メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

蒸気、ディーゼル…往時の車両も 鹿児島(中)

南薩鉄道の開業時から路線を走っていた蒸気機関車とその魅力を語る有木さん=津島史人撮影

 鹿児島県南さつま市の鹿児島交通加世田バスセンターは、かつて薩摩半島を縦横に走っていた「南薩鉄道」の拠点で、本社も置かれていた。約30年前まで線路やプラットホームが並んでいた約3万3000平方メートルの敷地。アスファルトの合間にある芝生帯の短いレールに、蒸気機関車とディーゼル車が並んでいた。南薩鉄道で活躍した車両たちだ。

    蒸気機関車の運転席付近にある米軍の機銃掃射による穴=南さつま市加世田本町で、津島史人撮影

     黒光りする蒸気機関車の車体は、長さ8.7メートル。短く切った線路の上に置かれている。正面には、導入された順番を示す「4」と書かれた銘板がある。1926(昭和元)年から登場した、南薩鉄道初の国産車両だ。車体右側の運転席付近に、直径数センチのささくれたような穴。45(昭和20)年3月、米軍機の機銃掃射を受けた跡だ。この時は、19歳の車掌が犠牲となった。

     「私が(南薩鉄道の)OBに教わって、色を塗り整備しました」。鹿児島交通加世田営業所長で南薩鉄道研究家という有木道則さん(67)が説明する。4号車を展示保存する際に、戦争の歴史を後世に残そうと、機銃掃射の跡はそのままにされた。

        ◇

     有木さんは、加世田出身。もともとは、警視庁で要人警護を担当する警察官だった。父が南薩鉄道で蒸気機関車の検査をしていたこともあり、子供の頃から蒸気機関車と南薩鉄道に強い関心を持っていた。

     警視庁時代には、運輸省(現国土交通省)に足を運び、独力で南薩鉄道の歴史について調べた。実家の事情で警視庁を退職し、92年に帰郷。南薩鉄道記念館のオープンや、残っている車両の保存に努めてきたという。

     有木さんは特に蒸気機関車が好きだという。どんなところが良いのか。「人間が造った機械で、最も人間らしいところ」。そんな答えが返ってきた。

        ◇

     戦後、南薩鉄道は復員や買い出しなどでにぎわった。49(昭和24)年には鹿児島市への乗り入れも開始。沿線の開発も進んだ。しかし、道路網の発達で乗客が減少し、62(昭和37)年に万世線が、65(昭和40)年に知覧線が相次いで廃線となった。以降、南薩鉄道はたびたび廃止が取りざたされるようになり、そのたびに沿線住民の要望で存続してきた。

        ◇

    廃線時まで運行していたキハ103。赤く、丸い外観が親しまれた=南さつま市加世田本町で、津島史人撮影

     バスセンターの片隅にあるかつての整備工場。1914(大正3)年の開業時に導入されたドイツ製の蒸気機関車と、52(昭和27)年から廃線時まで走っていた丸くて赤い外観の車両「キハ103」があった。「マッチ箱のよう」と愛されたキハ103は、かつて記念館のレストランとして再利用され、客席が食堂仕様に改造されている。しかし、運転席は現役当時のまま。ドイツ製蒸気機関車とともに現在、ペンキの塗り替え中だ。

     有木さんに、キハ103のシンプルな運転方法の説明を受ける。山あいと田園を抜け、忙しく作業する運転士の姿が一瞬、見えた気がした。【津島史人】

    毎日新聞のアカウント

    話題の記事

    アクセスランキング

    毎時01分更新

    1. 沖縄女性遺体 容疑者、子ども生まれたばかり
    2. 沖縄女性遺棄 「わいせつ目的で狙った」容疑者が供述
    3. プーチン大統領 北方領土「一つとして売らない」
    4. 沖縄女性遺体 米軍属「性的暴行」供述 背後から棒で頭?
    5. 松岡修造氏 熱血エール「やり過ぎろ!」→水攻撃止まらず降参

    編集部のオススメ記事

    のマークについて

    毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです

    [PR]