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第十八話 女神がほほ笑むのは 書籍化該当部分5
後に第二次アントリム戦役と呼ばれる一連の戦闘は、ひとまずアントリム子爵軍の完勝で幕を閉じた。
フランドル大将軍は優れた手腕を発揮して味方の撤退を援護したが、それでもおよそ半数近い兵力が失われた。
唯一の救いは負傷者こそ多いものの、死者の数が少ないことであろうか。
兵力で圧倒的に劣るアントリム軍としては、ハウレリア軍が組織として機能しなくなり無力化されることを優先しなくてはならなかったのは止むをえまい。
それでももっとも損害を出した魔法士部隊は壊滅で、生き残りを集めても部隊として機能しないほどに戦力が落ち込んでいた。
今後後方で負傷者や逃亡した兵たちを再編することができれば、どうにか七割程度まで兵力は回復するであろうが、戦争が始まった今、それをするだけの余裕は残されていなかった。
ハウレリア軍が十倍の戦力で攻め込みながら敗北した、その事実が今は何よりも重いものであった。
百万の罵倒と処罰を覚悟しつつ、フランドルはなお粛然と退却の指揮を執り続けた。
「――――信じられん」
目を疑いたくなる光景に、戦場を眺めていた男たちは絶句した。
彼らもアントリム軍が善戦するであろうとは予測していた。
そして援軍として派遣されたブラットフォード子爵と連合軍ごと、いっしょに壊滅してくれるというのが一番望ましい結末だったのである。
まさか援軍が到着する前に敗北するどころか勝利してしまうなど、彼らの想像の埒外のことであった。
しかし彼らのすべきことは変わらない。
むしろ急ぐ必要がある、と男たちは判断した。
「一大事でございます。アントリム子爵軍は援軍の到着を待たず、わずか一日にして壊滅いたしました。一刻も早く街道を封鎖しなければ明後日にもハウレリア軍が現れましょう」
使者の言葉を聞いたアランは顔面を蒼白にさせた。
もしかしたら、もしかしたらバルドならばハウレリアを相手にひと泡吹かせてくれるのではないかと期待していた。
そうすれば自分もやましいことに手を染めることなく、引き続き繁栄のお零れにあずかり続けることができたというのに……。
「もはや躊躇していてはお命にかかわりますぞ!」
良くも悪くも小心者であるアランは、最初からバルドを見捨てることもなかったが、自分の命が危険にさらされてなお義理を果たせるほどの度胸もなかった。
「や、止むを得ん。これもマウリシア王国のためだ」
そうだ、このままハウレリア軍の乱入を許せば王国の存続にかかわる。
そう自己正当化し、明日にはマティス・ブラットフォードが援軍を引き連れてやってくることをアランは故意に無視した。
それが誘導された決断であるとも知らずに。
フォルカーク領からアントリム領へ向かうモルガン山系の街道をコティングリー街道と言う。
その半ばほど行ったところに、地盤の弱い堆積層で形作られた渓谷がある。
火山灰の白い地層を露出させたそこは、かつて幾度も崩落事故を引き起こし、交通の障害をなってきた。
アントリムが孤立した辺境であったころは省みられなかった危険ではあるが、急速に発展するアントリム領からの流通の増大とともに、新たな街道の整備が望まれるようになり、予算と時が許せばコンクリートによる法面の工事が予定されていたそこに、男たちはいた。
「――――厄介なことになったものだ」
主君の計画とは全く異なる事態が発生したことについて、男たちも困惑を隠せずにいる。
そもそもがアントリムをはじめとした辺境領主軍の壊滅と王室直轄の王国軍の疲弊による発言力の増大、あるいはハウレリアと連動した謀反を画策していた主君にとって、緒戦においてまさかアントリム軍が勝利するという予定はなかった。
しかしそうなった以上、さらに戦果を拡張されたり功績をあげられたりしては困る。
否、今でもすでにアントリム子爵は功績をあげすぎていた。
宿敵ハウレリア王国を向こうに回して十倍以上の敵を破る。
まるで神話の世界の英雄譚のような活躍というほかない。この功績に報いるには陞爵をもってしても足らないことだろう。
アントリム子爵の係累であるコルネリアス伯爵家、そして密接な関係にあるブラットフォード子爵家やランドルフ侯爵家の影響力の増大は、とりもなおさず主を中心とした守旧派貴族の没落を意味していた。
もちろんそんなことがあってはならない。
過ぎた英雄は英雄らしく、死して名誉だけを貪ればよいのだ。
「――穿槍」
「――水流」
「――爆炎」
不可視の槍に穴を穿たれ、水流に浸食されてとどめに爆発呪文を食らって、もともともろい地層が耐えられるはずがなかった。
「念のため対岸も崩しておくか」
たちまち渓谷は次々と崩落する土砂によって埋め尽くされ、その巨大な質量は人と物の侵入を完全に阻害した。
今や完全にアントリム子爵領はマウリシア王国から孤立した陸の孤島と化したのであった。
「これでまずひと月以上は街道を通れまい。あとは――――」
しかしアントリムを孤立させただけでは足りない。
万が一にもバルドが生き残ってしまっては結局その功績を一人占めすることになるからだ。
歴史上でもかつてない寡兵での大勝利という功績は、伯爵どころかコルネリアス領と合わせ将来の侯爵に陞爵する可能性があった。
結果としてバルドは新たな十大貴族の一員として、王国の権力者に並ぶはずであった。
当然バルドが十大貴族の仲間入りを果たすからには、一人の十大貴族がその資格を失うということである。
その一人に主君がならないという保障はどこにもないのだ。
「――――速くハウレリア王国に伝えよ。アントリムは不運な事故により孤立せり、と」
確かにハウレリア軍の先鋒は敗北した。
しかしハウレリアにはさらに倍する兵力が顕在であり、敗走した先鋒も兵力の全てを失ったわけではない。
アントリムが孤立無援になったと知れた場合、彼らがどうのような判断をするかなど容易に予想することができた。
いかにアントリムが手強いと承知していても、国家としての体面上放置することは威信の低下を招くことは確実である。
せめてアントリムを占領すれば、損害の大きさや緒戦の敗北はともかくとして、体裁を繕うことは可能なのだ。
「せめて美しく散れ。たとえどんな手段を用いても、貴殿はここで散ってもらわなくてはならぬ」
万が一、事が露見した場合にはアランに罪をかぶらせる準備はできている。
全てはアランが保身のために、流れの傭兵を雇って街道を封鎖したということで決着するはずであった。
アランが受け取った手紙も、実は印章の押されていない非公式なものばかりでいくらでも言い訳の効くものであった。
どの糸をたぐろうとしても、決して主君までは辿りつくことはない。
どれほど状況的に疑わしくても、証拠がなければ裁けぬのが上級貴族という立場であった。
