冨田勲—徳川家康と初音ミクのあいだ

音楽界に巨大な足跡を残した作曲家・冨田勲。彼の原体験や幾多の楽曲の裏側を通して、その人生を今回の「一故人」では描き出します。幅広い楽曲を生み出した根底には、何があったのでしょうか?


大河ドラマの音楽の「手本」となる

冨田勲(2016年5月5日没、84歳)は慶應義塾大学在学中の1952年、全日本合唱連盟合唱コンクールの課題曲の公募で作品が1位に入選し、作曲家としてデビューした。慶應高校時代から作曲家の弘田龍太郎などに師事して学んできた冨田は、この入選を機に本格的に活動を開始する。とくにNHKではデビュー当初より多くの仕事を手がけ、なかには『きょうの料理』のテーマ音楽(1957年)のようにいまだに使われている作品もある。

大河ドラマの音楽も第1作の『花の生涯』(1963年)をはじめ、計5作を手がけているが、そのきっかけは偶然にすぎないという。映画に匹敵するドラマをつくるべくNHKは放送開始の数年前から準備を始めていた。NHKの上層部は音楽も映画並みのスケールの大きなものにしたいと考え、このころラジオで放送されていた『立体音楽堂』の収録現場を見学にやって来たという。これはNHKラジオの第一放送と第二放送と二つのチャンネルを使った、ステレオ放送の先駆けというべき番組である。番組は毎回、何人かの作曲家が持ち回りで担当しており、くだんの見学の際の受け持ちがたまたま冨田だった。《あの日、スタジオで録音作業をやっていたのが僕じゃなく山本直純さんだったら、当然彼が依頼されていたと思う。僕は昔から運がいいんです》と彼がのちにインタビュー(『CDジャーナル』2015年3月号)で語っているのはそのためだ。

局のお偉方は録音現場で聴いた冨田の音楽にいたく感激して、彼に白羽の矢を立てたという。こうしてできあがった『花の生涯』の音楽は、このあとの大河作品の手本となった。作曲家の青島広志は、そのテーマ曲について《混沌とした序と ひな びた主要部との対比、そして漠とした結尾という構成は、以後多く用いられた》と評している(『フィルハーモニー』2003/2004 Vol.2)。

『花の生涯』のあと冨田がかかわった大河ドラマは、『天と地と』(1969年)、『新・平家物語』(1972年)、『勝海舟』(1974年)、そして『徳川家康』(1983年)である。『徳川家康』では、大河ドラマが放送20年を機に翌年からしばらく近現代物に移行するため、時代物に一旦区切りをつけるという意図から第1作の作曲者である彼の再登板が決まったという。冨田は、家康に対して腹の底で絶えずコンピュータが計算しているというイメージを抱いており、ここからテーマ曲にコンピュータによる「トコトコトコ……」という反復音を入れた。大河ドラマのテーマ曲にコンピュータが導入されたのはこれが初めてだった。

しかし先にオーケストラが演奏してしまうと、コンピュータはそれに合わせられない。そこでサイン波でつくった「キッコッコッコッ、カッコッコッコッ」という信号音に合わせて演奏してもらうようNHK交響楽団に頼んだ。冨田の弟子にあたる松武秀樹のサポートしていたYMO(細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏によるテクノバンド)がすでに採用していた方法だが、これにN響の楽団員は抵抗する。しかたがないので結局、赤と青の発光ダイオードが信号音に合わせて色の変わるプログラムを組み、それをビデオカメラで撮って、楽団員にはその映像をスタジオで見ながら演奏してもらったという(田中雄二『電子音楽 in JAPAN』)。

冨田にとって徳川家康は、歴史上の人物のなかでも格別の思い入れがあったようだ。彼自身は東京生まれながら、父も祖父母も家康と同じ三河・岡崎(愛知県)の出身だった。とりわけ祖母は家康に信仰にも近い崇拝をしていたという。『徳川家康』のテーマ音楽にも、子供のころ聞いた祖母の話が多分に影響しているように思うと、冨田は後年述懐している(『フィルハーモニー』2003/2004 Vol.2)。

