12/25/2015/WED
山村先生のこと
山村良橘先生について
山村良橘先生は、1970年代後半から1980年代半ばまで、大学受験予備校、代々木ゼミナールで世界史講師をしていいた人物。
『世界史年代記憶法』が1976年に出版されているので、遅くとも1976年には、代ゼミで教えていたことになる。先生は、予備校講師の時期だけでも、多くの生徒を指導していただろう。都立高校教諭の時代を入れれば、さらに数は多くなるはず。
にもかかわらず、ネット上で得られる山村先生の情報はきわめて少ない。「講義を受けていた」程度の記事はみかけても、講義でしばしば語られた含蓄ある言葉を紹介しているサイトは、私の調べたかぎりでは存在していない。
このページでは、1985年から1987年まで、山村先生の講義を受講した一受験生の思い出とともに、歴史家、教育者、そして思想家としての山村先生について、私の知る限りのことを書いておきたい。
仮に1975年に60歳で都立高校教諭を退職して代ゼミ講師となったとすると、私が受講した1985年ですでに80歳になっている。これはいかに何でもおかしい。後述するように成年は1920年前後と推定されるので、50〜55歳ぐらいで予備校に引き抜かれたのかもしれない。
そうだとしても、1985年で70歳前後ということになる。代ゼミでは、原則として講師は立って講義をしなければならない。腰痛がひどいので、自分だけは例外で座ったまま話すことを認めてもらっていると聞いたことがある。
いずれにしても、私が受講した1985年の時点で、山村先生はかなりの高齢だった。いつまで講師を続けたのか、いつ亡くなったのか、ネット上では情報は得られていない。
ふだんは望んでないことだが、このページについては、読者からの反響や新情報を期待している。
個人的な回想は、後回しにして、まず、本拠地、代々木ゼミナールから1986年に出版された『山村の世界史人物事典 欧米篇』(以下(『欧米篇』)に書かれた公式の略歴を掲載する。読みやすくするため、適宜、改行を入れた。
北海道小樽市出身。海軍経理学校2号生徒で敗戦を迎え、戦後小樽高商を(現小樽商科大)、東北大学経済学部を卒業。都立高校教諭となり、この間一橋大学社会科学研究科修了。英語を教えながら歴史を独習し、いつのまにか世界史の教師となった。都立日比谷高校を最後に退職。現在代々木ゼミナールで世界史教育に専念している。
世界史概論・細論からなる「世界史テキスト」(非売品)は全国に名声が高く、「世界史年代記憶法」(代々木ライブラリー)は受験生必携の書としてベストセラーズの一つ。山村世界史の受講者は10数年間に10万人に近く、現在も週30コマ(各90分)前後の講義をこなしている。
多彩な記憶法を駆使しつつ、数百人の生徒を前に一人ひとりに話しかけ、呼びかけるかのような平易・明快な講義は「受験の」世界史をつき破って若者を魅了し、「講義は一方通行」などという俗説を越えて教室に一種の熱気をかもし出す。東大その他に進学後も、続けて講義を受ける人たちも少なくない。
小樽高商時代、ボート部の創立に加わり、第1回国体の全国優勝者となった。ソ連アカデミー版「世界史」叢書(東京図書)の翻訳に参加して、ソ連大使館から感謝状と記念品を受けている。旺文社の「世界人物辞典」の大項目の執筆、「世界史事典」の編集・執筆、その他辞典編集や受験参考書執筆の経験も豊富である
上記の略歴に、講義で聞いたことを補足する。海軍経理学校第37期は1944年10月に入学したことが、同窓会のサイトで確認できる。そこから逆算すると、山村先生の生年は、1920年の前後と思われる。
東北大学ではマルクス主義経済学を研究していたらしい。講義ではマルクス主義への批判も開陳されていた。この点は、別にまとめる「語録集」に記す。
キリスト教徒で、講義の端々で聴いた逸話から、おそらく聖公会の信徒だった。函館のハリストス教会を改築する際に、イコンほか、祭事に使う道具を預かっていた(この話は一度しか聞いていないので、確証はない)。
手芸や編み物が趣味で、コンクールの審査員もしていたと講義中に聞いたことがある。
『山村の世界史人物事典 欧米篇』は、1986年7月に出版された。ちょうど私が代ゼミで夏期講習を受けていた時期にあたる。
講義をしながら編集をするので、なかなか出来上がらず、上梓を待っている受験生諸君には申し訳ない、と講義中に言われていた。
『人物事典 東洋編』は、昭和が終わった1989年5月に出版された。すでに予備校を卒業してから2年以上経ち、 私は大学三年生だった。
『東洋編』には、『欧米編』にはない「あとがき」が添えてある。「これをもって私なりの「戦後」の一区切りとしたい」と書いている。
「あとがき」では、さらに事典に込められた思いが綴られている。
代々木ゼミに出講して20年に近い。ささやかな講義に、毎週数千の受験生が集まってくれる。私はただ、心を事実と論理に託して一人ひとりに呼びかけることにつとめる。私の関心は、受験を通じて若者の心に世界史像を復元し、耳にその轟きを伝えて、多面的な思考と豊かな感性を喚びさますことにある。思考力と感性の練磨こそが明日を担う人びとの人生の一塊の土壌となるはずだと思う。この事典も、いささかその目的に寄与できれば、望外のしあわせである。