「奴も哀れな男よ。身に過ぎた野望など持たねば命だけは全うできたものを」
男たちはたとえ事が露見しなかったとしても、将来の禍根となりかねぬアランを生かしておくつもりは毛頭なかった。
マティス・ブラットフォード子爵がアラン・フォルカーク准男爵領に到着するのが遅れたのにはわけがある。
十年以上にも及ぶ平和は、貴族から戦争への備えを致命的に減退させていた。
ブラットフォード家はもともと武門の家柄であっただけに、十分な装備と練度を維持していたが、マティスに与えられた貴族はその対極にあったのである。
ただでさえ少ない兵力、そして金のかかる装備を投入しても相手は遥かに兵力に勝るハウレリア王国軍。
そうなれば平和ボケした貴族軍が士気もあがらず動員も遅くなるのは自明の理というものであった。
「貴様らそれでも王国貴族かっ!」
マティスは一向にやる気のない周辺貴族に、血管がぶち切れんばかりに激高した。
事実逆らったら殺されかねない、というマティスの切れっぷりを見なければ、今でも軍は集まらず無為に時間を過ごしていたかもしれない。
「――明日までだ。明日までに五百名耳を揃えて連れてこい、もし連れてこなければ――卿に決闘を申し込むからそう思え」
「かかか、必ずや明日までに……!」
マティスにとってバルドはただ救援しなければならない味方というだけではない。
命を預け合った戦友の息子であり、問題のありすぎる娘が王太子妃の座を射止めることができた恩人でもある。
その恩に報いるためにも、ひとつ槍働きしようと沸々と戦意を滾らせていたマティスは味方の戦意のなさに歯噛みしたい思いであった。
「全く――いっそ我が領だけで出発したほうが良かったかもしれん」
戦意のない味方が時として敵よりも厄介な足手まといになるということをマティスは知っている。
だからといって戦理からすれば、兵力の逐次投入もまた犯してはならない過ちであることも事実であった。
ハウレリア軍の先鋒がおよそ二万を超えることを考えれば、ブラットフォード軍だけで突入しても圧倒的な兵力差に飲み込まれる可能性も決して低くはない。
まさに血の涙を流す忍耐を重ねてマティスは兵の参集を待ったのである。
にもかかわらず――――。
「崖が崩れただああああ?」
顔面を冷や汗で濡らしたアランに向かってマティスは吠えるようにそう叫んだ。
「昨日土地の者から連絡を受けまして……もともと地盤の緩いところで幾度か崩落した場所でもあり……」
「当然復旧作業は開始しているのだろうな?」
マティスの問いにアランは見苦しいほど取り乱して弁解した。
「ひ、非常に大規模な崩落でひと月以上は復旧にかかりそうに思われましたので、皆様の到着を待って指示を仰ごうと思いまして……」
「ひと月だと?」
直感的にマティスはアランの言葉に疑問を抱いた。
なるほど崩落が多い場所であったのかもしれないが、ひと月も復旧にかかるような事故があればこれまで主要街道として使われ続けているのはおかしい。
過去にない規模の崩落が、今この時期に発生したのは果して偶然と言えるのか?
この貧層な小男は自分が助かりたいがために、あえて崖を崩落させたのではあるまいか。
「半月でなんとかしろ」
「はっ?」
何を言われたのか理解できずに間抜けな顔を晒すアランにマティスは宣告した。
「これより我がブラットフォード軍はモルガンの山を越える。残る諸侯軍と協力して半月でアントリムへ馳せ参じよ。できぬ場合はこのマティス・ブラットフォードの名に懸けて貴様の首を刎ね飛ばす。誓って刎ね飛ばすからそう思え」
マティスは完全に本気であった。
これ以上味方に足を引っ張られて冷静でいることは不可能であり、立ちふさがる障害は実力でこれを排除する覚悟をマティスは固めた。
かつては騎士団で名をはせ、戦役では悪鬼のごとく恐れられたマティスの本気の殺気を受けて耐えられるほどアランの精神は強固なものではありえなかった。
「は、はは、はひ……」
まるで壊れた首振り人形のように、アランはブンブンと首を縦に振り続けた。
「――疫病だあ?」
ウェルキンは全く予想していなかった報告を受け素っ頓狂な声をあげた。
「はい……先週から発生した疫病のためにガラクの村は封鎖されている、と」
「あのくそ爺いめ……いやらしい手を!」
アントリムの援軍に派遣したはずの騎士団は疫病の流行という思わぬ障害に立ち往生を余儀なくされていた。
実際にガラクの村からは紫斑の出た村民が続出しており、これを完全に無視することは出来なかったのである。
おそらくは何らかの毒物を領民に使用したのだろうとウェルキンは予想していたが、その悪辣な手口には唾を吐きかけたい思いであった。
正直なところ国王ウェルキンと宰相ハロルドは予想を遥かに超えて腐敗していた王国の内情に頭を痛めている。
もともと賭けの要素が大きかった今回の戦争であるが、今やその賭けの比率は跳ねあがり、ハイリスクハイリターンの典型のような状況にあった。
ハウレリア王国という外敵の登場で、国王に反抗的な勢力は簡単にあぶりだされたのだが、予想以上に反抗する貴族が多いために、戦争の遂行に一部障害が生じているのだ。
一気に討伐に踏み切るには反抗勢力の数と結束が強すぎた。
とはいえ、好転していることもないわけではない。
戦争という非常事態が発生したために、行政における王権の優位が確立したことから、財政や司法においても国王の影響力は増大していた。官僚たちは今頃悪夢を見ている思いであろう。
また戦争による利害の得失から、国王に積極的に協力しようという貴族も大変な数にのぼっている。
戦争の特需と戦後の利権を睨んだ平民商家に至っては言うまでもあるまい。
もちろんウェルキンはハウレリア王国への対抗手段も打っていないわけではなかった。
すでにバルドがアントリムに赴いたときから輸出用の穀物の取引価格を釣りあげていたのみならず、サンファンやノルトランドからの輸入価格まで釣りあげたために、ハウレリア国内では食糧不足が顕著なものとなりつつあった。
戦場での兵士は通常の人間の倍の食糧を消費する。
同行する軍馬はさらに食糧の四倍以上の飼葉が必要で、補給にかかる負担はただでさえ莫大なものなのだ。
食糧価格の高騰で、ハウレリア王国の戦争遂行能力は確実に減衰されているはずであった。
実際に戦争が長期化すれば、あっという間にハウレリア王国は根をあげるだろう。
勝利をあげることさえできればマウリシア王国はかつてない政治的安定と、経済的繁栄を手に入れるに違いなかった。
「お父様! アントリムに送った騎士団が足止めされているというのは本当ですの?」
もうひとつ、頭の痛い問題がこれである。
バルドを将来的に中央に取りこむために娘レイチェルとの縁組を画策したわけだが、とうの娘はとっくに男に対して本気になってしまったらしかった。
基本的に子煩悩であるウェルキンとしては、娘の涙を見るのは心の底からつらかったのである。
