【コラム】怒りの余りなぜ怒っているのかを忘れてはならない

雑居ビルトイレ刺殺事件、江南駅10番出口に渦巻く怒り

 これまでのことを振り返って考えてみると、悲劇が起きた後の哀悼はほとんどが同様の流れをたどっているように思う。犠牲者のための哀悼の意が敵に対する憎悪の炎に変わっていく。最近の出来事で言えば大型フェリー「セウォル号」沈没事故犠牲者への哀悼の気持ちが代表的な例だ。その矛先は明確ではなかった。大統領から政府・与党へ、そして韓国という国へ矛先が向けられ、ついには哀悼の場で韓国国旗「太極旗」を燃やすとんでもない人々まで現れた。理性が抜け落ちてできた穴を憎しみが埋めたのだ。こうした流れに多くの人が背を向けた。怒りの声はそうしたとんでもない人々の力を弱らせていった。哀悼の気持ちは分裂を引き起こし、傷が癒えることはなかった。

 著書『怒れ!憤れ!』で有名な元レジスタンスの作家ステファン・エセルは、怒りがわいてあふれる状態を「激憤」と定義し、「度を超えて憤怒してもいけない。激憤は希望を否定する行為だ」と述べた。相手にかみ付こうとばかりする姿勢は、問題解決の希望をなくすと指摘したのだ。哀悼は悲しみの力をもとに、現実改善の意志をまとめるものでなければならない。激憤する余り、なぜ激憤しているのかを忘れてはならない。

 死を記憶しようとする意志は、世界を変えるための法にもなる。19日に「シン・ヘチョル法」が可決された。2年前に人気歌手シン・ヘチョルさんが医療ミスで命を落とした時、彼を知る人々はすべての医師を敵に回すことなく、過激なスローガンを声高に叫んで世論から遠ざかるようなこともしなかった。遺族・仕事仲間・ファンらは哀悼コンサートを開き、国会を訪ねて「不慮の死を遂げた医療事故犠牲者を救おう」と訴えた。そして、ついにその土台が築かれた。悲しみが怒りや傷だけで終わらずに、次へつながったのだ。今回のこともそうあるべきだ。

チョン・サンヒョク・デジタルニュース本部記者
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