「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」脳性マヒの康文さんが書いた希望の詩
図書館の払い下げコーナーで出逢った、一冊の本。
今4歳の長男は、2歳になったばかりの頃、「自閉症スペクトラム」(自閉スペクトラム症)と診断を受けました。はじめは「障害についての本なんて、読まなくてもいい。長男自身の成長を見守っていけばいいんだ」と思っていた私。
ところがその後、いろいろな思いを経て、「とにかく障害についての本、記事、講演会には片っ端から参加!」という、よくそこまで変われますね、という突っ走った段階へ突入することとなりました。
そんな時期に、図書館の払い下げコーナーで手に取った1冊が「お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい」という本でした。
この画像は復刻版のものです。
私がその時、手に取った本は今は絶版になってしまっています。なぜ復刻版の画像でご紹介したかというと、その時いただいてきたオリジナル版の本を、実は処分してしまったのです。
持ち帰ってすぐに、一気に読み終えたこの本。私が当時この本の印象として、鮮明に自分の中に残ったものは、康文さんやご家族の苦難、障害があるゆえに感じてこられた悲しみ、辛さと、世間や社会へのどうしようもない憤りでした。
そのため、本棚にこの本を置いておくのがしんどくなり、処分してしまったのです。
自分の意識が変われば、同じ本でも受け取るものが違うという事実。
そんな風にして一度は手放したのですが、今私の手元には、復刻版の「お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい」があります。
私は「あめのちはれ お兄ちゃんは自閉症」というブログをやっています。そこで、別の絵本を紹介する記事を書いていた時に、ふとこの本のことが思い出され、それがきっかけで再読することを決めました。
そのときに驚いたことは、まだ再読もしていないのに、すでにその本への印象が、自分の中で以前とずいぶんと変わっていたことです。なんでも自分を責めていたころから、ありのままの自分を受け止めようと意識が変化してきた私。そんな自分の中での変化が関係しているのかな、と思いました。
自分が変わったことで、私の意識の奥底に眠っていた、康文さんからのメッセージが目覚めたように感じました。
「ごめんなさいね おかあさん」
ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさんぼくが生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくは言うぼくさえ 生まれてなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも
「かたわの子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くこともぼくさえ 生まれなかったら
お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい
※以下、お母様の返詩。
わたしの息子よ ゆるしてね
わたしの息子よ ゆるしてね
このかあさんを ゆるしておくれ
お前が脳性マヒと知ったとき
ああごめんなさいと 泣きました
いっぱい いっぱい 泣きました
いつまでたっても 歩けない
お前を背負って 歩くとき
肩にくいこむ重さより
「歩きたかろうね」と 母心
“重くはない”と聞いている
あなたの心が せつなくてわたしの息子よ ありがとう
ありがとう 息子よ
あなたのすがたを 見守って
お母さんは 生きていく悲しいまでの がんばりと
人をいたわる ほほえみの
その笑顔で 生きている脳性マヒの わが息子
そこに あなたがいるかぎり
※以下、それを受けての、康文さんの詩。
ありがとう おかあさん
ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり
ぼくは 生きていくのです脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが、大切で
悲しさこそが 美しいそんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさんおかあさん
あなたがそこに いるかぎり
この詩は、この本の主人公、昭和35年に生まれ、昭和50年まで15歳の生涯を力強く生き抜いた、山田康文さんが書かれた詩です。この詩をブログでご紹介するにあたって、私はこんな感想を添えました。
