山路を往くと、そこにはまだ鶯が鳴いている。山の鶯はまだ啼き方がへたで、ホーホケキョのホーの部分をたっぷりためて歌うことができない。
そこで、私が啼き方を伝授してやることにした。へたな者どうしで競争していては、この程度でも恋人が得られるものと、高をくくってしまうからである。
はたして私が歌ってやると、しばらくうっとりと私の啼き方を聴いていたかと思うと、やがて次々に鳴き交わして近寄ってくる。近くに侮りがたいライヴァルが出現したと思うのであろう。明らかに複数の声で方々から啼くのが聞こえてくる。よく聴くと、声のピッチも違えば、歌い方のクセも違っているが、どの鶯もおしなべて下手である。
上手な鳥だと、ホーォホケッキョのように歌うものだ。このホーォの部分が特に重要で、ホーと少しピッチを上げた後、ォの部分で心もち抑え気味にする。そして、ためにためておいた力を一挙に吐き出すかのように、巻き舌を使ってケッキョをすばやく転がすのだ。そうすると、女心はいちころである。
そうして5〜6分も口笛で模範演奏を聴かせてやっていると、比較的器用なひとたちは、以前より格段に上達したようである。もちろんまだ師の演奏に遠く及ばないのは致し方ない。
かつて、アッシジの聖フランチェスコは、小鳥たちに福音を説き聞かせたといわれているが、私の場合も、鶯に鳴き方を教えたという点が評価されて、列聖の参考にされないとも限らないと心配している。まあ、いずれにせよ百年以上後のことだろう。
もちろん私は、列聖してもらいたいわけではない。考えてみれば、カトリック教徒ですらないのだから、列聖される心配は、まずないのである。ただ、私が教えた鳥たちが、口伝えで他の鳥たちに私の歌を伝承し、蓼科山のほとんどすべての鶯が、私の孫弟子、ひ孫弟子になることを思うと、愉快である。