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翻訳論その他

2016-05-21

「こなれた日本語」の弊害

19:26


こなれた日本語。って言い方? ありますよね。翻訳文について言われるやつ。まあ、誉め言葉。の一種。なのかしらん?

「来年度の日本のGNP成長率は四%前後になります」

という発言に対して、

「Oh, it's too optimistic!」

という反応があった場合、田中さんは決してこれを、

「それは、あまりに楽観的すぎます」

なんてこなれない日本語に置き換えたりせずに、

「読みが甘すぎやしませんか」

と訳してくれるのだから、舌を巻く。

米原万里『不実な美女か貞淑な醜女か』)

田中さんって知りませんけどー。でも「それは、あまりに楽観的すぎます」でいいじゃん。ていうか、こっちの方がいいじゃん? だって「読みが甘すぎやしませんか」ってゆう? いいます? いわないでしょう、ふつう。ねえ。ようするにコレ、「こなれた日本語」なんですけど、いわねーなー。ていうか。いえねーなー。

「読みが甘すぎやしませんか」って「うまい日本語」? 「美しい日本語」? なんですか? なんでしょうねー。でも、どこで使われてんの? この言い回し。吹き替え版の映画? ハードボイルド小説? って、ようするに、なんかセリフっぽい。匂うわけです。バイタリスの香りっていうかー。うーん、ウソ臭い。つまり。「こなれた日本語」ってのは、「うまい日本語」であるのかもしれないけど、同時に、驚くべきことに、じつは翻訳っぽい。

で、「それは、あまりに楽観的すぎます」のほうが、むしろ自然な気がするよ。フツーな感じ。でもこれって直訳調でしょう? だから翻訳。なわけで。あらら、不思議。どっちに転んでも翻訳なのね。

つまりさ、日本語って、もともとが翻訳っぽいんじゃないの? もともとって言い方が気になるんなら、昔から翻訳っぽいんじゃないの? 昔ってのは、だいたい変体漢文書いてた頃の昔だけどさー。だから、まあ、かなり昔だよね。大昔ともいうが。日本人って、大昔から直訳調になじんじゃってる。それだけじゃないよ。直訳の文章から意味をとることにも、かなり慣れちゃってる。ってことだよね。

そんで、直訳から意味をとる訓練ってのは、今も続いているわけでさ。よく中学・高校の6年間も英語習ってるのにぜんぜんできるようにならないって、つかえねーなー学校英語って、いわれてますけどね。コレ、的外れだよね。英語の授業って、べつに英語の勉強してるわけじゃないよね。国語の勉強だよね。つまり、直訳調の日本語から意味をとることができるように訓練してるんだよね。ちがうの?

ようするに、ワタクシたち、直訳調の日本語にスタンバイOK! なわけで、無理に日本語こねくり回して、「こなれた日本語」つくらないでもいいっスよ。って話だよね。がんばりすぎー。

あと「日本語らしい日本語」ってのもありますね。「おいしゅうございます」とか? でも、これも要注意なんだわさ! だって、キモノっぽいでしょう? で、キモノって今着ないでしょう? 民族衣装みたいなもんでね。なんかイベントでもないとお目にかかれない。

それなのにね。キモノ着たがるのね。翻訳者の人たちが。過度に「日本語らしさ」にアダプテーションしちゃう。やりすぎちゃうわけです。なんでか? ほめる人がいるからでしょうね。「うまい!」「翻訳だとは思えない!」って。それで和文臭ふりまいてんの。抹香臭くてたまんなーい。クリスマス大好きなくせに。

「こなれた日本語」も「日本語らしい日本語」も、なんかフツーじゃない。におう。で逆に、もろ直訳の日本語のほうが、あたりがソフトっていうか、ニュートラル。つまりフツーの日本語。そういうことがあるんだよね。歴史のせいか、教育のせいか、なんだかしらないけど、そうなんだよね。普段着っていったら、キモノじゃなくてヨーフクでしょって話。「キモノとは何ぞや? 洋服との交流が千年ばかり遅かっただけだ」(坂口安吾)ってんじゃなくて、「あれっ、洋服ってじつは和服?」みたいな?