「これは決して、悲しいお話、悲劇に涙する話ではなくて。障害を悲観したものでもなくてね。今より福祉サービスもほとんど何もないみたいな時代でも、重度の脳性麻痺をわずらった一人の少年が、自分の思いを力強く発信したという、希望の物語だと、彼の思いは時を越えて、今の時代を生きる、私たちに語りかけているのだと私は思っているのです。」
この私の感想に、読者の方から「パッと読むと悲劇なんですが、それを発信と捉える感性にビックリしたので…」という感想をいただきました。全く同感です。
自分が自分の感想に一番驚きました。それで、もう一度この本をじっくりと読み返し、自分が康文さんから受け取ったメッセージをしっかり見つめなおすことにしたのです。
再読したことで鮮明になった、康文さんからのメッセージ
ここ最近ずっと考えてきたことがひとつありました。自分について、深く知っていけばいくほどに、そしていろんな方にお逢いして、その魅力を感じるほどに思うことがあります。それは、「全ての人には、その人特有の輝きがあって、それは特別な人に限られたものではない」ということ。
どの人にも、私にも、あなたにもあるもの。丁寧に磨いていけば、ますます光り輝く宝石となるようなその原石。それは全ての人にあるものなのだと、私は確信しています。
そんな確信を持ちながらも、私が考えていたこと。
それは、その「全ての人」に、いわゆる重度の障害を抱えておられる方は含まれるのか、ということ。
重度の肢体不自由の方、重度の自閉症方、そういった、意思疎通も難しいというような方々。そのような方々に対しても、自分は「その人特有の輝きがあって」と言い切れるのか。
これは、今書いていても本当に恐ろしい思いです。この思いを持ちながらも、誰にも話すことはできませんでした。自分自身の中で、この問いが迫ってくるようになってから。その答えが、もし「含まれない」だったら、自分はどうすればいいのか。それが怖かったのです。
でも、きっとそんなことはないはずだっていうことも、どこかで思っていました。思いながらも、やはり突き詰めていって、答えを出すのが怖くもあり、ただただ自分で自分に、ぼんやりと問うている状態でした。
そんな私の問いに、ひとつの答えを示してたのが、康文さんだったのです。
康文さんの物語
康文さんは、重度の脳性麻痺で肢体不自由、言葉を口にして、何かを伝えることはできません。そんな彼が14歳のとき、いかにしてこの詩を作ることができたのでしょう。
康文さんの養護学校の先生、向野先生は、この詩の誕生の2年前に、前任の言語訓練担当の先生から担当を引継ぐことになりました。
どんなに重い障害の子とでも、心を通わせてきた向野先生も、「言語訓練」としてそれを専門に取り組むのは初めてで、戸惑うばかりだったそうです。
本の中でも、「一語でも、一音でも、子どもたちに言葉を発してもらいたいという一念でしたが、無力な私は、障害の前に立ち往生するだけでした。」と書かれています。
ところがそんな折、先生は海外旅行に行かれます。その先で、「ことば」が通じない人達との「ことば」を超えた、「こころ」の交流があり、先生の中に以下のようなひらめきがあったのです。
一語でも、一音でもと言語訓練をしてきたが、違うんじゃないか。
いま私は、一語も一音もわからない相手と会話して笑いあっている。
わかりあっている。これこそ”ことば”だ。
”ことば”の前に”こころ”の通い合いが大事なのだ
そんな気づきを得、非言語コミュニケーションでのやりとりをご経験されて、帰国された先生。その後、養護学校(今の特別支援学校)の子ども達と共に、ジェスチャー、文字盤を使って、口に箸をくわえてタイプを打つなど、ひとりひとりに合ったコミュニケーションのスタイルを探っていかれました。
康文さんは、3歳のころからお母さまと使っていたトイレのサインがありました。それを日常にも取り入れて、「目をぎゅっとつぶる→はい」「舌を出す→いいえ」 のやりとりが成立していました。
そこに加えて、先生は康文さんのからだの緊張やアセトーゼ(不随意運動)も言葉なのだと気づかれたのです。
康文さんを抱きしめて話をすることで、康文さんの体の反応を全身で感じる。そうすると、康文さんがからだを硬くしたり、柔らかくしたり、足を突っ張ったり、手を上げようとしたり、一語一語、反応するのが感じられたそうです。全部が全部、ことばなんだということが、抱きしめているとよくわかったと。
そんな風にして、言語訓練を重ねる中で、詩づくりに取り組むことになった先生と康文さん。ある時、養護学校の子ども達が作った詩に、ボランティアの学生がメロディーをつけて、チャリティーコンサートを開くという企画が持ち上がりました。
何事にも挑戦することに意欲的だった康文さん。この時も、先生の「挑戦してみる?」の問いかけに、「キャー」といって喜びの声をあげました。
