北朝鮮で受けた10時間の拘束と尋問――BBC記者手記
- 2016年05月20日
北朝鮮で取材していたBBCのルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ記者は先週、同国から国外退去を命じられ、報道内容を謝罪するよう強要された。10時間にわたって外部との連絡を絶たれ、尋問を受けたウィングフィールド=ヘイズ記者が当時の状況を振り返る。
北朝鮮で取材を開始して1週間。私は早く帰りたいと思っていた。平壌を訪問するノーベル賞受賞者3人に同行するという取材旅行は非常に疲れる、ストレスの多いものとなっていた。
平壌のどこに行くにも、5人のお目付け役が付いて回った。夜になるとBBC取材班は護衛のいる施設の中、暖房が利き過ぎた家に閉じ込められた。誰かれとなくけんかになりそうな状態だった。お目付け役はあからさまな敵意を向けてきた。
北京で冷たいビールを飲み、熟睡できるのをみんなが楽しみにしていた。
平壌空港で、女性の出入国審査官はなぜかずいぶんと時間をかけて私のパスポートを審査していた。彼女がやっとスタンプを押した時、すでにほかの人はみな審査を終えてゲートに行っていた。変だなと思った。しかし、すぐに警戒心は起きなかった。
すると、北朝鮮の入管警備官が私を呼んだ。私のデジタルカメラを手にしていた。
「これを検査しなくてはならない」とその男は告げ、廊下の向こうを指差した。
奥の部屋では、もう一人の入管警備官がラップトップ・パソコンで私のデジタルカメラに入っているファイルを開こうとしていた。
「何が問題なんですか」と私は言った。「そのカードには何も入っていない」。
「ともかく待て」と警備官は答えた。
「待てません。北京行きのフライトに乗らなくては」
警備官は私をまっすぐ見すえた。「飛行機はすでに出発した。あなたは北京には行かない」。
こちらの警戒心が一気に高まった。
「何てことだ。これは現実だ。飛行機は行ってしまった。北朝鮮に取り残される!」――。私は心の中で叫んだ。
実際はそうでなかった。その時、同僚のマリア・バーン、マシュー・ゴッダードの2人も飛行機に乗るのを拒否し、飛行機に押し込もうとする入管警備官に怒鳴りまくっていたのだ。
しかし、何も知らない私はとても孤独な気持ちになっていた。
部屋の入り口に、例のお目付け役が2人現れた。
「関係部署の人間に会ってもらう。すべてははっきりする」
そう告げられて、待機していた車まで連れて行かれ、後部座席に乗せられた。お目付け役が両脇に座った。
ひと気がほとんどない平壌の街中を進む間、誰も言葉を発さなかった。くすんだコンクリートの集合住宅を眺めながら、置かれた状況について考えた。たとえ北朝鮮でも、上層部の許可がなければ訪問中のジャーナリストを拘束したりはしない。平壌のホテルからポスターを盗んだとして15年の労働教化刑に処せられた米国人学生のオットー・ワームビアさんのことを考えた。今度は私が国営テレビで見世物になるのか。
車は古い灰色のホテルの車寄せで止まった。会議室に連れて行かれ、椅子に座るよう言われた。金日成と金正日の巨大な写真が向かいの壁に掛かっている。
濃い色の人民服に身を包んだ人たちがテーブルの向かいに座った。年長者らしき男性がまず口を開いた。
「ルーパートさん、この面談は簡単にすぐに終わらせることができます。あなたの態度次第だ」
私の報道が朝鮮の人々を侮辱していると言われた。自分の過ちを認めなくてはならないという。
私がノーベル賞受賞者の訪朝について書いた記事3本のプリントアウトを、つきつけられた。BBCのウェブサイトに掲載されたものだ。
「朝鮮人を醜いと思うか」と年長の男性が尋ねる。
「いいえ」と私。
「朝鮮人の声は犬みたいだと思うか」
「いいえ」とまた答える。
「それならなぜこのような事を書くのか!」と男性は怒鳴った。
混乱していた。何のことだろう。記事の1本を見せられた。問題の個所が黒いマーカーで囲ってある。
