日本人に愛され続けるふりかけ「ゆかり」生みの親が大切にした「縁」 三島哲男さんの人生哲学
業界2位、年間約40億円を売り上げるふりかけ「ゆかり」を製造販売する三島食品(広島市)創業者の三島哲男さんが3月8日、老衰のため98歳で亡くなった。真っ白いごはんに映える赤紫色の粒。ほのかに漂う赤しその香り。茶わんの上で、おにぎりの具として46年間、多くの日本人に愛されてきた味を生み出した人は、どんな生涯を送ったのか―。次男で現社長の豊さん(61)の回想とともに、縁(ゆかり)を大切にした人生を紹介する。(北野 新太)
亡くなる前日、3月7日の出来事を豊さんは笑顔で思い出す。哲男さんは広島市内の自宅で最期の時を迎えようとしていた。
「もう、お酒はダメなんて言ってもしょうがないと思って『老亀』(地元の名酒)をひとさじ飲ませたら『んん?』と反応があったんですよ。量が足らんぞ、ということだなと思って、もう少し飲ませてあげたら、うれしそうにニカ~ッと笑ったんです」
翌8日午後1時20分。家族だけでみとり、医者に「今、息を引き取りまして…」と電話をしている途中、なんと哲男さんは再び呼吸を始めた。
「ビックリしまして。お医者さまには、落ち着いてちゃんと様子を見てくださいと言われてしまいました(笑い)」
3分後、今度は深い眠りに就いた。98歳の大往生だった。4月25日に催されたお別れの会。ゆかりある人々が約900人も駆け付けた。
「涙よりも、笑顔で思い出を語っていただく方が多かったと思います。本当にありがたかったです」
大正6年生まれ。哲男さんの経営者人生は、戦後史とも重なる。
従軍先のラバウルで終戦を迎え、帰還後に乾物の行商を始める。1949年に前身の三島商店を創業。51年にかつおなどのふりかけの販売を開始した。
54年に次男として誕生したのが豊さんだった。「オヤジが家にいた記憶はあんまりないんです。お酒が好きだった記憶はあるんですけど…」
60年代後期のある日のことだった。「突然、赤しそを持って帰って来て『これがウチの商品になるんじゃ』って言うんです」。当時、漬物として売れ始めていた食材をふりかけにするアイデア。海産物以外の材料を用いること自体が前例のない挑戦だったが、開発は困難を極めた。水分を多く含んだ赤しそを、いかに風味を失わないまま乾燥させるか。失敗を重ねた。「時々、試作品を持って来て『どれがいちばんうまいか決めないけんから、食え』なんて言われて、15種類も食べ比べさせられたりしました」
実は当時、64年の東京五輪後の不況のあおりで社の業績は悪化。借金を抱えていた。「でも、当時のオヤジは自分に言い聞かせていたのか、いつも『わしは幸せじゃあ。幸せなんじゃ』と言っていました。会社が大変だなんて全く知りませんでした」
乾燥に適した温度を発見するまで数年の時を要し、ようやく発売にこぎ着けたのは70年。学校給食への採用を契機に、評判はすぐに広がった。
ゆかりブランドが確立され、商品が大量生産されるようになっても、素材の品質には一切妥協しなかった。「もともと乾物問屋をしていたせいか、オヤジには良いものか悪いものかを見分ける能力がありました」
良いものをつくるため、何よりも大切にしたのは「縁(ゆかり)」だった。社長自ら全国約300の生産者のもとを訪ね歩き、対話することを生涯欠かさなかった。「私が継いだ時(92年)、お得意先でよく言われました。『毎年来てくれるのはあなたのオヤジさんくらいです。とってもありがたいし、ぜひ続けて下さいね』って」
さらに重んじたのは、消費者との「縁」。2002年、商品に工業用潤滑油が混入したことがあった。極めて微量で、人体への影響は全くないものだったが、すぐに自主回収を決めた。「分かった直後、オヤジは『健康に影響はないんか!? 大丈夫なんか!?』と。で、突然、社内の自分の机の片付けを始めたんです。『もしかして、会社つぶれると思ってる?』って聞くと『うん』って」
しかし、顧客との縁が切れることはなかった。現在では、欧米やアジアなど25か国で販売される世界ブランドに成長を遂げた。
生みの親が亡くなっても、日本中の食卓で、学校で、旅先で「ゆかり」は今日も存在し、消費者に清涼感のある風味を届けている。「『ゆかり』は現在進行形なんです。常に、より良くなるための過程にある。問題解決と向上のためには、クレームを頂くことだってありがたいんです」
18日、現在進行形であることを象徴する出来事が起きたばかりだ。人気商品「ゆかりペンスタイル」(540円)をインターネット上で再発売したところ、たった2分で完売した。
ペン形容器のキャップを外して振ると、先端から「ゆかり」が出てくるアイデア商品。上着のポケットに忍ばせ、ランチの時にスッと出せば、場が華やぐネタ効果がある。14年の発売以降、爆発的な人気を呼び、再発売の度に即日完売が続いている。
ある夜の宴席で豊さんが小瓶に詰めた「ゆかり」をポケットから出して焼酎にサッと掛け、周りに大ウケしたことを契機に、社長自ら発案した。「生前、オヤジにも見せたんです。そしたら『オマエは容器を売るんか。わしゃ好かん』と。でも、いくら外見が良くても中身が悪いものは2度は買ってくれないと分かっています。品質の良いものにこだわり続けたオヤジの思いは継承し続けます」
亡くなる半年ほど前から哲男さんに「(社を)つぶすなよ」と再三言われた。お客様、そして社員と築いた縁を守ってくれよ―。息子に伝えた最後のメッセージだったのかもしれない。