手紙を書くときって相手がどうやったら自分の思いを読み解いてくれるか、どうしたら伝わるか試行錯誤しながら書いていくと思うのですが、おそらくSNSもそうあるべきなのだろうと考えたりします。
書く側の人に何がしかの責任が生じるわけではないのだけれど、それでも書く人というのは自分の気持ちや考えていることを誰かに伝えたいから書くのであって、そういった不安と期待を抱きながらの心のやりとりを続けていくなかで共感を得て、讃美を得て喜びを実感していくものなのだろうと思うんです。そして書くことによって読む人は救われ、読む人によって書く人は救われるのでしょう。私にとって書くこととはそういうものであってほしいという期待が多分にあります。
そして書き手でもあり読み手でもある自分は最近のブログってなんか読者の気持ちなんておいてけぼりなんだなぁというさみしさを感じています。最近こんなことばかり言っているけど。わりと心をないがしろに扱うというのは世の中の動きとしてあって、なんというか心に衝撃を与えられれば良いというものが増えているような気がします。それが傷でもなんでも御構い無しでとりあえず印象に残って目にとまればいいという程度のもの。それが良いか悪いかは私は決められないけどここで断言できることとしては私はそれがさみしいという話なのです。
じゃあ前が良かったのかな。前がそんなに良かったのかな。そうやって考えてみたらそういうわけでもないのですけど、ネットの先に何があるかというと間違いなく人なんですよ。スマホやパソコンの画面の向こうには理路整然無機質な感情の人間がいるわけではなくて、癇癪もちの激情型の涙脆くて弱くて優しい人がいるかもしれないわけで。私達は紙に書くかネットに書くか方法が違かったとしても人の心とやりとりをしていることは変わりがないし今後も時代が流れて手段や方法が変わったとしても人の心とやりとりをしているということはずっとずっと変わらないことだと思うんです。
だから人の心を弄んだりわざと傷つけたり心をないがしろにすることなくできるだけ誠実に向き合いながら他人とのやりとりを大切にしていきたいと思います。そろそろ天下一品行きたい。
「自分が嫌な思いをしたから他人が同じ様な思いをしないようにと考える人」と「自分が嫌な思いをしたから他人も同じ様な思いになるべきと考える人」の溝は深い
— ポンコつっこ (@ponkotukko) 2016年5月24日