「険しい表情(grim-faced)の税関職員が、よくあるいささか馬鹿げて大き過ぎる軍帽を被っていた。ソビエト連邦時代に人気があった軍帽だ。やせた体型を包むだぶだぶの制服に大きな帽子では、滑稽なほど頭でっかちに見える。私の携帯電話を指差しながら、「開けろ」とうなるように言う。私は従順にパスコードを打ち込む。携帯電話を取り上げ、すぐ写真を開く。子どもたちがスキーをしている様子や日本の桜の花、香港の景色が出てくる。満足したらしく、今度はスーツケースに。「本か?」と詰問調の大声(barks/訳注:英語では「犬が吠える」という意味もある)で聞かれる。いえ本はありません。「映画は?」いえ映画はありません。次の台に行くと、ずっと愛想の良い女性がすでにラップトップ・パソコンを開いて見ている」
まさか本気なのか、と思った。「険しい表情 (grim-faced)」と書いたのを「醜い」だと誤解し、「詰問調の大声(barks)」で私が彼らの声を犬みたいだと書いたと、そう思っているのだ。
「あなたたちが思っているような意味ではない」と抗議した。
年長の男性が疑わしげな目を向ける。
「私は英文学を勉強した。表現の意味が分からないと思うか」
彼らは2時間にわたって、間違いを認めるよう要求し続けた。ついに年長の男性が立ち上がった。
「お前の態度から、簡単に終わらないとはっきりした。本格的な取り調べを行うしかない」
若い男性が喋り始めた。
「私を誰だか知っているか」
「いや」私は答えた。
「私は司法当局の者だ。ケネス・バエ事件の取り調べを担当した。今度はお前を取り調べる」
腹の底が一気に冷たくなった。ケネス・バエは2013年に平壌で懲役15年の判決を受けた、韓国系アメリカ人だ。
尋問官は私のこれまでの色々な記事を、一言一句しらみつぶしにした。ほとんどすべての単語が問題だという。しかし書いた内容そのものが大事ではないのだ。単に、私に自白させるための武器として、私に投げつけてくるだけだ。
「一晩中こうして座っててもいいんですよ。署名なんかしないから」と私は言った。
「時間はたっぷりある」と若い方が直ちに切り返してきた。「一晩で終わることもあるし、1日かかることもある。1週間でも1カ月でも。選ぶのはお前だ」。
何時間も何時間も、罪状を繰り返してきた。途切れることなく、容赦もなかった。2時間ごとに休憩に入り、別の2人組に交代した。「重大な犯罪」という表現を使い始めた。
「どんな罪だ」と尋ねると、「朝鮮人民と国家の侮辱だ」と尋問官は答えた。
もう尋問が始まってから5時間以上たっていた。私は知りようもなかったが、平壌の別のホテルでこのころ、ついに緊急事態だと同僚たちが気づき始めた。
アジア総局長ジョー・フロートを筆頭にした別のBBC取材班が平壌入りして、朝鮮労働党大会を取材していた。北京の同僚たちから、私たちが中国にたどりつかなかったと電話で連絡を受けたのだ。
そこでジョーは私たちを探し始めた。お目付け役を通じて外務省に連絡したが、私たちの居場所は見当もつかなかった。私の拘束場所をお目付け役が探り当てるまでに、さらに2時間かかった。
取調室ではこのころ、韓国メディア記事を印刷したものが新たに私の前に並べられた。
「お前の報道について、韓国メディアが何と言っているか知ってるか」と若い尋問官が詰問してきた。
「いいえ」と私は答えた。
「朝鮮政府の言うことはすべて嘘だと、お前は報道していると書いてあるぞ!」尋問官は私を睨みつけた。
「平壌に来る前、韓国メディアと接触したか? 反朝鮮プロパガンダ作戦を展開しようと、韓国メディアと打ち合わせしたのか?」
でっちあげ裁判というのはこうやって作られるのだ――。そういう思いが自分の中をよぎった。
午前1時半ごろ、トイレに行かせてほしいと頼んだ。トイレに行くたびに、監視役が2人ついてきた。1人は隣の便器の前に立ち、1人は真後ろに立っていた。