あのー、けっきょくさー。意味わかりゃいいんじゃないの? 問題なのは、意味不明の訳文なんであってさー。直訳が意味不明になりがちなのは、重々承知しておりますがね。直訳ならなんでもかんでもダメだってのは、ゲせません。ましてや、「こなれた日本語」の方がいいなんてことはないな。ていうか、キモっ!ていうか、許して!

もちろん、意味がわかる、わからないっていうのも難しい問題だけどね。「意味」って、タイヘンな問題。だから今は深入りしたくないですけど。

たとえば、「読みが甘すぎやしませんか」っていう表現は、「来年度の日本のGNP成長率は四%前後になります」という発言の答えだって文脈さえあれば、「Oh, it's too optimistic!」っていう英語を見たり聴いたりしなくても、「それは、あまりに楽観的すぎます」っていう日本語だけからでも引き出せると思うんだな。もとの英語の表現を参照する必要がないってことは、つまり、「読みが甘すぎやしませんか」と「それは、あまりに楽観的すぎます」の違いって、文体の違いにすぎないってことでしょう? 意味の違いなんて、たいしてないってことでしょう? 文体の違いが意味の違いに直結するような、そんなぎりぎりの話でもないでしょうしね、ここは。

まあ、「オリジナルの発言のニュアンスを尊重」とかなんとか、しちめんどくさいこという人もいるけどね。しょせん、モーソーだろ?「原文を読んで自然と口をついて出てきた日本語がこれだ」とかさ。もー「はい、そうですか」っていうしかないよな。で、もっとすごいのがさー。「もし原作者が日本人だったらこういう」とか、「原作者の頭の中にまで遡ってナンタラカンタラ」とかいう人たちね。もうSFっていうか、オカルトっていうか、ついてけませんぜ。

てなわけだから(?)、「読みが甘すぎやしませんか」っていう日本語訳が、「こなれた日本語」であるってだけで評価されてんだとしたら、そんなもん、くだらないってことです。どっちでもいいって、ホント。スルーしとけばいいものをさー。こんなの持ち上げるから「いかに日本語らしい日本語にするかが問題」とか「こなれた日本語にするために頭をひねるのが翻訳の醍醐味であります」とか「翻訳で一番大事なのは日本語」とか、話があさっての方にいっちまうんだよな。

そうそう。「よりよい翻訳を」なんていう「より」の使い方は日本語じゃない、これじゃあ意味がよくわからん、っていう人たちもいるね。「より」は格助詞なんだから副詞みたいに単独でつかっちゃダメなんだって。うるさいよね。

なんかこういう非本質的な訳文批判って、意味ないと思うんですよねー。もちろん、批判している人たちは本質的だと思ってやってるんでしょうけど。でも「より」ってもう副詞だろ? 「より」を使ったら意味がわかんないなんてさ、逆にその人の日本語能力疑っちゃうね。

いや、べつにね、なんでもかんでも直訳しとけっていってるわけじゃないよ。枝葉末節っていうかさ、ドーデモいいようなことに余計な労力使うのがナンセンスだってことです。だから、原文が一つの文だから訳文も一つの文にしなきゃいけないってのもね、同じように馬鹿げてる。特許明細書の請求項の一文規定とかさ。そもそも、「文」ってモンについての反省がないよね。英語の「文」も日本語の「文」も、おんなじって、頭から思い込んじゃってる。いや、それがキマリだってんだから、従いますけどね。そんなとこでオリジナリティ発揮しても仕方ないからさ。でも、何ページにもわたって一つの文がえんえんと続くフランス語判決文なんか、日本語でも同じようにしようとしたら、まずまちがいなく発狂します。だから当然、そんなことはしないわけ。無意味。

それにしてもさー、「こなれた日本語」とか「日本語らしい日本語」とか「正しい日本語」とか「美しい日本語」とか、なんか爛熟してるよね。これだから、「あと五年で自動翻訳機が普及」みたいな話も出てくるわけだ。いったい何度目の話か知らないけど。つまりは長すぎるわけだよね、爛熟期が。