「すまんがそのとおりだ。すでにマティスが援軍を率いて向かっているから問題はないと思おうが……」
「マティス様が率いる兵はいかほどですか?」
「――――四千というところかな」
「ハウレリア軍は二万を揃えているというのにですか!」
レイチェルは女の身であるとはいえ、攻撃三倍の法則くらいは常識として知っている。
いかにバルドとはいえ、援軍を合わせても四分の一で勝負になるとは到底思えない。もしかすると今頃命を危機に晒しているかもしれないと思うとレイチェルはとても平静ではいられないのだった。
「いくらあの男でも真っ向から野戦を挑んだりはしないだろう。ガウェイン城は兵さえいればそれなりに堅い城だ。今日明日にどうこうなる心配はない」
この時点でウェルキンはバルドが籠城して時間を稼ぐものと思い込んでいた。
兵力差を考えればそれはごく当たり前の認識なのだ。
「で、でも騎士団の到着が遅れればどうなるかわからないのでしょう?」
やるせなさそうに瞳を潤ませるレイチェルに、ウェルキンはただ必死になだめるしかなかった。
王族としての役割を心得、ほとんど我がままらしい我がままも言ったことのない娘である。
そのレイチェルがこうして戦争に口出しすること自体が本来ならありえない。
そうした当たり前の自制が効かないほどにレイチェルはバルドに惚れこんでいるのだろう。
ことによればこの控えめな娘にとっては初恋なのかもしれぬ。
とんだ男を見こんでしまったものだ。
「――――深刻そうなところ申し訳ありませんが……」
宰相のハロルドがやってきたのはそのときであった。
最近の激務で疲れているせいもあるだろうが、心なしか目が虚ろで背中が煤けているようにも感じられる。
「いったい何があった、ハロルド?」
鉄面皮で信頼厚い腹心の様子がおかしいことにウェルキンはすぐに気づいた。
「まさか! バルド様の身に何か?」
最悪の予感にレイチェルは顔を蒼白にしてハロルドに詰め寄るが、ハロルドは何か諦めたような悟り顔で優しくレイチェルに微笑んだ。
「たった今伝書鳩で報告が届きましてね。アントリムでアントリム子爵軍千数百とハウレリア軍二万余が交戦したようです。ブラットフォード子爵は間に合わなかったようですね」
「おいおい、まさか……籠城しなかったのか?」
たった千数百と二万余では勝負にならない。
才幹は完全に信用しているが、バルドの若さが無謀な冒険に打って出させてしまったのかとウェルキンは危惧したのであった。
「……野戦で迎撃したとのことですが、アントリム子爵軍が圧勝したとのことで」
「えっ?」
「えっ?」
ウェルキンとレイチェルがまるで石のように固まってしまったのをいったい誰が責められようか。
「私が聞きたいですよ。なんですか一子爵家が二万余の正規軍を撃退するって。子供に読んで聞かせる英雄の童話じゃあるまいし」
「――――事実なんだな?」
「敵がこんな嘘をついて何の役に立ちますか。もちろん勝ってくれればありがたいですが、あまりにウソ臭くて私でも吐く気になれませんよ!」
ハロルドはお手上げだ、とでも言うように両手をあげた。
そう、アントリムにおけるマウリシア側の勝利は、ハロルドやウェルキンこそ政治的に利用したい情報なのである。
この情報が知れ渡れば様子見をしていた貴族ばかりでなく、反国王派貴族からも脱落者が出ることは確実であった。
つまり、そんな情報が敵の工作である可能性は限りなく低い。
だがハロルドの理性はそんな都合のいい奇蹟があってたまるか、と素直に受け取れないだけである。
「それではっ! バルド様はご無事なのですね!」
ほころんだ花の蕾から朝露が零れ落ちるように一筋の涙を流し、レイチェルは破顔して神に感謝した。
毎日神に捧げてきた祈りは無駄ではなかった。
感極まって両手で顔を覆うレイチェルの肩を、ウェルキンは優しく抱いた。
「せっかく保険をかけておいてやったのに、困った小僧だ。レイチェル、心配せずともお前を泣かせた責任はとらせてやる」
底意地の悪いが、どこか憎めないウェルキン本来の笑みがようやく戻ろうとしていた。
このところの誤算の連続に余裕を失くしていた王に悪戯っぽい余裕が戻ってきたことにハロルドは目を細めた。
やはりウェルキンはこうでなくては。
さて、これから忙しくなる。
反国王派貴族の切り崩しから和平の仲介まで含めた外交攻勢までと、ハロルドに課せられた使命は多い。
しかしようやく明るい未来が見えたと、このときハロルドもウェルキンも信じて疑わずにいた。
誤算と錯覚の連続と言われる第二次アントリム戦役の混迷は、まだまだこれからだということも知らずに。
後世の歴史家の間で評価の分かれるウェルキンも、バルドも、この第二次アントリム戦役での評価は特にその落差が激しい。
なぜなら第二次アントリム戦役において、両者は完全に相手方の予測を誤っているからだ。
後に戦役の話題を聞かれた二人は、実に機嫌悪そうにこう答えたという。
「――――他人なんてもう信じない」
言葉とは裏腹に、家族にも部下にも優しい二人であったが、確かに第二次アントリム戦役は敵も味方も突出してその行動が偶発的なものであったことは間違いない。
彼らがいささか人間不信に陥ったのも故ないことではなかった。
しばらく時間が経って歴史家が各々の登場人物の思惑を整理して、初めてあのとき裏ではこういうことになっていたのか、と関係者は首肯したほどだ。
人は時として信じられないような愚かな選択を優れた妙策と判断し、また時として愚かで怠惰な人間が、直感によって誰も予想しえない最適解を導くこともある。
そうした偶然性には所詮人は無力であり、だからこそ歴史に名をとどめる偉人達は何より「幸運」というものを必要とするのであった。
「なぜだ? なぜハウレリアが負ける?」
もはや体裁を繕う余裕もなく、ボーフォート公アーノルドは唇を震わせた。
取りうる全ての手段を使ってアントリムへの支援は妨害したはずだ。
王国騎士団もブラットフォード子爵も、アントリムの援軍には間に合わずに孤立していたはずのアントリム子爵が勝利する可能性など、万に一つもなかったはずであった。
にもかかわらず、部下からの手紙にははっきりとアントリムが圧勝したと書かれている。
「これではあの男が一人勝ちではないか!」
内容はともかく、結果だけ見ればウェルキンの成果は歴史に名を残してしかるべきレベルであろう。
バルドという人材を見出し、サンファン王国との同盟をまとめ、ハウレリアの侵攻を自らが任命したアントリム子爵が独力で撃退する。
長年経済を優先してきたため財政状態は健全で、今回の戦争に関しても結局騎士団や援軍の貴族に損害なく終了してしまった。
いや、戦争という非常事態の名のもとに政治経済に対する影響力を強め、さらにこれまで最小限にとどめてきた軍事力も増強したウェルキンに逆らえる国内勢力はいなくなったと言ってもよいかもしれない。
まさにアーノルドの言うとおり、ウェルキンの一人勝ちである。
