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人生の悲劇は「よい子」に始まる ―見せかけの性格が抱える問題 (PHP文庫) 加藤 諦三 PHP研究所 1994-01 by G-Tools |
強制されたものが自発性をつぶす、自分らしく生きさせなくなるというテーマで本を読んでいるのだが、そういう問題は「いい子」や「優等生」にひずみがたまっていると思い、もう二十年前ほどに読んだ加藤諦三の本をひっぱりだしてみた。
もう、いまは加藤諦三の考えにはかなり疑問をもっている。
加藤諦三は問題を心理的・性格的なものに帰してしまい、社会関係や考え方、捉え方がまちがっているという次元を見逃している。それは心理的な問題ではなく、考え方の問題で修正できるものではないのか。
90年代は加藤諦三が問題にしていたようなアダルト・チルドレンやトラウマといった問題が、マスコミや世情をにぎわせた。だけどこれは社会や対人の関係で自分を抑えて、対立を避ける社会関係が世を風靡していて、同じように多くの人に共有されていた性格傾向にすぎないのではないか。
加藤諦三が依拠していた心理学的バックボーンは交流分析で、ミュリエル・ジェームスやロロ・メイ、カレン・ホーナイやアリス・ミラーといった引用名をよく見かけた。幼少期に精神的虐待や性的虐待をうけて、神経症になるといった理論である。幼少期にさかのぼって問題を見つけ出し、トラウマを見つけ、親を目の仇にし、そのときの感情を生きろといった理論をとなえた。
しかしその後、過去が問題であるより、いま、どういう考え方をもつかという捉え方の方が妥当と思うようになった。
アダルト・チルドレンが問題とする自分を抑える、自分に価値がないと思う、他人の顔色や称賛、愛ばかりをもとめて、自分のしたいこと、自分の欲求を抑えつける。こういった性格傾向は親によって形成されたかもしれないが、それはげんざいは、考え方として自分を縛っている。
たとえば、孤独で孤立することは悪いことだ、人格的に問題があるといった考え方であったり、人から称賛されたり、求められないと価値がないという思い込みをもっていたり、友だちや恋人とうまくいかないのは自分の性格や心理に問題があるといった考え方だ。
自分を抑圧し、他者に迎合し、自分の価値は他者の愛や称賛にしかないと思い込むことは、考え方の一種にすぎない。その考え方を訂正・修正すれば、そのような性格や生き方は訂正できるのである。認知療法や自己啓発では、考え方の修正がおこなわれる。
100万部を突破したといわれるアドラーを紹介した『嫌われる勇気』も、人から嫌われる、孤立することを恐れて、ひたすら他者に迎合する、自分を抑える性格傾向への解答として、読まれたものだと思う。これは、考え方の問題なのである。
たとえば、嫌われることや孤独になることを正当化したり、積極的に評価する考え方や本を読めば、それが解消するほうへすすめるだろう。幼少期の問題やトラウマが原因といくらあげつらっても、問題は解消しない。
われわれは外発性によって学校や仕事を強制され、自発性といったものをあまり重視されない時代を生きてきた。そのことによって、自分のしたいことがわからない、ほしいものがない、自分らしく生きられないという悩みを抱えてしまったのではないか。
そういう外発性で生きてこざるを得なかった人は、世間体や社会的体裁のいい大企業や有名企業にマジメなサラリーマンとして勤めたりして、収入もよく世間でも好評で、しかし、自分のほんとうにしたいこと、自分らしく生きていると感じられているだろうか。
外面のいい人生を生きると、「いつわりの自己」が問題になる。自分のほんとうに生きたかった人生を生きているだろうか。
よい子や優等生とよばれる人たちは、体裁のよい成功した人生を生きているが、ほんとうに満たされた人生を生きているのだろうか。
20世紀の工業社会は強制や外発的動機によって、人々を学校や企業に駆り立てた。しかし創造社会とよばれる楽しみや娯楽が重要になる時代には、なにより自分が楽しむこと、熱中して自発性をひきだす能力が必要になる。外発性で駆り立てられてきた人たちはこの時代にうまく適応できるのだろうか。
外発的に強制されてきた人たちは、ほかの人が楽しんだり、喜んだりする製品やサービスを生み出せるだろうか。
外発と自発性という問題は、性格類型のみならず、経済や社会、文化全般にも関わってくる問題だと思う。外発性だけで文化や経済は興隆・成長するだろうか。
個人や心理の問題と思われていたものは、経済や一国の興隆とも関わる内発エンジンの問題ではないだろうか。
強制されて、外発で釣られていた教育や労働といった世界でも、この経済社会ではすでに阻害要因となっているのではないだろうか。強制され、むりやり、いやいやさせていた教育や労働で、世界の人たちがほしがる楽しい商品やサービスを生み出せるだろうか。
強制されるものがいかに社会の創造力や活力を殺してきたか、ひとり人格の問題ではもはやなくなっているのではないか。
「強制的人間観」といったそのものが問われているのではないかと思う。
▼人から嫌われたり孤独になっても平気になるための本
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