順逆になりました・・
・・転載開始・・
広島の原爆は、推定十四万人(1945末)と言われる人にの血を
奪っただけでなく、生き残った被爆者の子や孫にまで、多大な影響を
もたらし、苦悩の底に落としていったのだ。
そこに、原爆の悪魔的兵器と言わざるを得ない恐ろしさがある。
”広島の心ー二十九年” 第4章”被爆二世の叫び”には、胎内被爆者など、
被爆二世の体験も収録されている。
この広島県反戦出版委員会のメンバーである山上則義も、胎内被爆者であり、
彼自身の手記も収められている。
山上が、自分が胎内被爆者であることを意識したのは、中学二年生の終わりであった。
体がだるく、食欲がなく、首に腫瘍ができた。
悪性腫瘍であった。すぐに入院し、手術を受けた。
しかし、医師は”命は長くないかもしれない”というのだ。
その言葉に、母は号泣した。
そして、思い詰めた様に語った。
”お母ちゃんが、あの原爆の黒い雨で、リンゴを洗って食べたのが
いけんのかねえ”
あの日、母は爆心地から2、5キロほど離れた自宅で被爆。
その時、彼は母の胎内にいたのだ。
山上は自分が”被爆二世”であることを思い知らされた。
絶望の淵に突き落とされた。
半年間の入院中、同室にいた三人が亡くなったが、彼の病状は
好転し、翌年の春から学校にも復帰した。
母は嬉しそうに送り出してくれたが、山上はいつ死ぬかも知れないという
恐怖に苛まされていた。
黒い雨は、十数年を経て、山上の心から希望という太陽を奪った。
太陽なき青春の闇は、限りなく深かった。
未来に希望を思い描くことのできない彼は、自暴自棄になり、
喧嘩に明け暮れた。
原爆を落としたアメリカが憎かった。
バイクに乗って米軍基地のある山口県の岩国に行き、米兵と殴り合った。
負けてボロボロになった。
もともと勝つつもりはなかった。
殺されてもいいと思っていた。
”諦めとは停滞であり、死を意味します”とは、アメリカの作家
パールバックの箴言(しんげん)である。
だからこそ、人生には、希望の哲学が必要なのだ。
宝塔 三十 終わり・・