■当初なぜ、ペットボトル「伊右衛門」を断った?
福寿園は今年で創業226年目、福井家は創業者の福井伊右衛門から数えて、私で8代目になります。
創業の地である京都・山城は、もともと伊賀街道と奈良街道の交点で、名古屋、大阪、京都、奈良のちょうど交差点に当たり、交通の要衝として諸物が集まりやすい土地でした。貿易でも“東の神戸”といわれるくらい繁盛したことで、お茶も集まってきたのです。
もともと創業者の伊右衛門は綿など諸物を扱っていましたが、お茶一本に絞り商いを拡大させてきました。ただ、福井家の家訓「無声呼人」、文字通り、「声なくして、人を呼ぶ」を最初に誰がいつ掲げたのか正確にはわかっていません。親父もこれが家訓だと聞いていたようですが、早くに亡くなったので、細かい話は聞けませんでした。
戦後、バナナの叩き売りというものがありましたが、そうしたかけ声で売るのではなくて、良いものは自然に売れていく。逆にいえば、徳を積むこと、自分を磨くことによって人が集まる。お金を儲けるというより、商品にも徳や品格が必要であり、それがあれば、自然と商売は成り立つという意味が込められています。
そして、もう1つの家訓と言うべきものが、「つもり十訓」です。「儲けるつもりで損するのが商売」「あるつもりでないのが財産」「ないつもりであるのが借金」「飾るつもりで剥げるのが嘘」……と私の寝室にかかっていたので今でも簡単に暗唱できるほどです(笑)。これは社員にも読ませており、「無声呼人」と一緒に社員手帳に載せています。
実はこうした家訓はすべて「今日の利益のためよりも、明日の利益のために何をしたか」ということを実践するためにあるといっていいのです。サントリーさんから最初に「伊右衛門」のお話をいただいたときも、一度断りました。我々は家業でお茶屋をやっていて、事業のサントリーさんとは違う。私たちにとって大事なことは、のれんを守ることであり、次の時代に引き継ぐことです。私だけが思い切って、好き勝手するわけにもいかないのです。当時、うちはどちらかといえば贈答品がよく売れていましたから、有名になるということは品格を下げることにも繋がりかねなかった。
私は「ブランドは消耗品である」とよく言うんですが、ブランドは守っていてはいけない。育ててこそ、ブランドの価値が出るのです。ただ、広く使われるとブランドの効果はそれだけ薄くなり、大衆化してしまう。だから、ずいぶん悩みました。仏壇や墓にも参りました。ご先祖様の「伊右衛門」という名前を使うということは、本来最後の手なんです。それは先祖からの歴史を全部懸けるということですから。
そんなとき福寿園の歴史を振り返っていると、その時代に価値ある企業であったからこそ、生き残ってきたのだということを再認識しました。単に守るのではなく、その時代に価値あるものを提供してきたからこそ今日がある。
うちもお茶屋で初めて、缶ドリンクを出した経験がありますから、そのときからペットボトルの時代になることはわかっていました。「ペットボトルが売れるからやりましょう」だったら、うちがやる必要はなかった。でも急須離れがあって、「急須で出すのに近い味をペットボトルでも出したい」というお誘いがあった。だったらやりましょうと。
でも、私は「二兎を追う」のが好きなんです。経営判断において2つの選択肢があった場合は、必ずどちらも正しいんです。1つだけ正しいということはない。経営には常に複数の案があるということです。だから、どちらを選んでも正しいわけです。「伊右衛門」をやって良かったし、やらなくても良かったかもしれない。どちらも一緒です。成功するまでやればいい。
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