「許せぬ、許せるものか!」
この一月ほどで生命力を吸い取られたかのようにやせ衰えたアーノルドは煩悶する。
自分の命の灯火が、さらに細く短くなったことがアーノルドにはわかった。
その残りの人生を、ウェルキンに対する釈明に費やすということがアーノルドにはどうしても納得できなかった。
人は死を前にするとその本性を隠しきれなくなるという。
もちろんそれは、家族や組織や現実のしがらみによって矯正されるものなのだが、アーノルドは国王に準ずる権力者であり、また可愛い息子を失い彼を止めるだけの有力な後継者に恵まれずにいた。
すなわち、死を目前にした老人が暴走するだけの条件は整っていたのである。
「速やかに兵を集めよ! 金に糸目をつける出ないぞ!」
やせこけて落ちくぼんだ頬に、目だけを爛々と輝かせて、熱にうなされるようにアーノルドは叫んだ。
「よ、よろしいのですか? そのようなことをしては陛下が……」
ボーフォート家を反逆者として粛正してもおかしくない。
そんな家臣の言葉はむしろアーノルドを激高させるだけだった。
「ハウレリア討伐に当家も参加するとでも言っておけ! あの男に我が家に軍を差し向ける余裕などないわ!」
まだハウレリア王国との戦争が終結したわけではないのだ。
両国が講和条約など結んで手打ちを済ませる前に、事態を打開しなくてはならなかった。
前回の戦役で、貴族たちが自らの手柄を稼ぐために、どれだけ無秩序にハウレリア王国に攻め込んだかアーノルドはよく知っている。
敗北の損害があまりに多く、現在の貴族は戦争を忌避する傾向にあるが、アントリム子爵の勝利とボーフォート公爵家が参戦するという噂を聞けばどうなるか。
間違いなく勝ち馬にのって恩賞をかすめ取ろうという輩が出てくるはずであった。
そうした無秩序な戦乱の拡大をウェルキンは望むまいが、表だって国のために戦おうという貴族を処断することも難しい。同時にそれは、兵を集めるボーフォート家のカモフラージュとしても十分に機能する。
それだけ戦の準備をする貴族が増えればボーフォート家だけを一方的に非難することは難しいのだ。
「――何が何でももう一度ハウレリア王国軍を引きずりだせ。先鋒が敗れたくらいでハウレリアの戦力は揺るがん。このまま手をつかねてウェルキンを利するくらいなら、いくらでもわしが手を貸してやる!」
まさに妄執と呼ぶべきであった。
アーノルドが死病に冒されておらず、あるいは息子が健在であれば下すはずのない決断である。
そんな私情に理屈をつけたしただけの陰謀がうまくいくはずがない、と往年の判断力があればすぐにもわかったことだろう。
しかしアーノルドの妄想では、ウェルキンはボーフォート家の軍を気にして身動きがとれず、国境を怒濤の勢いで突破するハウレリア王国軍の成功しか目に映らない。
そうなればハウレリア王国軍と協力してウェルキンを討ってもよし。また逆にハウレリア軍を撃退して手柄を奪い取っても良かった。
「貴様の思うようにはいかせんぞウェルキン……!」
失敗すれば歴史あるボーフォート公爵家は断絶し、可愛い孫の命すら危ういという事実からアーノルドは無意識に思考を逸らしていた。
問題は彼に現実を認識させるだけの説得すべき家族も家臣も、彼のそばからいなくなって久しいという現状であった。
「このままでは……このままでは死ねん! わしは……本来国王になるべき男であったのだ!」
敗軍をまとめたフランドルが、むかったのは王都エリーゼであった。
アントリムから東への直線上にある王都には、マウリシア侵攻の本隊が轡を並べて進撃の命を待ち続けている。
フランドルの勝利を信じ、続くマウリシア領侵攻の火ぶたを切ろうとしていた矢先の国王のもとへ戻るということはある意味では死ぬことよりもつらいことであった。
「閣下……少しお休みになったほうが……」
退却の指揮をとりほとんど休みらしい休みをとっていないフランドルに、副官が身体を休めることを提案するが、フランドルは苦笑して首を振った。
敗軍を国王に返せば死を賜ることを覚悟しているフランドルにとって、今さら身体を愛う必要がなかった。
「全く、ランヌの奴がうらやましいわ」
騎士として男として、見事な最後を遂げたであろう僚友を思い出してフランドルは誰にともなく呟いた。
ハウレリア騎士道の精華としてランヌの最後は末長く語り継がれることになるだろう。
敗軍の将として、無能の烙印を押され糾弾される自分とのあまりの落差に嫌気が差すが、敗戦の責任をとるからこその総指揮官である。
自分以外に責任をとれる人間がいないのだから、今さら逃げも隠れもすることはできない。
それにしても、とフランドルは退却中の味方を見て、その被害の意外な少なさに驚かずにはいられなかった。
兵士たちの戦死者の少なさに対し、士官クラスの戦死者は極端に多い。
それはアントリム軍が指揮系統の混乱と兵士たちの士気の崩壊を狙っていたことの証左であろう。
あの正体不明な兵器には驚かされたが、何よりも致命的であったのは前線で指揮を執る騎士団長が討ちとられたことと、正体不明なものに対する恐怖が兵士たちの士気を叩き折ってしまったからである。
「士官さえ補充できれば、また一戦挑めるのだがな」
もっとも兵士たちの士気を鼓舞し統率できる有能な士官がいればの話であり、ない物ねだりにすぎないことはフランドルもよく承知していた。
「閣下、王都のほうから使者が」
土煙をあげて二頭の馬がこちらへ駆けてくる姿が見える。
「やれやれ、それでは最後の仕事をしに行くとしようか」
使者に伴われて城門をくぐったフランドルに向けられた視線はどれも厳しいものであった。
すでに味方の敗戦の報が末端にまで知れ渡っているらしい。
十倍以上の兵力を投入しながら、多くの犠牲を出して敗北した無能な将。
それがフランドルの現在の評価ということらしかった。
すれ違った親交のある同僚も気まずそうに視線を逸らしたことを見ると、よほど陛下のお怒りは強いようだ。
もっともフランドルが王都で先鋒の勝利の報告を待っていたとすれば、全く同じ感想を抱いていただろうから、特にショックには感じなかった。
「どうぞこちらへ。皆様はすでにお待ちです」
案内の騎士の声が、まるで断頭台にかけられる死刑囚に同情したようなひどく優しい声に感じられ、フランドルは薄く嗤って頭を下げた。
「――ありがとう」
フランドルはゆっくりと大きな広間の扉を開けた。
ほんの少し前、出征の希望に満ち溢れて誇らしさに胸を高鳴らせたものと同じ扉であることが、なぜか可笑し味を持って感じられた。
「フランドル・ガスティンただいま参上仕りました」
「良くもおめおめと生きて戻ったものだな」
案の定辛らつな国王の言葉に出迎えられたフランドルは無言のまま膝をついた。
つかつかとフランドルに出世争いで負けていたライバルのゴドフリー将軍が歩み寄ってきて、フランドルの肩に飾られた元帥の肩章を剥ぎとる。
