跳び箱が跳べなかった君へ:杉作J太郎「美しさ勉強講座」連載23
軟弱な男たちの姿に見かねて、あの先生が立ち上がった!
杉作J太郎先生の「男の偏差値がぐんとアップする美しさ勉強講座」
23時限目・跳び箱が跳べなかった君へ
体育の授業で、跳び箱が跳べなかったら。
たしかに恥ずかしいだろう。
だが、その跳び箱が百段だったら。
ほとんどの生徒は跳べないのである。そうなると恥ずかしくはないだろう。微妙な段数で、ほとんどの生徒は跳べて、跳べないのがひとりだけ、ふたりだけだったときに恥ずかしいのである。
そう考えると、恥ずかしいのは自分自身が跳べないことではなくて、少数派だからということになる。
「いや、これぐらいは跳べるだろうという高さが跳べないから恥ずかしいのだ」
そう考える人もいるだろうが、「これぐらいは跳べる」という「これぐらい」というのを決めるのがまさに「ほとんどの人間が跳べる」という、その場での多数決である。
これがオリンピックに出場する選手とかのレベルになると20段をほとんどの人間が跳ぶであろう。だが、中学、高校レベルだとほとんどの人間は跳べない。そうなると跳べないことは恥ずかしくない。
つまり、いま、自分がたまたまいる場所における少数派、ということであり、いま、自分がいる場所において比較したときに、恥ずかしくなるのである。
たとえば、ソースをこぼしてしみができてるTシャツを着ていて恥ずかしい。
ぼろぼろの、首のあたりがビロビロに伸びて黄ばんだ古いTシャツが恥ずかしい。
近所のホームセンターで200円で売ってたTシャツだから恥ずかしい。
と、そんなTシャツも、たとえばどうだろう。映画『復活の日』の草刈正雄みたいに誰もいない荒野のど真ん中にいま自分がいたら。なんにも恥ずかしくはないはずだ。
周囲の人間たちの平均値というか、常識的なラインというのを人間は知らず知らずのうちに計算して感じ取っているのだ。そしてそのラインを下回ることとか、そこから逸脱することに恐怖心を持っているのだ。
わかりにくいだろうか。
次回、俺が後藤真希さん、加護亜依さんの応援に明け暮れていた頃に体験した、ある出来事を紹介したいと思う。わかりやすい話なので二週間後をたのしみにしていてほしい。
(つづく)
<隔週金曜連載>※都合により今週は土曜掲載
【杉作J太郎:プロフィール】
すぎさく・じぇいたろう
漫画家。愛媛県松山市出身。自身が局長を務める男の墓場プロダクション発行のメルマガ、現代芸術マガジンは週2回更新中。著書に『応答せよ巨大ロボット、ジェノバ』『杉作J太郎が考えたこと』など。
おすすめ本:Jさん&豪さんの世相を斬る!(残侠風雲編)@ロフトプラスワン(ロフトブックス)
http://books.rakuten.co.jp/rb/13832873/
おすすめ本:「ボンクラ映画魂(完全版)燃える男優列伝」(杉作J太郎(徳間書店)
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