2007/1/27

***

以上だいぶまえ自分のホームページに上げた雑文を転載したもの。最後の段落の「爛熟」が我ながらよくわからない。

副詞の「より」の話が出てくるが、こうした「より」の使い方は、周知のとおり翻訳文の影響である。呉智英のエッセイ「日本語にはなかった『ヨリ』」(『言葉につける薬』所収)によれば、昔はこれを片仮名で「ヨリ」と表記していたらしい。「本来の日本語ではない」「特殊な表現であることを強調するため」であり、「一種の新語として知識人の間に通用した」語法なのだという。呉は、丸山真男『日本政治思想史研究』(1952年)から「ヨリ流動的なヨリ政治的現実に接続する部面」という用例をとっている。

森岡健二『欧文訓読の研究』をみると、平塚らいてう「元始女性は太陽であつた」(1911年)に「私はここに更により多くの不満足を女性みづからの上に新にした」、有島武郎「惜みなく愛は奪ふ」(1920年)に「私はより高い大きなものに対する欲求を以て、知り得たる現在に安住し得る自己に感謝する」という使用例があるが、いずれも平仮名である。「ヨリ」の使用時期は、意外と狭く限ることができるかもしれない。

新訳が出たばかりのロマン・ヤコブソン「翻訳の言語学的側面について」の旧訳(1973年)には片仮名の「ヨリ」が頻出している。一例を挙げるならば、

すべての言語記号の意味とは、その記号と置き換えられ得るもっと別の、交替的な記号への翻訳であり、とくに(中略)パースが力をこめて言明したように、"もとの記号がヨリ詳細に展開される記号"への翻訳に他ならない。

(ロマン・ヤコブソン『一般言語学』p.57、強調引用者)

新訳では同じ個所が次のように訳されている。「より」と平仮名である。

いかなる言語記号の意味も、別の、代わりの記号への翻訳であり、とりわけ(中略)パースが執拗に言明していたように、「より詳しく説明されている」記号への翻訳なのである。

(ロマン・ヤコブソン『ヤコブソン・セレクション』p.246、強調引用者)

ちなみに原文はこうである。

(…) the meaning of any linguistic sign is its translation into some further, alternative sign, especially a sign "in which it is more fully developed", as Peirce (…) insistently stated.

(Roman Jakobson, Selected Writings II. Word and Language, p.261)

自分の訳文も掲げておく。太字で強調した部分がそう。2003年に書いたので当然かもしれないが、「より」で訳している。

ヤコブソンは、パースにならい、「言語記号の意味とは、その記号と置き換え可能な、さらなる別の記号への翻訳である」という。この言表から二つのアイディアを引き出すことができる。一つは、意味とは翻訳である、ということだ。これは、意味とは言葉である、ということにほかならない。よくある誤解のように、翻訳しなければテキストの意味が明らかにならない、ということではない。意味とは翻訳であるとは、意味そのものを疑問に付す言葉だ。それはむしろ、意味など存在しないということに等しい。しかしこれは、言語には形式しかない、ということでもない。形式は意味を前提としている。しかしここでいわれているのは、シニフィアンシニフィエの結合からなるシーニュという信仰の否定、あまりに整合的なこの三つの単語の整合性に対する疑念だ。右の文章から帰結するもう一つは、翻訳とは解釈である、ということである。これもまたよくある誤解のように、翻訳には解釈が不可欠だ、ということではない。端的に、翻訳とは解釈である、というのである。こちらでいわれているのは、翻訳における等価性という信仰の否定である。翻訳は非対称的である。なぜなら、記号に対して与えられる記号は、「より十分に展開された記号」であるからだ。こう考えてもいい、翻訳と意味と解釈の間にあるのは量的な差異であり、そこに質的な差異はないと。ヤコブソンは、翻訳の可能性について問うこと自体の虚構性を炙り出したのだ。

(「変な気持」)

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