元帥位から一兵卒に、という国王の意志によるものだろう。
あるいは自分の後任に元帥位に就くのはゴドフリー将軍なのかもしれない。
「臣の非才によりかけがえのない騎士兵士を失ったこと申し開きようもございません。いかなる裁きを受けようとも異存ございませぬ」
「そんなことは当然だ! 貴様のせいで我がハウレリア王国百年の大計が根本から危機に晒されているのだぞ!」
国王ルイは声を荒げて怒りのままに床を杖で叩いた。
負けるはずのない兵力、しかも念を入れて三つもの騎士団を投入して、全ての騎士団長を失うなど誰が考えよう。
この敗戦によってマウリシアの士気は上がり、同時に日和見していた貴族たちも雪崩を打って国王に忠誠を誓うに違いなかった。
不平貴族を取りこみマウリシア侵攻の一翼とするというハウレリアの長年の政治工作が水の泡と消えるかもしれなかった。
そうした意味で、緒戦だけは決して負けてはいけなかったのだ。
「なぜだ? 余は無能を任命するほど耄碌してはおらぬ。どうして卿ほどの人間が負けたのだ?」
いかなる理由があろうとフランドルを許すわけにはいかない。
しかし次の戦いのためにも、負けた理由の確認は必要であった。
「――これから私が話すことは誓って事実でございます。このフランドル、戦が終われば自らこのしわがれ首掻っきる所存。その質として我が眼献上仕る!」
そう言うやいなや、フランドルは左目に己の人さし指を突き刺して抉り出した。
暗い空洞になった眼窩から噴き出るような血がフランドルの足元を濡らす。
元帥にまで登りつめた歴戦の戦士の気迫を、その場にいた誰もが認めざるを得なかった。
たとえ彼の責任がいささかも軽くはならないとしても、彼の言葉に決して嘘がないことだけは確かであった。
「アントリム軍には魔法ではないが魔法と同等かそれ以上の威力を発揮する兵器があります。魔法ではないので魔法解除は効果がありません。伝説の竜のように炎を吐く筒、爆裂の魔法のようにさく裂する壺、そして爆発する溶けた鉄のようなもの。これらの兵器の戦力は優に万の兵に匹敵いたしましょう」
「――――何を……言っておるのだ?」
国王ルイはフランドルの言葉の意味を理解しかねた。
否、理解はしていたがそれを容認することができずにいた。
魔法解除が普及するまで、魔法士の戦力が戦争の帰趨を握ると言われた時代があった。
もしもフランドルの言うとおり魔法に匹敵する兵器が存在した場合、戦争はいずれその兵器の数によって決定されてしまうだろう。
騎士や兵の数など取るに足らないものに成り果てる、そんな時代がやってくる。
それは騎士として戦士として生きていた男たちにとって、またそんな男たちを国防の根幹に据えてきた為政者にとって死刑宣告に他ならなかった。
「戦の誇りを穢すものを今こそ成敗しなくてはならん! たとえ我が軍が全滅しようとも私は行きますぞ!」
誰もが声を失い、暗い将来を予想して沈黙するなか、おもむろに立ち上がりそう誓いの言葉を発したのはセルヴィー侯爵であった。
決して彼に深い戦略があったわけではない。
営々として築き上げてきた対マウリシア戦の戦略を根底から覆してくれたバルドに、あのイグニスとマゴットの息子に対する怒りが侯爵の怒りの沸点を超えさせたのだ。
しかし侯爵の怒りは国王ルイや主戦派の共有するところであり、バルドに一瞬でも絶望と恐怖を抱いてしまったことを恥じるように次々と賛同の声が湧き起った。
「まこと素晴らしき言、ハウレリア軍人の鑑を見る思いでございます」
まさにここが勝負どころとフランドルは言葉を継いだ。
「――――我が間諜の報告をどう調べてみてもアントリム以外でこうした兵器の噂ひとつ集まりませぬ。おそらくはまだアントリムにしかない、と考えるのが正しいかと」
「そ、それでは――――」
わずかな光明を見る思いで集まる視線にフランドルは深く頷く。
「アントリムを奪い、かの兵器と製作者を確保すればハウレリアはいずれ大陸に覇を唱えることも不可能ではありません」
もちろんフランドルにそんな確信があったわけではない。
何より重要なのはここで和平という選択をされないことである。
またアントリムという土地に実はそれほどの戦略的価値はなく、孤立した敵の前線拠点を血祭りにあげる以外に得られるものが少ない土地だ。
どうせ全力をあげて戦わなくてはならないのなら、コルネリアス領を突破してマールバラ大平原を占領するほうがよほど利益になるだろう。
もっともコルネリアス領はアントリムほど地理的にも交通的にも孤立していないので、防御力も高いのだが。
少なくとも冷静に損得を計算するのであれば、アントリム再侵攻が却下される可能性は高かった。
だからこそフランドルは、それを覆して余りあるメリットを提示しなくてはならなかったのである。
だからといってまるっきり嘘をついているというわけでもなかった。
軍の情報を最終的に統括する元帥であるフランドルは、マウリシア国内の軍事施設や動員状況などについてかなり正確な情報を得ていた。
その概略的な情報からわかることは、アントリムのような未知の防御陣地を形成している軍は、国軍を含めてもどこにもないし、また正体不明の火炎兵器のような謎の建造物の情報も一切存在しないということだ。
おそらくはアントリム子爵の個人的な繋がりのなかで、試験的に採用されたものだろうとフランドルはあたりをつけていた。
であるとするならばその技術を独占すればハウレリア王国が覇権を握ることをもあながち不可能とは言い切れない。
騎士の誇りを穢す唾棄すべき兵器ではあるが、祖国の繁栄のためならば目をつぶる必要もあるであろう。
フランドルの内心を表現するならばそんなところである。
しかし彼の洞察は半分は願望によるものであったにもかかわらず、結果的にその予想は完全に正しかった。
「――冗談ではない! 今一度大きな敗北を喫すれば国が滅ぶぞ! その責任が貴様にとれるというのか! フランドル・ガスティン!」
モンフォール公ジャンはそのままアントリムへ行きそうな雰囲気に赫怒して叫んだ。
すでに二万を超える精鋭が手も足も出ず敗北した、という報はマウリシア王国中に広まっているに違いなかった。
当然マウリシア王国の士気は高く、ハウレリア王国の士気は下がる。
ジャンに言わせればフランドルの主張は、戦争を続けるための悪質な詐欺以外の何ものでもなかった。
それに冗談ではなく、これ以上戦力を失えばハウレリア王国は滅ぶ。
ジャンが戦争に反対するのも、ハウレリア王国を思えばこそなのである。
生まれ育った祖国が、今立たされている危機の危うさは到底先日の比ではない。
先鋒とはいえ元帥率いる二個旅団と騎士団三個が壊滅したのだ。
さらに国王自ら率いる王国軍主力が敗れたとなれば、紛争を抱える南方のケネストラード王国はもちろん、関係が良好なガルトレイク王国でさえハウレリア王国に牙を剥く可能性がある。