メロディよりも音の響きに関心を抱く

1932年に東京で生まれた冨田勲は、生後まもなく中国に渡っている。7歳で父の実家のある岡崎市に戻り、本宿小学校に入学した。太平洋戦争が勃発したのは小学3年生のときだ。戦時下の学校では、軍隊が無線に用いていたモールス信号の授業もあったという。モールス信号は、友人たちとの戦争ごっこでも手製の竹笛でよく吹いていた。そのうちに一音だけではつまらないと、竹笛にいくつも穴を開けて音階が出るようにし、どこへ行くときにも持ち歩いて吹くようになる。山に向かって吹いたり、トンネルの入口から奥に向かって吹いたりと、冨田少年には場所によって異なる音の響きが面白く思われた。

岡崎周辺は軍需工場など軍の施設が多かったため、戦争末期には盛んに米軍の空襲を受けた。この地域では小山と谷が幾重にも続いており、飛行機の音が複雑に響く。遠くを飛んでいると思っていたら、突然目の前に敵機が現れ、機銃掃射してくることもあった。そのため、音を聞いただけで敵機か味方の飛行機か、どこから現れるか、すばやく判別できなければ命にかかわった。

冨田の音響にまつわる体験としては、これ以前、中国での幼少期にも重要なできごとがあった。父がよく連れて行ってくれた北京の天壇公園にある「回音壁」との出会いがそれである。これは円形に湾曲した壁で、その壁のそばで耳を澄ますと、ずっと遠くの小さな音まで手に取るようにわかったという。

作曲家になった冨田がメロディよりは、音をどの方向から出し、どう移動させるか考えながらコントロールする音場演出にこだわったのも、中国や岡崎での体験から音の響きに関心を抱いたことがそもそもの原点にある。

NHKの『立体音楽堂』にかかわったのち、本格的なステレオ時代に入ると、各メーカーから発売された4チャンネル・ステレオにのめりこむ。これは前と後ろ、それぞれ左右に設けられたスピーカーから音を出す装置だ。冨田はさらに天井にもスピーカーを追加し、床上の4つのスピーカーとそれぞれを線で結んだ形から「ピラミッドサウンド」と名づけた。このピラミッドサウンドを各地での講演にて披露し、1979年には日本武道館でコンサートも行なっている。

広大な空間を音響で包みこむ「トミタ・サウンドクラウド」と名づけられた大規模な野外コンサートも、ピラミッドサウンドの延長線上にある。1984年にオーストリアのリンツ市で、ドナウ川の両岸や船、さらにはヘリコプターにまで大音量のスピーカーを設置して行なわれたのがその始まりだ。以後、ニューヨークの自由の女神百年祭(1986年)、岐阜市でのぎふ中部未来博(1988年)など世界各地で開催されている。

このうち中部未来博では長良川河畔を舞台に、岐阜県内の山村の子供たちが手製の竹笛を上空に向かって吹くと、空のかなたから宇宙船が現れる演出がなされた。その宇宙船に乗っていたのが、宇宙からの友好と平和の使者に扮したアメリカ人歌手、スティービー・ワンダーだ。スティービーは会場の大型画面を介して子供たちの送った信号にハーモニカで応答し、やがて子供たちの笛と地元の合唱団とコラボレーションを繰り広げた。

先に書いたように、戦時中に冨田少年は竹笛で、戦争の道具として訓練させられたモールス信号を吹き、また空から現れてはあらゆるものを破壊する飛行機に恐れおののいた。

《かたや現在、半世紀後にこのようなコンサートをするとは私自身が想像もしていなかった。平和な時代となった日本で、子供たちは戦争などは知る由もなく、楽しく竹笛を作り、楽しく演奏している。その結果、友好と平和の使者が空から現れ、共演するといったことは、あの不幸な時代であっても、何かそのうちに空から友好的な、いわば救世主が現れることを心のどこかで願っていた我々の夢でもあったのだ》(『週刊朝日』1991年6月7日号)

後年、冨田はこのように、少年時代をすごした岡崎にもほど近い岐阜でのイベントを振り返っている。

数千万円かけて輸入したシンセサイザーが受け取れない!

