴や機能の集合体だと思う