家族9人を奪った火 悪夢の日から71年
「何が神の国なのか。神様は助けてくれなかった」。浜松空襲で家族9人を一度に亡くした千葉県八千代市の磯部友一さん(85)が、壮絶な体験を語った。絶望のふちに立たされた悪夢の日から19日でちょうど71年。磯部さんは「二度と同じ悲劇を繰り返してはいけない」と訴えている。
空襲があったのは、1945(昭和20)年5月19日の昼前。当時14歳の磯部さんは工業学校3年生で、高射砲を製造する工場に動員されていた。警戒警報が出て避難を始めた直後から、浜松市の東部や西北部を中心に爆弾が降り注いだ。
「工場も学校もめちゃくちゃになり、自宅待機するよう言われた。私を捜しに来た近所の人から『爆弾が(磯部さん宅に)落ちて、誰もいない』と言われ、いやな予感がした」
惨状は想像以上で、言葉を失う。吹き飛ばされた母屋のかやぶき屋根が、庭の防空壕(ごう)の入り口をふさぎ、焼け果てていた。近所の人が、屋根の燃えかすを掘り起こし、防空壕の中から上半身焼けた家族を運び出していた。
父は、必死に屋根を取り除き家族を助けようとしたのか、手にかやを握りしめたまま死んでいた。長兄の妻は、5歳から1歳の3人の子供に覆いかぶさるような格好で見つかり、子供たちはきれいな姿だった。祖母と母、姉2人も防空壕の中で絶命していた。
「これはうそだ」「日本は神国。神様が守ってくれるんじゃないのか」。変わり果てた家族のそばに寄り添う磯部さんは、心の中で何度も叫び続けた。近所の人たちは、慰める言葉さえない。雨が降り出し、隣家に泊めてもらったが、座ったまま一睡もしなかった。
翌日、棺が六つ届く。祖母や母、長兄の妻の棺に子供たちを1人ずつ納め、共同墓地に埋葬した。「一緒に埋めてくれーっ」。こらえきれなくなった磯部さんの絶叫が墓地に響き、初めて涙があふれた。埋葬後、嫁ぎ先から戻った長姉と2人で抱き合って泣いた。
この日の空襲では、約200機のB29が約1200個の爆弾を投下し、391人が死亡した。埋葬後、長姉の嫁ぎ先に世話になったが、46年に復員した長兄とバラックを建てて2人暮らしを始める。47年には、学校を卒業し浜松で就職した。
磯部さんは、子や孫たちに、空襲で一家9人が犠牲になったことを伝えてきた。「戦争は弱い人々が犠牲になるもの。あんなにつらい経験は誰にもしてほしくない」と話す。【砂間裕之】
浜松空襲
1944(昭和19)年12月13日の初空襲以降、艦砲射撃を含め計27回に及んだ。航空関係の軍施設や軍需物資の生産地だったため、米軍は爆弾が余ったら浜松周辺に投下するよう命じていたとされる。また、米軍の本土上陸予定地の一つとも言われ、大都市並みの被害があった。中でも45年6月18日の空襲は、約1700人が死亡する最大の被害となり、浜松大空襲と呼ばれている。