冨田勲といえば、シンセサイザーを抜きには語れない。冨田が初めて手にしたシンセサイザーは、アメリカの電子工学者、ロバート・モーグが開発したモーグ・シンセサイザーだ。彼はこれを1972年、銀行から周辺機器の代金も含め2000万円もの借金をして個人輸入している。

このとき羽田空港の税関より、これが本当に楽器なのかと確認のため出頭を求められた。楽器か否かで税金のかけ方が変わってくるというのだ。税関職員からは、その場で演奏してみてほしいと言われたが、モーグ・シンセサイザーの構造上、音をすぐに出すのは無理だった。結局、音が出せなければ演奏している写真を見せてほしいと言われ、日を改めることになった。

後日、アメリカのミュージシャン、ワルター・カーロス(現ウェンディ・カーロス)がモーグ・シンセサイザーでバッハの楽曲を演奏したレコード『スイッチト・オン・バッハ』を持参したものの、ジャケット写真を見ただけでは演奏しているかどうかわからないとまたもや突き返されてしまう。結局、写真はモーグから送ってもらうことにした。やっと写真と資料が届き、千葉の倉庫に移されていたシンセサイザーが冨田の手に渡ったのは1カ月もあとで、そのあいだの保管料まできっちり払わされることになる。

どうにか入手したシンセサイザーだが、演奏する以前に、操作マニュアルもないのでどうやって音をつくればいいのかがわからず、冨田は悪戦苦闘を続ける。この間、シンセサイザーに没頭するあまり仕事の依頼をことごとく断ったため、収入は激減した。

やっとシンセサイザーの扱いを習得した冨田は、アルバム用に『Snowflakes are Dancing』と題するマスターテープを完成させ、さっそく売りこみにまわる。しかし日本のレコード会社からはまるで理解されず、芳しい返事はもらえなかった。そこで思い切ってアメリカ市場をめざすことにする。アメリカなら、前出の『スイッチト・オン・バッハ』が売れた実績もあり、自分の作品を受け入れてくれる余地があるのではないかと考えたのだ。

知人のつてなどを頼ってRCAレコードにマスターテープを持ちこむと、ディレクターたちからよい反応が返ってきた。こうして1974年、『Snowflakes are Dancing』はLPレコードとしてリリースされる。同作はアメリカの『ビルボード』誌のクラシックチャートで最終的に1位にまで登り詰め、グラミー賞にも日本人では初めてノミネートされた。全米でのヒットを受けてやっと日本のレコード会社もこの作品を認め、収録曲のうちドビュッシーの楽曲からタイトルをとり『月の光』として発売されている。

シンセサイザーで新境地を拓き、国内外で名声を高めた冨田だが、後年にいたって、原点に回帰するようにオーケストラ曲もたびたび手がけている。シンセサイザーでの曲づくりは基本的に個人作業だ。しかしそれを続けるうち、逆にオーケストラで大勢の人が協力して演奏する生の音に独特のすばらしいパワーがあることを再発見したという(『月刊MOKU』2013年4月号)。2012年初演の『イーハトーヴ交響曲』は、オーケストラ曲の集大成ともいうべき作品となった。宮沢賢治の童話から着想を得たこの曲では、ソリスト(独唱者)にボーカロイド「初音ミク」が起用され、話題を呼んだ。

『イーハトーヴ交響曲』は、少年時代に出会った宮沢賢治の世界を音楽で描きたいという冨田の長年の夢が結実したものだ。その曲中には、『風の又三郎』の又三郎のように、ほかの次元からふっと現れて、ふっといなくなるそんな存在を登場させようと考えた。そこへ来て初音ミクのことを知り、コンサートも観て、ソリストはミクしかいないと意を強くしたという。ただし、『イーハトーヴ交響曲』は基本的に生オーケストラのみで演奏された。これというのも、初音ミクが完全にエレクトロニクスの存在ゆえ、それに対する意味での生音を中途半端にしたくなかったからだと、冨田は説明している(前掲)。

