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  ■宇治の被爆者・原野さん

   「はなむけの意志である」7月、長崎で初個展 

 宇治市の被爆者、原野(はらの)宣弘(のぶひろ)さん(71)は71年前の8月、原爆が投下され焼け野原となった長崎市の爆心地付近を母におぶわれ行き来した。「被爆者として生きた証しを残したい」。病気を抱えながら平和を願う絵を描いてきた。7月、初めて故郷・長崎で個展を開く。

 原野さんのおなかには、胃につながるチューブが出ている。そこから栄養分を胃に送る胃ろうを5年前からつけている。「ほんまに大変ですよ。昔は1時間半かかっていました。今は1時間でだんだんできるようになった」。40歳ごろから脳出血や脳梗塞(こうそく)などの病気に苦しんできた。胃ろうも病気の影響だ。言語障害でろれつが回らず、時折苦しそうにしながらも語る。

  ▽生後10カ月

 長崎に原爆が落とされた1945年8月9日、原野さんは生後10カ月。父喜一さんは爆心地から2・5キロの自宅近くの造船所で働いており、その日も仕事に出ていた。だが、翌10日になっても帰ってこなかった。母センさんは11日から爆心地付近を何度も歩き、遺体を確認しながら喜一さんを捜した。その背中に原野さんはおぶわれていた。

 1週間ほどして、センさんは喜一さんが仕事で運んでいた機械を見つけた。そばには骨が散乱し、喜一さんの弁当箱と腕時計があった。爆心地から300メートルほどの至近距離だった。

 母や姉から聞いたその時の話を元に、原野さんが描いた絵がある。2011年に描いた「ハトはどこへいく」と題した作品。鏡の中に描かれるマリア像はセンさんの姿を投影した。喜一さんの亡きがらを前に、途方に暮れる姿だ。鏡の周りは赤で塗った。「人間としてあるまじき行為に対する私の怒りの爆発」という。

 喜一さんを失い、センさんは働きながら原野さんら5人の子を育てた。「苦労しているとは言わなかったですね。我慢強く、芯が強かった」

  ▽再三病魔に

 原野さんは高校卒業後、大阪に出て商社に就職。40歳の頃には会社をやめ、独立した。その頃から再三病魔に襲われるようになる。脳出血、脳梗塞、心筋梗塞……。「原因は原爆以外に考えられない」。08年、医療特別手当(月額約13万8千円)を受給できる原爆症の認定を申請した。だが、2年後に却下された。

 11年には原爆症認定を求める大阪地裁での集団訴訟の原告となった。だが、体調が悪く、法廷にはほとんど出ることはできなかった。14年に宇治市であった裁判官らの出張尋問では、訴えを文章にして弁護士に託した。「なんでこんな病気をせねばならないのか、誠に理不尽としかいいようがありません」。だが、昨年1月に敗訴。大阪高裁に控訴している。

 病気を重ねた原野さんが打ち込むのが絵だ。脳梗塞などの影響で残った後遺症のリハビリのためでもあったが、被爆者として、平和への願いを残したいという気持ちがあった。「このまま死ねない。原爆の苦しみはもう他の人には味わってほしくない」。病気で原爆への憎しみが芽生えたが、絵を描いているときは心が落ち着く。

 7月19~24日、原爆をテーマにした絵に加え、長崎の光景を描いた作品計約50点を長崎市の長崎県美術館県民ギャラリーで展示する予定だ。「長崎におった人間が、外から見てどういう気持ちでおったか知ってほしい」と来場を呼びかける。

 開催を申し込んだ際には、原爆で亡くなった父・喜一さん、原野さんを背負って喜一さんを捜して回り、戦後苦労しながら育ててくれた母・センさんのことを思い、書類にこう書いた。「これは亡き父親と母親へのはなむけの意志である」