トイレから出てくると、別の部屋から以前のお目付け役、オーさんが出てきた。「君の上司がこちらに向かってるらしい」
信じていいのか分からなかったが、確かにジョーはこちらに向かっていた。後になって教わったことだが、このときジョーがホテルに着くと、外務省のお目付け役が振り返ってこう言ったそうだ。
「フロートさん、覚えておいてください。これから会う相手に我々は手出しできない」
その1時間後、私が拘束されていた部屋にジョーが連れられてきた。安堵の気持ちが押し寄せてきたが、ジョーは心配そうな面持ちだった。マリアとマシューがどこに連れていかれたのか、まだ分からなかったからだ。2人からは何の連絡もなかった。ジョーが、若い尋問官を指さした。
「君を拘束して、北朝鮮の印象がどれだけ傷つくか、彼はどうでもいいらしい。裁判にかけようとしてるみたいだ」
この状態を早く終わらせなくてはならなかった。そしてそれには、私が殊勝な態度を見せる必要があった。
「自分の記事が不快にさせたことを謝罪する」短い手紙を私が書くことで、全員が合意した。手書きの文章で、公表しないという合意内容だった。
「2016年5月7日 平壌
謝罪
関係各位
私、ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズは、朝鮮民主主義人民共和国の人々と政府に、私が平壌滞在中に書きBBCのウエブサイトに掲載された記事が不快にさせたことを、正式に謝罪します。
ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズBBC東京特派員」
「関係各位
BBCになりかわり私は、このような残念な誤解が将来起きないよう努力します。
朝鮮民主主義人民共和国の当局との合意にもとづき、該当記事をウエブサイトから削除します。
ジョー・フロート
アジア総局長
BBCニュース」
しかし数分もたたないうちに、尋問官は前言を翻した。
「誠意の表れとして、起立して読み上げろ」 手紙を私に突きつけて命じてきた。
部屋の隅では男がビデオカメラで撮影していた。
私は拒否した。
午前3時半、ついに私は解放され、マリアとマシューがいる場所へ連れて行かれた。2人は平壌郊外の丘にある別のゲストハウスで拘束されていたのだ。私が空港で姿を消してからもう10時間以上たっていて、2人は私を心配して慌てふためいていた。
次の日には大同江の中州に立つ、羊角島ホテルへの移動が許された。この巨大な高層ホテルに国際メディアは全員まとめられていたので、今までよりずっと安心できた。しかしさらに2日間、北朝鮮からの出国は認められなかった。
しかし8日の月曜日になり、空港へ車で向かう準備をしているところでいきなり、政府は私を国外追放すると発表した。なぜ私を拘束してから追放したのか? 政府の上の方で誰かが、ノーベル賞受賞者たちの訪問が、私の報道のせいで台無しになりそうだと判断したのではないかと私は思っている。北朝鮮政府は、国際社会に認められたくて仕方がないのだ。それだけに、ノーベル賞受賞者の訪問は政府にとってきわめて重要なイベントだった。北朝鮮は、3人の受賞者に国の最高の姿を披露して回ったし、最も優秀な学生たちに引き合わせた。私たちの報道はそのイベントを脅かした。そこで、みせしめが必要だったのだ。
皮肉なことにそのおかげで私は、北朝鮮国家の暗い心臓部を垣間見る貴重な機会を得た。私が拘束されていたのはわずか10時間だ。しかしその間に、北朝鮮でいかに簡単に人が消えていなくなるか、私は目の当たりにした。1人きりにさせられることがいかに恐ろしいか、犯してもいない罪で責めたてられることがいかに恐ろしいか、証拠などどうでもいい、有罪が最初から決まっている状態で、裁判にかけるぞと脅されることがいかに恐ろしいか。私は実感する機会を与えられたのだ。
(英語記事 Detained and interrogated for 10 hours in North Korea)