大衆に寄り添いつつ新たな音を求める

冒頭でとりあげた大河ドラマの音楽には、第1作を冨田が手がけて以降、いわゆる現代音楽の作曲家が多数起用されてきた。なかには十二音音階という前衛音楽の技法でテーマ音楽をつくった作曲家がいたが、ときのNHK会長から難解すぎるとクレームがつき変更させられたというエピソードも伝えられる。大河ドラマが放送40年を迎えるにあたっての座談会で、冨田は次のように語っていた。

《一般大衆って軽視されるけれども、一番公平な、辛らつな結果が返ってくる。一時、わけのわからない現代音楽があったでしょう。偉い先生方が何を目安にそれを褒めるのかわからないけれども、あれが芸術的になっちゃう。だけど、悪いけど、僕は聴いて何もわからなかったね、ああいう音楽は。結局、一般の人たちが理解できないものというのは、フリージャズでもいずれ崩壊してしまいましたね》(『フィルハーモニー』2003/2004 Vol.2)

常に最先端の楽器、技術を採り入れ、新しい音を追求してきた冨田だが、そこには一般の人たちに寄り添うという姿勢が貫かれていた。

モーグ・シンセサイザーを操作していて、冨田は気づいたことがある。それは《人間は自分も含めて、日常耳にしている音から遊離した、まったく聴いたことのない音はたんに雑音としか聞こえず、その音からは共感も感動も得られないということ》だ。

《「新しいユニークな音」とは、いままでに自分が聴き慣れた音からわずかに離れたところに存在し、そこから離れ過ぎると、だんだんと雑音に近くなっていってしまって無機的な音になっていく。つまり雑音とか無機的な音というのは、聴いている人の気持がついていけなくなってしまう領域の音ではないだろうか》(冨田勲『音の雲』

これに気づいた冨田は、日常聴く自然音などの音を模倣して音をつくる練習をしたという。初音ミクを交響曲に起用したときに、生音をおろそかにしなかったのも、このときの発見が根底にあるのだろう。大衆性と、ほんのちょっと従来の常識から外れた新しさ。それこそがトミタサウンドの真髄であった。

■参考文献
冨田勲「わが師の恩 第62回 冨田勲」(『週刊朝日』1991年6月7日号)、「人その芸 電子音楽のパイオニア 冨田勲」(『文藝春秋』1994年12月号)、『音の雲 ずっと音の響きにこだわってきた』(日本放送出版協会、2003年)、「新・家の履歴書 冨田勲(作曲家)」(『週刊文春』2008年6月5日号)、「先端を行くものこそ大衆と乖離せぬこと」(『日経ビジネス』2008年10月27日号)、「エレクトロニクス宮沢賢治 冨田勲が生み出す「イーハトーヴ交響曲」の真音」(『月刊MOKU』2013年4月号)、「今、伝えたいこと 音の響きにこだわり続けてきた」(『中央公論』2015年9月号)
田中雄二『電子音楽 in JAPAN』(アスペクト、2001年)
日本戦後音楽史研究会編『日本戦後音楽史 上 戦後から前衛の時代へ』(平凡社、2007年)
「特集 保存版 「花の生涯」から「武蔵」まで 思い出の大河ドラマ音楽40年」(『フィルハーモニー』2003/2004 Vol.2)
「冨田勲 作曲家として、また、シンセサイザー奏者としての稀有な才能をあらためて知らしめる、貴重なアーカイブ音源から編纂された2タイトルを同時発売」(取材・文:松山晋也、『CDジャーナル』2015年3月号)

イラスト:たかやまふゆこ

ケイクス

この連載について

初回を読む
一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

donkou ケイクス連載「一故人」、今回は作曲家の 約3時間前 replyretweetfavorite

mikumikuwata トミタサウンド! > 約4時間前 replyretweetfavorite

Singulith マスコミの連中に言いたいんだけど、インタビューや追悼記事を書くなら、 これくらいは書いてくれよな。  >|一故人|近藤正高  https://t.co/wKCjhtnrYr 約4時間前 replyretweetfavorite