そこまでの危険を犯してまで戦う必要があるのか、と問われれば貴族たちに責任ある答えはできない。
その決断ができるのはただひとり、国王ルイだけであるからだ。
家臣たちの視線が集中しているのをルイは懊悩とともに自覚していた。
栄光か滅亡か、そんなドラマティックなシチュエーションに憧れたこともあったが、現実に経験してみれば腸がねじきれそうな重圧があるばかりである。
理性的に考えるならばジャンに従うのが正しいのだろう。
フランドルの言うように、アントリムを占領しても、その兵器が手に入る可能性は未知数でありその有用性も確かめてみたわけでもない。
しかしジャンの言うとおり王国主力が壊滅したとなれば、ハウレリア王国は滅びるに違いなかった。
少なくとも現在の形での存続はできない。
後を継ぐのはジャンか、息子か、いずれにしろ自分は退位させられるだろう。
ルイの心の天秤はやや和平に傾きつつあった。
かつての戦役ではここまでハウレリアは追い込まれることはなく、むしろマウリシアの占領を狙う立場であった。
生まれて初めて経験する生命と国王の地位の危機に、ルイははっきりと足がすくんだのである。
それでも勝利が欲しい。
大陸制覇の夢もいいが、何より名誉を傷つけない幕引きを図りたいのも確かであった。
そうでなければルイの名は無用の戦乱を引き起こし敗北した愚王の名で、歴史に刻印されることになってしまう。
「――――タミルの眼の報告を待て。明日再び参集するがよい」
保険として、宰相のリシュリューはすでに和平のための工作を開始している。
ルイは心のどこかで、事態を打開してくれる何かを期待する欲求に勝てなかった。
もっとも、和平するにせよ攻めるにせよ、情報は必要であることも確かであった。
――――そしてタミルの眼のひとりから、崖崩れによってアントリムが孤立したという報告がもたらされたのは翌日のことであった。
さらにマウリシア王国からの援軍は各所の貴族の抵抗や、物理的な障害によって遅れているが、アントリムの防衛成功により、その影響は小さくなりつつある。またアントリム以外のどこにも正体不明の兵器らしきものは発見されず。という報告の内容によって再びハウレリアの政策は戦争継続へと大きく揺り動かされることになる。
モルガン山系への山中行軍を強いられていたブラットフォード子爵軍は難儀を極めていた。
もともと軍隊というのは移動するだけでも十分に大変な負担となる。
かの大坂夏の陣において発生した道明寺の戦いなどはその良い証左であろう。
関ヶ原の戦いからおよそ十四年を経過し、戦国期に絶頂を迎えた合戦の技術は早くも廃れつつあった。
この日の遭遇戦において、霧が発生したとはいえ計画通りの時刻に目標地点に到着できたのは後藤又兵衛基次ただひとりであった。
かの真田信繁(幸村)でさえ大幅な遅刻をして又兵衛を戦死させており、薄田兼相はおろか名将として名高い明石全登まで作戦を時間通りに遂行することができなかった。
この一事をもってしても、軍を決められた地点に決められた時刻に到着させた後藤又兵衛の手腕はやはり賞賛されてしかるべきであり、たった十四年の間に失われるほど、行軍とは高度な軍事技術であったことが窺われる。
まして山中の道なき道を行くブラットフォード子爵軍が難渋しないはずがないのであった。
「閣下……一度兵に休息をとらせなくては……」
「止むを得ん、か……全隊大休止! 輜重隊食事を用意しろ!」
号令を聞くと同時に、兵たちが疲労困憊したように次々に地面に腰を下ろしていく。
訓練の行きとどいたブラットフォード子爵軍にして、山中行軍は限界を超えた行動なのである。
「くそっ……バルド、無事でいろよ……!」
苛立たしげにマティスは唇を噛みしめた。
それでも優秀な戦術指揮官である彼は、兵には休息と準備が絶対に必要であるという現実を心得ている。
彼の予想ではどんなに急いでもアントリムへの到着は四日後程度になるであろう。
兵力差を考えるならば籠城しても持ちこたえられるか微妙なところだ。
マティスは知らない。
今頃になってフォルカークにアントリム軍大勝利という真実の報が届き、大騒ぎになっているということを。
コティングリー街道を封鎖してしまったアランは顔面を蒼白にして、自分が生贄の羊として祭壇に捧げられてしまったことを察し気絶して倒れた。
意識を取り戻したアランは慌ててヘイスティングス伯爵やボーフォート公爵家の 家臣を名乗るものからの書簡を探したが時すでに遅かった。
重要な内容を記した書簡はかき消すように消えており、使者の応対を任せていた年来の執事の姿まで消えていた。
裏切り者として処断される未来を幻視したアランは、その夜のうちに持てる限りの財産を持って夜逃げした。
もっともそれはコティングリー街道の修復工事を遅延させる行動にほかならず、アランの身柄は早くも王国の追手に追跡されることとなるのだが、それはまた別の話である。
さらにマティスは、山間の道しるべとなるべき案内板が何者かの手によって要所要所が破壊されているということをまだ知らずにいた。
これによりブラットフォード子爵軍はさらなる遅延を余儀なくされるのである。
――――バルドに勝利の余韻を味わう余裕はなかった。
「重傷者は後送しろ! 軽傷者は治癒師を呼んで原隊に復帰! ブルックス! 死者の数は?」
「現在のところ傭兵も含めて五十二人、重傷者を入れるとおよそ二割弱の損害だ。あの殿の騎士団が余計だったな」
捨て身で戦う黒竜騎士団の奮戦は、ランヌの討ち死に後も終わることはなかった。
アントリム軍に生じた損害の半分は、まさにこの追撃の段階で発生していた。
軍としての練度に劣るアントリム軍は、正規の騎士と白兵戦をするには荷が重かったといえるだろう。
彼らがまがりなりにも抗戦することができたのは、やはり特異な兵器の存在が大きかったのである。
「バルド様、火薬と油の不足は深刻です。火炎放射器用にいたってはスッカラカン、一滴の残りもありません」
補給を担当するテュロスの顔色も悪かった。
今回アントリム軍が使用した兵器のほとんどは試作品同然で、備蓄量が絶対的に不足していたのである。
特に産地が非常に限られる原油の不足は特に深刻で、ダウディング商会の販路をもってしても量を揃えるのは難しかった。
火炎放射器に必要なナフサに良く似た素材の精製には、その原油が不可欠であったのだが。
「まあ、よくもってくれたくれたと思うよ? 正直ブルックスがあそこまで敵を引きつけてくれなかったら足りなかった」
バルドは苦笑して友人の勇戦を讃える。
一見、大勝利に見える今回の戦いではあるが、内情は薄ら寒いものであった。
不測の事態に対応する予備は無いに等しく、切り札は使いつくして補給もままならない。
「そろそろダウディングの商隊が到着するころじゃなかったか?」
再び同じだけの備蓄を備えるまでにどれほどの時間がかかるだろうか?
