やっちゃん—山田康文君は昭和35年、奈良県桜井市で生まれました。3人兄弟の真ん中で、両親の他に曾祖母、祖父母もいる大家族でした。
生後お乳を吸う力がほとんどなく、8ヵ月目に脳性マヒと診断されました。
母親の京子さんは、一縷の望みをかけて病院を訪ね歩き、西洋医学でだめなら東洋医学でと手を尽くし、最後は信仰にも活路を求めました。
しかし、やっちゃんは、幼稚園の年齢になっても首はすわらず、脳性マヒの中でも重度の症状でした。
体はやせこけ硬くこわばって、足も手も指も全く動きません。お座りもハイハイもできず、車いすに乗っても、手と足と胴体をひもでくくります。
食事の時は口が思うように開かないので、こぼしやすく2時間もかかります。
やっちゃんを背負って公園に行っても指さされ、車いすに乗せて兄弟の授業参観に行っても、奇異な目で見られ、ヒソヒソと話す人達の冷たい視線に耐えなければなりませんでした。
体の抵抗力が弱いため風邪や高熱を出しやすく、片時も目を離せません。歯を食いしばって生きてきたお母さんですが、精根尽き果てるとき、何度も一緒に死のうとしました。
それを思いとどまったのは、家族の温かい支えと、やっちゃんの生きようとする意欲でした。感受性の強いやっちゃんは、家族の言葉に笑顔で応え、体全体で喜びを表すのです。
やっちゃんは相手の言葉は理解できますが、自分は一切しゃべれず、「アーアー」というような声になるだけです。唯一のコミュニケーションの手段が目と舌。「イエス」の時は目をぎゅっとつぶり、「ノー」の時は舌を出します。
そんなやっちゃんにとって、養護学校で担任の向野幾世先生に出会ったことは幸運でした。先生は明るく、イエスとノーしか表せないやっちゃんと冗談も言い合い、楽しい会話さえできたのです。学校に行って仲間と過ごすことが一番の楽しみになりました。
やっちゃんは不自由な体でも、優しく、明るく、前向きでした。
ある時、ボランティアサークル「たんぽぽの会」が、養護学校の生徒の作った詩にメロディーをつけて、フォークコンサートを開くことになり、やっちゃんも詩を作ることに挑戦しました。
先生はやっちゃんの言いたいことを想像し、思い浮かぶ限りの言葉を口に出します。やっちゃんは納得する言葉が出るまで舌を出し、「それ!」という時に目をつぶります。
こうして気の遠くなるような時間をかけてできたのが、冒頭の詩でした。
詩の前半ができた時、向野先生はお母さんに見せました。京子さんは「やっちゃんがこれを……」と絶句し、目頭を押さえました。翌日、向野先生の手元に京子さんの詩が届きました。
このお母さんの心を受け止めて、やっちゃんが作った詩が冒頭の詩の後半でした。
「わたぼうしコンサート」の当日、文化会館大ホールは満員。歌になった生徒達の詩が次々に披露されました。やっちゃんの詩は、担当した青年が胸が詰まってどうしても歌にできず、朗読することになりました。お母さんと車いすのやっちゃんが舞台で紹介され、向野先生がその詩を朗読しました。
会場は、言葉では言えない衝撃と感動の渦に包まれていきました。
参加した人達の心を突き動かした歌とやっちゃんの詩は、全国に大きな波紋を呼びました。レコードになり、ラジオ、新聞、テレビで紹介され、わたぼうしコンサートの全国公演になって、障害者のための「たんぽぽの家」の建設へとつながっていったのです。やっちゃんとお母さん達の思いが”わたぼうし”になって心から心へと広がっていったのです。
山田康文君は、あのコンサートから1カ月半後、天に召されました。
昭和50年6月11日、15歳の誕生日を迎えた直後でした。