詩の作成当時の様子を振り返り、向野先生はこのように語られています。
「思い浮かぶありったけの言葉を、『やっちゃん、こうか? こうか?』 とあげるんです。
山のような言葉の組み合わせでしたね。出だしは『ごめんね』も『ごめんなさい』もノー。『ごめんなさいね』で、やっとイエスなんです。
『ごめんなさいね、おかあさん』だけで、一カ月ぐらいかかりました。」
冬のさなかに全身に汗をためて、その命の丈を託したことばを選ぶ作業。思いの半分もことばにかえられず、いらだって泣いてしまった日もあったそうです。
この詩は、そんなふうにしてできた詩だったのです。
これは、悲劇の詩ではない。人々に広く伝えられた、康文さんの詩。
この詩には、「生んでくれてありがとう」と言えない、お母さんに、自分の誕生にたいして「ごめんなさい」と感じていた、康文さんの計り知れない悲しみが書かれているかもしれません。それは、康文さんだけでなく、今よりもっと福祉が行き届かなかった時代、多くの障害を持った方たちが抱えておられた、共通の思いかもしれません。
でも、それを伝えたい、詩にしたいと願った康文さんは、時に憤り、涙することもありながらも、本当に力強く、生き生きと「自分の思いを表出できる、伝えられる」という喜びに満ちていたに違いないと、私は思うのです。
そして、このようにして誕生した康文さんのこの詩。そのコンサートで、同じようにハンディのあるお子さんたちの、輝くばかりの詩と共に発表されました。舞台上にはお母様と康文さんも登壇し、輝くスポットライトの中に身を置きました。コンサートは大成功をおさめたのです。
康文さんや子ども達の力強い思いはそこだけに留まらず、その後、このコンサートはレコード化され、テレビでも取り上げられ、日本中に広まることとなりました。
復刊に至るエピソード 時を超えて届く、康文さんの思い。
それから、時が経ち、人々の記憶は徐々に薄れていきました。
私が図書館の払い下げコーナーで手に取った、1978年に出版された向野先生の書かれた本は、そのときすでに、絶版されていたものでした。けれど、そのような時の隔たりを経てなお、康文さんの「伝えたい」という思いは、力強く人々の中に息づいていたのです。
私が再び手にした、2002年に復刊された「お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい」。復刊のきっかけは、新聞に寄せられた、読者からのある投書だったそうです。
(以下、復刊に至るまで からの抜粋)
「母への感謝を綴った詩に涙」
美術館なんて趣味に合わないし、書道なんてつまらない」という女子高生の一団の言葉が、美術館でボランティア監視員をしていた私の耳に入り、思わず口にしました。「あそこにお母さんのことを書いた書があるの。お願いだからあの作品だけは読んでいって」と。
女子高生たちは不承不承、私の指した書を鑑賞しました。すると一人がすすり泣き、そこにいた生徒全員が耐え切れずに、泣きだしたのです。
その書は、生まれたときから母に抱かれ背負われてきた脳性マヒの人が、世間の目を払いのけて育ててくださった、強いお母さんへの感謝の気持ちを綴った詩でした。「今の健康と幸福を忘れていました」と女子高生たちは話し、引率の先生方の目もうるんでいました。
この文中の、「お母さんのことを書いた書」というのが、康文さんの「ごめんなさいね おかあさん」だったのです。そして、この投書に対して、「どんな詩なのか読みたい」という読者からの声が多く寄せられ、それが復刊のきっかけになったそうです。
私が康文さんから受け取った、希望のメッセージ。
康文さんからのメッセージをしっかりと受け取ることができた今、私は確信を持って思っています。
「全ての人には、その人特有の輝きがあり、それは特別な人に限られたものではない。」
全ての人。それは、障害のある人も、重い障害を抱えておられる人も。この地球に生きる、すべての人にその輝きがあるのだと。そしてまた、どんなにこの世界が困難に満ちて見えたとしても、「この世界は、生きるに値する。」と。
世界を変えることなんてできないってあきらめてしまうのではなく、より良い世界を創っていけるという希望をもって、康文さんのように力強く生きていきたいと私は思っています。
康文さんが私に与えてくれた、希望のメッセージを胸に!
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- コラム出典:「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」脳性マヒの康文さんが書いた希望の詩
- (by Conobie )