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■長崎県の旧矢上村(現・長崎市矢上町~東町)

 西彼杵郡矢上村は、現在の長崎市矢上町や同市東町にあたる地域にあった。現在は「矢上団地」の名で知られる住宅地だが、戦前はコメやサツマイモを育てる農村だった。1955年に古賀、戸石の旧3村で合併して東長崎町となり、63年に長崎市に編入された。

 矢上村は爆心地の東5~8・6キロにあたる。長崎市中心部から車で20分ほど。かつては日見峠を越え、半日かかったという。原爆が落ちたときは、爆心地から山を越えて村にまで爆風が押し寄せ、住宅の窓ガラスが割れた。黒い雲が空を覆い、灰やちりが降り積もった、という証言もある。爆心地からおおむね7キロを境に、村の西側は76年に被爆地域になったが、東側は認められてこなかった。

 私が取材を始めたのは、2月の被爆体験者訴訟第2陣の長崎地裁判決で、村の東側に住んでいた人が被爆者と認められたことがきっかけだ。村で暮らした2人の体験から当時の風景をたどり、原爆の影響を探ってみたい。

 矢上村で暮らしていた大町(おおまち)リキ子(こ)さん(83)=長崎市東町=の実家は、現在の同市かき道地区にあった。父は竹の籠を作る職人。近所で栽培が盛んだったモモやビワ、矢上村の東隣にある漁村の戸石で水揚げされた魚を入れるための竹籠は、「今で言う出荷用の段ボール」(大町さん)だった。

 11人のきょうだいの中には出征して帰ってこなかった兄もいた。父の弟子を加えた15人ほどでの暮らしは、籠の出荷で農家や漁師と付き合いがあったため、食べ物がしばしば手に入ったという。「にぎやかで、よそよりは少しは余裕があったと思う」と振り返る。

 1945年、大町さんは矢上国民学校に通っていたが、「戦争で勉強はぜんぜんできんかった」。5、6年生になると、近くの山を開墾してサツマイモを植えたり、標高439メートルの矢上普賢山に上って松の油をとったり、という日々だった。「耕すために、くわをきつくにぎると、手にまめができて痛かった。きつか作業やった」

 45年8月9日。矢上村に住んでいた大町さんは3歳の妹を世話するため、国民学校を休んでいた。朝から近くに配給をとりに行き、家に帰って妹を乗せたリヤカーを置いた瞬間、ピカッと光った。「熱(あつ)かね」と、ほおに熱を感じたかと思うと、ドーンという音が鳴った。「何が起こったかさっぱりわからんかった」。けがはなかったが、激しい風が吹いて自宅の障子が壊れた。しばらくすると空は黒い雲で覆われ、太陽は「真っ赤になった」。家のまわりには灰が降り積もった。