お世話になった親しい方がたに、感謝と祈りを込めて、この書を捧げる。
山村先生と私
私が受講した講義は以下の通り。
- 1985年度、冬期講習、世界史現代史
- 1986年度、春期講習、基礎世界史
- 1986年度、2次私大世界史ゼミ(通年)
- 1986年度、夏期講習、世界文化史ゼミ(受講した気がするが、テキストが見つからないので、受講しなかったのかもしれない)
- 1986年度、直前講習、世界史世界史ゼミ
初めて講義を受けたのは、高校二年の冬期講習。学校の授業では、ふつう現代史まで終わらない。ところが、近年の入試問題では第一次大戦以降の現代史が頻出傾向にあるので、先に受講しておいたほうがよいと身近な人にアドバイスを受けて受講した。
当時の受講システムでは、世界史はAとBの二つに分かれており、一週間に3回程度ずつ繰り返される。受講生は一週間のなかのどこかでAとBの一度ずつ受講するようになっていた。時限ごとの進度を同じようにするのは難しかっただろう。
山村先生は人気講師だったので、名古屋、福岡、札幌などでも講義をしていたかもしれない。当時は、サテライト講義といって遠隔地に講義を見せる仕組みができたばかりだった。
大学で、政治学、そのなかでも政治思想史を専攻することになったのは、山村先生の影響が大きい。
高校2年の秋、進路についてまだ決めかねていた。世界史は好きな科目だったので、はじめは文学部を志望することを考えていたのだが、それほど読書家でない自分が文学部へ進む自信はなかった。数学がまるでダメだったので、経済学部もあきらめた。
そもそも、赤点こそつかなかったものの、数学2科目と物理と化学を合わせても100点に届かない成績だったので、国公立大学を目指すのなら浪人して一からやり直す必要があった。でも、その覚悟はなかった。
残るは、法学部。弁護士にも検事にも興味はなかった。大学入試のあとにさらに試験を受けるのは御免被りたかった。
山村先生の講義を聴いているうちに「戦争と平和」について考えたい、という漠然とした思いをもっていることに気づいた。そして、大学の資料を集めるうちに、政治学に興味を持ちはじめた。政治学は、政治と歴史、さらに宗教も覆っている。これなら
政治学科に入ってから、政治と歴史と思想が交差する政治思想史という学問と出会った。
その頃は、大学を出てから何をするか、まったく考えていなかった。ましてや、中年になって「心の不自由な」人間になるとは想像だにしなかった。
山村先生の講義
私が山村先生の講義を受けたときには、先生は腰痛をかかえていてほとんど教壇に座ったまま話をされた。年齢は70歳近くだったのではないか。当時の代ゼミでは、「講師は立って講義を行うこと」が規則になっていたらしい。先生は、「特例を認めてもらった」ようなことを言っていた。もちろん、立ち上がり、黒板いっぱいに板書されることもあった。
代ゼミの講師は皆、細いベルトを輪にしてマイクを胸元にぶらさげていた。マイクを首にかけ、スイッチを入れてから「フゥッ」と息を出してマイクの音声を確認するのが山村先生のルーチンだった。
話し方はゆっくり、使う言葉も平易だった。上記の著者略歴にある「数百人の生徒を前に一人ひとりに話しかけ、呼びかけるかのような平易・明快な講義」は正しい。その一方で、先生の講義は、講談のように一つの声が教室全体を包み込むような迫力があった。
その意味で、山村先生の講義は、「話芸」と呼ぶべき一つの芸術と言っておきたい。
「講義は一方通行などという俗説に惑わされないこと」と言われたこともある。実際、先生の講義は、聴いているうちに引き込まれ、まるで歴史的な光景を目の当たりにしているような気分になることがあった。
とりわけ、記憶に強く残っているのは、小説『クオ・ヴァディス』と中国共産党の大西遷について語られたとき。物語を聴いているだけで、その情景がまざまざと目前に立ち上がる。山村先生の講義は、声だけで人の心に物語を映し出す「カタリ」だった。
『クオ・ヴァディス』はずっと気になっていたものの、すぐ手にすることはなかった。初めて読んだのは、2001年のこと。日刊ゲンダイ連載の『狐の書評』で再会してから。
山村先生は講義のなかで、歴史を学ぶうえで大切なことを多く話された。それは雑談や脱線というものではなかった。なかには歴史を越えて宗教や思想、人生についても含蓄のある言葉も少なくない。そうした山村先生の語録をノートと記憶からまとめておく。
山村先生は本になっている年代記憶法のほかに、講義では、世界史の重要事項をさまざまな記憶法で伝授された。先生は、そうした記憶法を「おまじない」と呼んでいた。今でもニュースを聴いたり、新聞を読みながら、思い出すものもある。
そうした「おまじない」も覚えているかぎり、整理してみた。
山村先生語録
山村先生のおまじない
代々木ライブラリーが出版したた山村先生の著書。
- 世界史年代記憶法、代々木ライブラリー、1976
- 山村の人物世界史事典 欧米篇、代々木ライブラリー、1986
- 山村の人物世界史事典 東洋篇、代々木ライブラリー、1987
リンク集
上記のサイト内にある中村方寿氏の回想、「わが生涯のハイライト」。山村先生と小樽中学で同級だったとある。