2016年05月20日

 天皇問題 Q&A特集@

 天皇問題 Q&A
「天皇の日本史(上下巻)」「天皇問題」など天皇に関する著作があり、講演や勉強会などでも、天皇について、多くの質問をいただいてきました。
 本ブログでも、現在、多くの方々から、ご意見や質問が寄せられています。
 そこで、今回から数回にわたって、これまでのご質問とわたしの拙い回答をQ&Aの形で整理してみようと思います。
 
Q 天皇と今上天皇、天皇陛下という呼称は、どのように使い分けられているのでしょうか。敬称抜きの天皇という呼び方は不敬にあたりませんか。
A 天皇ということばは、個人を超越した歴史上の存在という抽象的な意味をふくんでいます。
 国家統一、国民統合の象徴としての天皇という場合、さしているのは、天皇個人ではなく、歴史的実体としての天皇で、国体と同じ意味です。
 今上天皇は、現在の天皇という意味で、昭和天皇という尊号はありますが、平成天皇とはいいません。
 天皇個人への敬称は、陛下で、天皇陛下もしくは今上陛下とお呼びします。

Q 戦後、主権が、天皇から国民へ移ったと教えられました。天皇は、いつの時代から主権者となられたのですか。
A 明治憲法に主権という用語はありません。
 天皇主権ということばは、戦後憲法の国民主権に合わせて、戦後、つくりだされた造語です。
 国家体制が、権威(朝廷)と権力(幕府)に分離された鎌倉時代以降、日本には君主権が存在せず、明治天皇も、象徴元首だったにすぎません。
 したがって、歴史上、天皇主権という地位も実体も存在しなかったことになります。
 主権という考え方もことばも、ヨーロッパからに輸入で、君主権(ソブリンティ)は、絶対王権をさします。
 ヨーロッパでは、絶対王権が倒されて、主権が国民に移動したという解釈のもとで、君主権が、国家主権にうまれかわりました。国家は、国民の手によるものなので、国民主権は、国家主権とイコールという理屈です。
 日本の軍国化は、天皇の権威を利用して、軍部がつくりあげた超越的な権力構造で、天皇が主権をもった独裁体制という解釈は誤りです。

Q 万世一系は、なぜ、男系でなければならないのでしょうか。過去に、南北朝の王朝交代のように、天皇の家系が変更された事件があったのでしょうか。
A 万世一系と天皇家の家系は同一ではありません。
 万世一系は、神武天皇以来の男系血統で、これを木の幹にたとえると、天皇家は枝の一つで、戦後、臣籍降下された11家系もそれぞれ枝です。
 歴史上、皇統が絶えることがなかったのは、一本の枝で男系が絶えると元の幹に戻って、新たな枝から男系相続をもとめたからです。
 26代継体天皇は、25代武烈天皇に男子がなかったため、別の枝(応神天皇系5世)から天皇に就きましたが、このとき、仲哀天皇系(5世倭彦王)という選択肢もありました。
 南北朝は、89代後深草天皇(持明院統)と90代亀山天皇(大覚寺統)の両統迭立ですが、両系統とも父親が88代後嵯峨天皇なので、いずれも、男系継承(万世一系)となります。
 女系の場合、女帝の皇子が皇位に就くと、天皇の血統が、枝ではなく、別の木に移るので、万世一系が途切れます。
 遺伝子学的には、Y染色体は男子(XY)のみに相続され、X染色体は男子と女子(XX)の両方に相続されます。したがって、Y染色体をたどってゆくと男系の単一祖先にゆきますが、X染色体は、両性に相続されるので、歴史を遡るほど祖先が倍数的にふえてゆき、ルーツを特定できなくなります。
 神武天皇を祖とする男系相続(万世一系)には、遺伝子学的な根拠もあったのです。

Q 皇国史観は、過去の亡霊のようにいわれていますが、現在の日本史とどこがちがうのでしょうか。
『皇国史観』という歴史書があるわけではなく、『日本書紀』や『古事記』から北畠親房の『神皇正統記』、頼山陽の『日本外史』、徳川光圀の『大日本史』など日本の代表的な歴史書物が、戦後、すべて否定されて、大雑把に皇国史観と呼ばれるようになりました。
 戦前までの歴史観は、天皇中心ですが、これは、ヨーロッパの絶対王権とはまったくの別物です。
 天皇中心は、君民一体という意味で、天皇は、古代から国家の平穏と国民の幸福を祈る民族の祭り主として、国民の敬愛の対象とされてきました。
 幕府に、統治の正統性(征夷大将軍)を授ける権威として、権力を監視する役割も担ってきました。
 日本の歴史書は、こうした天皇中心の理想的な国の形を脈々と語りつたえてきたものです。
 ところが、戦後、日本古来の歴史観が、歴史学会や教育界、論壇、マスコミから「大東亜共栄圏の建設の名の下に国民を侵略戦争に駆り立てる上で大きな役割を果たした」「周到な国家的スケールのもとに創出された国定の虚偽観念の体系」(岩波ブックレット)と猛攻撃をうけることになりました。
 ここからうまれたのが自虐史観で、現在も、歴史学研究会(東京帝国大学系)と日本史研究会(京都帝国大学系)が、マルクス史観・自虐史観に立った反日運動をくりひろげています。
 戦後、国史否定論が過激になったのには、2つの理由があります。
 一つは共産主義革命で、もう一つは大東亜戦争の敗戦です。
 大東亜戦争は、皇国思想と民主主義の戦争だったといえるでしょう。
 民主主義は、革命と戦争のスローガンで、フランス・ロシア革命、アメリカ独立戦争、中国革命、そして米ソが同盟した第二次世界大戦まで、(人民)民主主義による伝統的体制の打倒が謳われました。
 世界を戦争に駆り立て、暴力革命をおこし、数億人といわれる犠牲者をだしたのは、原爆で大東亜共栄圏思想を打ち砕いた民主主義だったのです。
 日本は戦争に負けましたが、伝統的体制を維持して、現在に至っています。
 左翼陣営が皇国史観を目の敵にするのは、国史を完全否定することによって(人民)民主主義戦争を完遂しようという政治的意図がはたらいているからとみるべきでしょう。

Q「日本は神の国」の発言を批判された森喜朗が「命を大事にしよう。生命は神様がくれたもの。神は、天照大神でも日蓮でも、おしゃか様でもキリストでもよい」と弁明しました。『日本書紀』にもでてくる「神国」とは大きな隔たりがあり、違和感をおぼえました。
A『日本書紀』に記されている神国は、三韓征伐の際、新羅王が神功皇后の軍勢を見て「神国の兵である」としてたたかわずに降伏したという故事によるもので、幕末におきた神州不滅思想は、国家が危機に陥っても、元寇と同様に神風が吹くという戦前の「神国信仰」へとつながりました。
 もともと、神国は、祭祀国家のことで、古代律令制の官庁組織(二官八省)では、二官のうち神祇官が太政官の上位にありました。
 天武天皇の時代に、伊勢神宮をはじめ、全国の神社が整備されて、中央集権の基礎がつくられましたが、祭祀によって、国家が統一されたケースは、世界史的にも稀有でしょう。
 大和朝廷の前身である邪馬台(ヤマト)国の女王日巫女(ヒミコ)についても、魏志倭人伝に「鬼道で衆を惑わす」と記されていることから、古代日本は、ヒトとカミ、自然が渾然と一体化していた神の国だったことがうかがえます。
posted by office YM at 12:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする