視点 選挙制度 戦後最少は良いことか=論説副委員長・古賀攻
衆院の定数は、戦前の帝国議会開設時に300で始まり、大正デモクラシーを経て466に増えた。この数は戦後に引き継がれ、しばらく維持された。
今回の選挙制度改革の隠れたターゲットが466である。定数を小選挙区で6、比例代表で4の計10減らしたその心は、466をわずかでも下回る「戦後最少」にしたかったからにほかならない。新定数は465だ。
議員定数に絶対的な基準は存在しない。だから時々の事情に応じて増減があってもおかしくはない。だが、今回の定数削減がふに落ちないのは、「議席」をめぐる誤った理解に根ざしているように思えるからだ。
定数削減論議の出発点は、民主党政権時代に始まった税と社会保障の一体改革だ。
消費増税という痛みを国民に求める以上、国会議員が自ら「身を切る改革」に乗り出すべきだとの理屈で、2012年暮れの衆院選は各党が削減幅を競い合う展開になった。
この考え方は、国会の議席が議員の所有物であることを前提にしている。自分のものでなければ、そもそも身を切る対象になるはずがない。
しかし、議会は専制権力に対して民衆が政治参加を求めて生み出した存在である。明治の時代でも、民選議院の開設要求が民主主義の萌芽(ほうが)になった。
つまり国会の議席とは、主権者である国民が自らの政治的な代表を国政に送り出すポストであり、定数は代議制民主主義を保障するための総数と解すべきだろう。議席は政治家のものではなく、国民のものだ。
制度改革のベースになった有識者会議の答申も「定数を削減する積極的な理由や理論的根拠は見いだし難い」と率直に記している。それでも答申が削減を勧告したのは、多くの党が選挙公約にしたからに過ぎない。
戦後最少が「売り文句」の465が意味するのは、政策理念なき数字の操作ではないか。
議員の質の低下は確かに甚だしい。あんな連中に税金を払うのなら減らした方がましというのも素朴な国民感情だろう。
ただし、定数の削減が不良議員の排除に直結するわけではない。むしろ、削減論が国民のルサンチマン(復讐(ふくしゅう)感情)を刺激し、政治がポピュリズム化するのを恐れる。それを突き詰めると、定数は少ないほどいいという「議会不要論」に行き着く。
身を切る改革が大事だと思うのなら、議員歳費や政党助成金を削減する方がよほど理にかなっている。その不都合から逃れるために、定数の削減に問題をすり替えてはいけない。