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『笑点』50周年 歌丸師匠が語った“笑点の歌丸では終わりたくない”

デイリー新潮 5月21日(土)10時0分配信

『笑点』50周年を記念し、このほど番組から引退をする桂歌丸師匠(79)が思い出を語る“誌上独演会”。番組の発案者で、番組当初のレギュラーメンバーを選んだ故・七代目立川談志と出演者との間には、談志の好むブラックユーモアの是非をめぐって溝ができていたと明かす。その後、放送作家の前田武彦、「てんぷくトリオ」の三波伸介と司会者は替わり、おなじみ五代目三遊亭圓楽になったのは1983年のことだった。

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 試行錯誤を続けた『笑点』も、徐々に国民の間に定着して73年10月には40・5%という視聴率を記録するまでになった。そんな折に番組の名物の一つとなったのが、歌丸師匠と四代目三遊亭小圓遊による“ケンカ腰の掛け合い”だった。

 それは、小圓遊が歌丸師匠を「ハゲ!」と呼べば、歌丸師匠は「オバケ!」と返す。また、大喜利のお題に「新しい英語」が出されれば、歌丸師匠が「小圓遊――、フランケン・ブルドッグ」と揶揄し、小圓遊は「歌丸――、ハゲ」とやり返す。そんな2人の罵り合いは、いまも語り草となっている。

「あたしらのケンカのきっかけを拵えたのは、大喜利のお題だったんです。『新聞を読んで一言』というもので、あたしが『おい、小圓遊が殺されたよ』って笑いを取ると、小圓遊が負けじと『その小圓遊殺しの歌丸が捕まったよ』って続けたんです。それであたしはもう一回手を挙げて、『小圓遊殺しの捕まった歌丸は無罪になったよ』って言ってやった。これがもう、バカウケしましてね。あまりの大ウケぶりに、それからもやり合うことになったんです。

 それからあたしの奥さんの名前は『冨士子』って言うんですけど、小圓遊の奥さんも字が違うけど『藤子』っていう。だから、お互いに恐妻家みたいな感じでネタにしたこともありました」(歌丸師匠、「」以下同じ)

■本当は仲が良い

 本気とも冗談ともつかぬやり取りに、多くの視聴者からは「2人を仲直りさせて欲しい」との声が寄せられた。それを受けて72年8月には番組で“手打ち式”を行っている。

「あの時は握手なんかもしたんだけど、最後はやっぱりケンカ別れでね。あくまで落語家同士のシャレみたいなものだし演出のひとつですよね。でも、あたしたちの掛け合いがあまりに面白いってんで、都内の寄席でも地方での落語会なんかでも、2人一緒に呼ばれる機会が増えました。

 こうなるともう、漫才コンビみたいなもんですよ。ある時、漫才コンビの『Wけんじ』のお二人がやって来て、『歌丸さんと小圓遊さんにはかなわねえ』って言われたこともあるくらい。

 だけど、本当は仲が良いもんだから、地方の駅なんかで2人で話をしてたりすると、それを見た人から『何だ、本当は仲良いんじゃねえか』って言われたこともありました。だから、『これから一緒に出掛ける時は、なるたけ離れて歩こうじゃねえか』って、ずいぶん気を使ったりしてましたよ」

 皮肉なことに、この大成功は歌丸師匠に落語家としての初心を取り戻させたという。

「小圓遊が悪口を言うと、あたしが箒を持って追いかけ回す。そんなドタバタも面白いんだけど、途中でハッと気がついたんだ。『こりゃいけねえ。これじゃ大喜利の歌丸だ。俺は落語家の歌丸なんだ』ってね。それからは、できるだけアイツから離れるようにして、掛け合いも控えるようにしたんです。

 あの時のことは、今でも覚えてますよ。久しぶりに高座に上がって落語をやったんですけど、これが全然ウケなかった。それで『これは違うぞ』って肌で感じたんです。小圓遊との掛け合いは楽しかったし、お客も大笑いするから気分も良い。だからか、寄席に出たって小圓遊との掛け合いでごまかしちゃうんだね。それで肝心の落語は全然やっていないんですから、お客にウケるわけがない。もうね、『小圓遊とやってないとお客のウケはこんなに違うのか、自分1人だとこんなものなのか』ってもの凄く不安になりましたよ」

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最終更新:5月21日(土)10時0分

デイリー新潮

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