一旦は落ち着いたとはいえ、まだ戦争が終結したわけではない以上、戦力の回復は急務であると言えるだろう。
「バルドー! た、大変や!」
息せき切って現場へと現れたセリーナの姿に、バルドは顔を顰めた。
「ここには来るなと言っただろう? セリーナ」
大方は処分したとはいえ、まだ死臭と血泥の匂いが漂う戦場をセリーナたちに見せたくはなかった。
「そ、そんな場合と違う!」
はっきりと顔色を青ざめさせてセリーナはバルドの肘を握りしめた。
「い、今到着した商隊の人に聞いたんやけど、この先のコティングリーで崖崩れが起きて路が通れんようなってるらしいんや!」
「――――なんだって?!」
「私どもが後ろで凄まじい音が聞こえたので戻ってみると……あたりは瓦礫で見渡す限り埋め尽くされておりまして。あれでは少なく見積もっても復旧にひと月はかかるかと」
予想以上の大規模な崩落に一同は声もない。
あとひと月――それがどれほど遠い時間であるか、この場にいる誰もが承知していた。
「……それと、これは確証のある話ではありませんが……」
そう前置きしたうえでごくりと商人は唾を飲み込む。
「配下の者が、崩落の前に爆発音らしき音を聞いた、と。遺憾ながら私もそれらしき音を聞いたように思います」
「なるほど、これはやられたようだ」
バルドを己の迂闊さを哂った。
アントリムに敗北して欲しい勢力がいることはわかっていた。
しかしアントリム軍が想定を超えて圧勝した以上、反抗の手は控えるものとバルドは考えていた。
今さら何をしても、すでにアントリムの勝利は事実として存在しているのである。
むしろ勝ち馬に乗るというのが、計算高い貴族としての立ち回りであるし、理性的なものの考え方というものであろう。
実際に日和見貴族たちは雪崩を打って国王になびきつつあった。
ところが時として、勝ち目のない戦いを勝ち目があると思い、また自らのプライドを守るために理屈とは真逆の行動がとる者がいることをバルドは見落としていた。
左内の記憶があったのにもかかわらず――――。
あの関ヶ原のときも、わざわざ東軍から西軍に寝返ってお家を滅亡させた小野寺義道のような者を知りながら、なんと愚かな。
「――崩落が故意に引き起こされたとすれば、必ずやその報告がハウレリアにもたらされているはずですな」
セロの言葉にバルドは深々と頷いた。
ハウレリアの軍を動かせなくては、退路を断った意味がない。
もっともそれでハウレリアが動くかどうかは賭けではあるだろうが。
「……ジルコ、疲れているだろうが偵察を頼む」
「任せておきな。この程度でへばるほど柔な鍛え方はしちゃいないよ」
ジルコは明るく笑って胸を叩いて見せたが、限界以上の大軍を相手にした疲労の色は隠せなかった。
水門を開けた後の後方撹乱から、そのまま追撃の先頭に立った傭兵部隊を完璧に指揮してみせたジルコは、むしろバルドたち以上に疲れているはずであった。
それでも彼女を頼る以外の選択肢はバルドには見いだせなかった。
偵察に関しては騎士よりも場数を踏んだ傭兵のほうが、よほど確かなのだ。
「まあ、あれほどこっぴどく叩かれたら近寄りたくもないかもしれないけどね!」
それがジルコの願望であるとわかっていても、その場の誰もがその通りであったらどんなにいいだろうと願わずにはいられなかった。
「手の空いている者はついてこい。少しでも陣地を立て直すぞ」
幸いにして塹壕陣地についてはそれほど手直しも必要ないはずである。
復旧困難な鉄条網さえ形になれば、大軍を相手に粘るくらいはなんとかなるだろう。
「テュロスは商人殿から、物資の受け取りと補給を頼む」
「御意」
言いづらそうに商人はバルドに向かって頭を下げた。
「まことに勝手なお願いではございますが、街道が直るまでは戻ることができませんので、馬と荷台もお買い上げいただけないでしょうか?」
もうじきここが戦場になるとすれば、商人の馬車が無事に済む確率は非常に低い。
どうせ逃げられないのならば、略奪に会う前に現金化しておくことがのぞましかった。
もちろん生き延びることができればの話ではあるのだが。
「貴方に運んでいただいた物資は万金に勝ります。もちろん言い値で買い取りましょう」
必要量にはまったく満たないが、火薬も補充することができた。
もしも商人が通り抜ける前に崖が崩落していたらどうなったことか。
コティングリーを封鎖した何者かに、商人の姿を見とがめられなかったのはまさに不幸中の幸いと言うほかあるまい。
「あとは敵がどの規模でやってくるか……」
反撃に備えるための戦略予備、もしコルネリアス侵攻を諦めていないのであれば、その兵力も含めて先日と同程度か?
もしも後先考えず全力で侵攻してきたならば――最悪の未来を想像してバルドは考えるのをやめた。
そのときは何をしたところで最終的な敗北は避けられないことは明らかであったからである。
今は水門は閉じられているが、大量の水を引きこんだ大地はいまだ泥濘に沈んでいる。
さらに水蒸気爆発で吹き飛んだ人間の手足らしきものが飛び散っていて、耐えがたい悪臭を放ちはじめていた。
もうしばらく放っておけば、あるいは疫病の原因となったかもしれない。
これが平時であれば、集めて焼却するところであるが、生憎そんな時間は残されてはいなかった。
「できる限り深く地面を砕いて泥濘化させてくれ」
アントリムに存在する全ての魔法士を前に、バルドが要求したのはさらなる大地の泥濘化であった。
実は魔法は容易く解除されてしまうが、すでに影響を与えた物理現象までは解除できない、という制約がある。
例えば火球の魔法などは命中する前にすぐ解除されてしまうのだが、火球によって熱せられた周辺の空気の温度までは変わらないのである。
この事実を魔法士は過小評価しすぎているとバルドは思う。
事前に土魔法で人工的な湿地帯を作り出しておけば、これを魔法でどうにかしようとすれば、同じく土魔法で硬化させるほかはないが、魔力と時間を浪費することになるのは確実である。
それに攻撃魔法支援を行うこともできず、敵の矛先は鈍るであろう。
今日限界まで魔力を使ったとしても、明日までに敵が来る可能性は限りなく低い。
「――いっそ底なし沼みたいにしてやりたいんだが、そこまでの時間も魔力もないからなあ」
いかんせん無い袖は振れない。
火炎放射器が燃料切れで使用できない以上、水蒸気爆発や榴弾でどこまで凌げるものか……。
もともとまともに勝負したら勝ち目がないのだから、敵の士気を削ぐ意味で火炎放射器は視覚効果の高い兵器だった。
水蒸気爆発は実のところそれほど殺傷力があるわけではないので、手軽な半面、阻止効果は薄いのだ。
もう少し視覚効果が高ければ、敵の士気阻喪を狙えるのだが……。
「――――待てよ? 視覚効果だと?」
そのとき、バルドの脳裏で何かが閃いた気がした。
「視覚効果――見た目が派手で敵に攻撃を躊躇させるためのもの……」
これは敵わないと、心理的に思わせるためには見た目は派手であるほうがいい。
「……本当にそうか?」
今にして思えば、火炎放射器にも戸惑っていたのは最初だけで、ハウレリア軍はすぐに対策を講じてきた。
あのとき敵が壊乱したのは、魔法ではない正体不明の攻撃が連続して飽和状態に陥ったためではなかったか?
