『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』(上)
ダニエル・カーネマン(2012)
「これ一冊でいい」といった極端な発言には、なるべく慎重であるのが大人というものでしょうが、上下巻を読了した今、自信を持って言えます。
認知科学はこれ一冊でいい。
もっと言うなら、
認知科学をいくら勉強しても、本書を読まないと画竜点睛を欠く。
そのぐらい大した本です。もう手放しで誉めちゃう。パチパチ。
本書のハイライトは第4部『選択』第26章『プロスペクト理論』
英語で言うと prospect theory.
筆者のダニエル・カーネマン氏は行動経済学でノーベル経済学賞を取った人ですから、その ”総本家秘伝” とも言えるのが本書の位置づけです。
『プロスペクト理論』を、ものすごく簡単に要約するとこうです。
人間は得をする時と損をする時で、価値の評価が異なる。
本書の表現を借りてみましょう。
・利得も損失もありうるギャンブルでは損失回避になり、極端なリスク回避的な選択が行われる。
・確実な損失と不確実だが大きな損失というように、どちらに転んでも悪い目の出るギャンブルでは、感応度の逓減によりリスク追求的になる。
注)赤字は本ブログ上のみ
あなたはコイン投げのギャンブルに誘われました。
裏が出たら、100ドル払います。
表が出たら、150ドルもらえます。
このギャンブルは魅力的ですか?あなたはやりますか?
払う可能性のある金額よりもらう可能性のある金額のほうが多いのだから、きっとこのギャンブルが嫌いだろう。このギャンブルを断るのはシステム2だが、その決定的な要因となるのはシステム1による感情反応である。たいていの人にとって、100ドル損をする恐怖感は、150ドル得をする期待感よりも強い。私たちはこうした例を多数調査した結果、「損失は利得よりも強く感じられる」と結論し、このような人々を「損失回避的」であると定義した。
そんなの当たり前じゃん、と思うでしょう?
でもプロスペクト理論登場以前の経済学における判断主体は、合理的選択モデルや期待効用理論に従って意思決定をするとされていました。
要は効用/損失を数値化して絶対値が同じならば、プラスであろうとマイナスであろうと同じウエイトで評価されるという訳です。
どうでしょう?実際の人間の判断は、そんなに数学的ではありませんよね。
筆者がプロスペクト理論に取り組むようになった、きっかけが面白いです。
「経済理論においては、経済主体は合理的かつ利己的で、その選好はかわらないものと定義されている」
私は驚愕した。大学には経済学者も大勢いて、同じ建物の中で研究をしている。だが私は、お互いの学問的世界がどれほど違うのか、考えたことはなかった。心理学者にとって、人間が完全に合理的でもなければ完全に利己的でもなく、その好みは何であれのべつ変わることは自明である。これでは経済学と心理学は、まったく異なる種を研究しているようなものではないか。実際、行動経済学者のリチャード。セイラーは、経済学者が定義する合理的経済人はエコン類(Econs)と呼ぶべき別人類であって、ヒューマンではないと揶揄している。
たまたま渡されたガリ版刷りの論文の、冒頭の一文に感じた小さな「違和感」
そこから今でも社会科学の分野において、最も重要な理論である期待効用理論(合理的経済主体モデル)の欠陥を補う新しい理論体系が生まれたと。
なかなかユーモラスな文章ですが、認知科学の理論と手法を以って、新たに経済学の領域に取り組んだ筆者の学際的発想が、行動経済学の分野を大きく前進させた訳です。
本書は学術的な内容にも関わらず、極めて平易で読みやすい文章で書かれているのですが(翻訳だけど)、以下のようなセンテンスから筆者の見識を垣間見る事が出来ます。
プロスペクト理論の目的は、ギャンブル間の選択において、合理性の公理に系統的に反する証拠を挙げて理由を説明することにある。
プロスペクト理論に組み込まれた人間の不合理性は、経済理論に基づく予測とは無関係であることが多い。理論に基づく予測は、状況によっては精度が高く、それ以外の多くの状況でもかなりよい近似が得られる。ただし一部の状況では、予測と現実の乖離が甚だしい。プロスペクト理論が規定するヒューマンは、富や効用の合計の長期的見通しではなく、利得と損失に対する瞬間的な感情反応に従って行動するからである。
そんなのあたり前じゃん、と万人が納得するということは、理論の正しさの裏付けになりますよね。筆者も自分のプロスペクト理論を以下のように語っています。
理論が世に認められるためには、有意義で現実的な仮説であるというだけでは十分ではない。研究者がツールとして実際に活用できる理論でなければだめだ。よほど役立つものでない限り、研究者は重いツールを使いたがらない。プロスペクト理論が多くの研究者に受け入れられたのは、それが「真実」だからではなく、期待効用理論に付け加えたコンセプト、とりわけ参照点と損失回避という二つのツールが、重たくても使う価値があったからである。これらのツールはこれまでとはちがう予測を可能にし、それは正しいことが確かめられた。私たちは幸運だったのである。
自然科学者にはなかなか書けないリアルな文章ですね。
研究者は一旦理論を定説として受け入れしまうと、うまく説明できない事実に出合っても、完璧な説明がきっとどこかにあるはずで、自分が何かを見落としているか気づいていないだけだと考えやすいとも筆者は指摘しています。
一度受け入れた理論については、疑わしい点も好意的に解釈しやすい。
なので理論の根本的な欠陥に気づいたり、そもそも理論の妥当性に疑念を持つこと自体が難しいのだと。
本書(下巻)では他にも、感応性の逓減、参照点、経験効用、決定加重など、ビジネスの実務においても有用且つ興味深い概念が多数取り上げられています。
知の冒険ガイドとしても、マーケティングに関心のあるかたの教科書としてもお薦めできる、激推し君な一冊。上下巻ですけど。
以上 ふにやんま