ピケティブームの真実とは? 18世紀のルソーから始まった「不平等との闘い」を総ざらいする
『不平等との闘い ルソーからピケティまで』 (稲葉振一郎 著)
聞き手「本の話」編集部
――日本の経済学界には問題があったのでしょうか。
国内的な事情が絡んでいます。戦中はマルクス研究が出来ませんから、アダム・スミスが一生懸命読まれていたんです。スミスに迂回して日本における近代を考えていたといいますか。スミスを理解するには社会契約論、自然法も知る必要がある。スミス、リカードウ、ミルなどの経済学史の研究が盛んでした。ただ、次第に現状分析と思想史の乖離が激しくなっていきます。良くも悪くも思想史研究が歴史研究として自立して、現状分析のための準備段階、序奏という意味を失っていくのです。
――確かに、本書で言う「不平等ルネサンス」は新鮮です。
私が「不平等ルネサンス」と呼んでいる1990~2000年代の不平等研究は、日本ではあまり紹介されていないですね。経済学に限らず日本の社会科学は輸入学問の色彩が強かったのですが、この時代はそれを脱して自立していく時期です。同時にそれはたまたまバブルと、「日本ブーム」とも重なっていました。しかしそれには悪い面もあって、日本では興味を持たれないけれど、他の国、世界では盛んに研究されている問題への感度が、輸入学問時代よりも低くなってしまったのです。さすがに90年代後半からははっきり潮目が変わりますが、70年代から80年代、バブル期はまさにそういう時代で、「一億総中流」の日本において貧困や不平等への関心が低くなってしまいました。途切れてしまった「不平等に対峙した学問的遺産」の再発掘をしたいという気持ちはありました。
――最後に、今後の「不平等との闘い」についてどう考えますか?
ピケティの問題意識は「不平等と再分配」で若いころから変わっていません。ですが、最初は理論家だったけれど、これ以上新古典派経済学の理論モデルを突き詰めてもだめだと考え、実証研究へ行ったのでしょう。歴史に向かったことには、彼の個人的資質や、フランスの知的風土とも関係あるかもしれませんが。
繰り返しになりますが、歴史的なコンテクストを見失うのは良くないと思うんです。理論が経済学の王様である、という考え方は崩れてきています。理論は所詮道具です。道具をどう使うかという実証研究が重要になってきたのです。
――読者にメッセージをお願いします。
大学を出てしばらく働いて、勉強のありがたみが分かった人たちに読んでいただけたらと思っています。10年後に読んでも古びない内容にしたい、と思って作りました。タイトルに興味を持っていただいた方には損はさせません(笑)。