「正体不明――理解のできない、攻撃……」
そうだ、ビジュアルもあるだろうが、彼らがもっとも驚愕したのは火炎放射が魔法攻撃でなかったこと……そして水をかけても消せないという意外性であった。
理屈がわかれば対策ができる。
喧嘩はめっぽう強い空手の猛者が、幽霊にはからきし弱かったりするのと話は同じだ。
「これはもしかすると…………」
いけるかもしれない。
致死性も高く、やられた敵には自分がなぜ倒されたのかも全くわからない攻撃。
問題はかなり大がかりな魔法行使が必要であることだが、幸運なことに連中にはアントリムの特殊な攻撃が魔法ではない、という刷りこみがある。
「テュロス! テュロス! すまないが大至急集めて欲しいものが――――!」
慌ててバルドは、後方で補給物資を差配しているであろう部下の幼なじみのもとへ駆けだした。
(もっとも、うまくいっても勝率は五分には届かないだろうけど……)
しかし少ないながら勝利の目が出てきた。
それだけでバルドが戦意を取り戻すには十分すぎることであった。
モンフォール公ジャンは疲れきった身体をベッドに横たえた。
先ほどまで紛糾していた会議は、結局アントリム再侵攻という形で決着してしまったのである。
なぜそこまでアントリムにこだわらなければならないのか、ジャンには理解できない。
なるほど確かにこのまま講和を結ぶとなれば、実質降伏に近い条件を強いられることになるだろう。
だが、それがなんだというのだ?
国を滅ぼしてまで成し遂げなければならないことか?
平和になれば軍と武器の価値は相対的に低下し、いずれは輸入することも可能になるはずである。
そもそも戦争とは国を富ませるための手段のひとつにすぎないのであって、国力を疲弊させてしまっては本末転倒もいいところなのだ。
しかしマウリシア王国に対する怨念の根はあまりに深く、勝利さえすれば莫大なマウリシアの富が手に入ると考えている近視眼的な貴族――ジャンに言わせれば経済のイロハもわからぬ脳筋が多すぎた。
「それにしても国王陛下はわかってくださると思っていたのだが……」
ジャンの目には、国王ルイは和平のための落とし所を探っているように見えた。
だからこそ条件次第では講和も十分に可能だと思っていた。
ガタリ
ノックもなく寝室の扉が開かれ、不審に目を細めるジャンの前に、両脇を兵士で固めた国王が現れた。
「陛下、これは――――?」
思わずジャンはルイに問いかけるが、理性はその答えをすでに出している。
すなわち、戦争遂行に批判的な自分を排除しにきたのだ、と。
「なぜです? 私は戦争には反対ですが、決して陛下を裏切るようなまねは……!」
「わかっている。卿の忠誠を疑ってはおらん」
憔悴した様子で、ルイは水分を失ってかさかさになった唇を動かした。
これがあの野心的で自信家のルイなのか、とジャンは目を疑う。
つい先ほどまで堂々と軍議を取り仕切り、戦いの続行を決断したルイはどこにいってしまったのか。まさか最初からいなかった――――ということか。
「気づいたか。全ては演技よ。――止めたくとも止まらぬのだ。もはやこの戦争は」
人生を諦めた老人のようなルイの声音に、ジャンは憤然と反論する。
「止められぬはずがありましょうか! 陛下にご命令いただければ私は万難を排して和平をまとめてみせまする!」
「無駄だな。和平など結んだところで今度はセルヴィーの一党がコルネリアスに攻め入るであろう。そうなれば我が国は和平に背信したと二重の汚名をかぶることになる」
「そこまで……」
そこまで連中の暴走は進んでいるのか。奴らはいったい国をなんだと思っているのだ?
ジャンの怒りは正しかったが、それが万人にとって共有できるものでるかは、また別な話であった。
「戦役以後、余は国をまとめるためにマウリシアへの憎悪を積極的に利用してきた。その報いとあれば甘んじて受けるほかあるまいよ」
戦役で両親や息子を失った貴族は多い。
いつかマウリシアに復讐するために!
子孫にマウリシアの肥沃な大地を残してやるために!
そういって軍備という少なからぬ負担を強いてきた以上、いまさら平和に手を携えて発展していきましょうとは口が裂けても言えない。
そんなことをすれば、家族の犠牲も、長年の辛苦も、必要なかったのか、ということになるだろう。
もちろんそれを強いたのは国王ルイである。
フランドルがアントリムで敗戦する前なら、国王の直轄軍が充実していたころなら、力で反対を圧殺する選択肢もあったかもしれない。
しかし今は無理だ。
ここで降伏に近い和平に動けば反乱が起きる。
しかしその反乱を鎮圧するだけの力が、もはや王室にはない。
むしろ敗北で頭に血がのぼったフランドルをはじめとして、軍の一部も敵に回る可能性すらある。
ゆえに――――。
「一貫して戦争に反対していた卿を逮捕する。いや、領地で謹慎を申しつける。そしてそなたの派閥の力を用いてマウリシアの利益のために動くのだ。ただし、我らがアントリムに攻め込んだ後に」
そしてルイが敗北したならばジャンが代わって王位に就く。
下手に占領政策で労力を使うより、あのウェルキンなら傀儡政権の誕生を支持するだろう。
それでハウレリア王家の血は残せる。
あまりに凄惨な国王の決断に声もなく哭くジャンに、ルイは優しく諭すような言葉をかけた。
「余が勝てば、すべては余の命令であったとそなたの名誉を回復することを約束する。そう啼くな。これでもまだ勝つ確率のほうが高いと余は思っているのだ」
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