「将棋に似たゲーム」とは何なのだろうか?

発端は、橋本崇載八段の次のいささか不可解なツイートから。

「将棋に似たゲーム」とは何なのだろうか?私には橋本八段の真意はよくわからない。というか、このツイートだけでは誰にも正確にはわからないのではないかと思う。

コンピューターの将棋は異質だと言いたいのか、それとも機械と人間とでは条件的にフェアではないと言いたいのか、計算機に人間が敵うはずがないと言いたいのか、人と人とやるのが将棋本来の姿でありそれ以外は将棋ではないと言いたいのか、それらをわざとぼかして書くことに味があるのか、etc…。

無論、このツイートの本意は、山崎叡王に対する労いの言葉であり、それは橋本八段の優しさが発露したものであるのだとは思うが、だとしてもこのタイミングでそのへんの説明が不足したまま、他の関係者も多くが見ているなかで言うべきではなかったと私は思う。特に将棋ソフト開発者にしても将棋を指せるソフトを長い時間かけて作っているわけで、「将棋に似たゲーム」を指せるソフトを作っているわけではない(つもりである)から、それを「将棋に似たゲーム」と称するのは発言の真意はどうであれ、開発者のコミュニティに爆弾を投げ込むようなものである。

とりあえず、私は上の橋本八段のツイートを「計算機に人間が敵うはずがない(計算機に人間は負けて当たり前である)」というよくありがちな言説だと解釈し(おそらくその解釈は違うのだろうと思いながらも)、そう仮定した上で反論のツイートを書いた。それに、力の限り戦った山崎叡王に対して「あれは将棋と似て非なるものだから負けたことは気にするな」とも受け取れる発言は、山崎叡王に対して逆に失礼ではないかとも思い、そんなことからも私はやや感情的になってしまっていたというのもある。

末尾のツイートで「おわり」とあることからも、上の一連のツイートはここで終わりである。

しかし、これに続けて次のツイートも私はしている。これは上の一連のツイートとは無関係のつもりであったが、これも橋本八段へのツイートと捉えられても仕方がないし、それに関して、言い訳がましいことを言うつもりはない。

橋本八段、いや、ここでは親愛を込めてハッシーと呼ばせてもらおう。ハッシーは、おそらく「計算機に人間が敵うはずがない(計算機に人間は負けて当たり前である)」と言いたいのではなく、「人と人とやるのが将棋本来の姿でありそれ以外は将棋ではない」と言いたかったのだと私は思う。私はそのことを薄々感づきながら、あえて前者の主張だと解釈して反論した。なぜなら、電王戦のテーマ(ドワンゴの川上会長の考え)が前者に立脚するものであって、後者は、電王戦自体の否定に繋がるからである。将棋連盟のスポンサーたるドワンゴが運営するイベントの批判を、将棋連盟に所属する棋士がやっているように見えるとまずいのではないかとハッシーの立場を心配してのことだ。しかし、よく考えてみれば、私のそんな心配は無用だったのかも知れない。前回の電王戦の最終局でAWAKEの開発者である巨瀬さんを庇って次のようなツイートをしてくれたハッシー。

ハッシーが上のようなツイートをするのは、その立場的にまずいのではないかと思う。でもそんなの気にしないのがハッシー。男らしさのなかに、人に対する優しさが見え隠れしているのがハッシー。

今回のTwitterの一件、私が勝手にハッシーの発言を歪めて(?)解釈して、批判をしたのはすまなかったと思っている。ただ私は発言を撤回する気はないし、ハッシーもまた、釈明も何もする必要はないと思う。見る人が見れば、ハッシーの言いたいことも、その優しさもちゃんと伝わっている。だけどハッシーの発言に、将棋ソフトの開発者としてカチンときたので一言言わせてもらったというだけ。私はハッシーに対して悪い印象は全く持っていない。そのことだけは書いておかないとね。


「将棋に似たゲーム」とは何なのだろうか?” への1件のコメント

  1. お疲れ様です。ツイートと投稿をして頂き、有難うございます。月並みな言葉になりますが、私の心に強く響きました。

    将棋というゲームの定めかもしれませんが、勝ち負けだけが強くフォーカスされるのは、少し悲しく思います。

    開発なさる皆さんの努力や、将棋ソフト、ひいてはプログラミング自体の意義に加えて、自身の人生、時に命をかけて対局する棋士の先生方の能力や将棋を指すことの魅力を含めて、皆さんに知っていただけるといいなと思います。

    私は関わるすべての皆さんをこれからも応援します。

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