熊本地震から一か月が過ぎた。
そして今朝、(id:swordfish-002)さんの記事を読んだ。
飾らないリアルな声。とても良い記事だと思った。
私は三陸沿岸の、小さな町で生まれ育った。
地震が多く、震度3程度なら度々あった。学校で行われる避難訓練はとても厳しく、一切の私語が禁止された。
1,000人超えのマンモス校で、全教室から校庭へと列をなして走った。絶対に転ぶわけにはいかなかった。でも足の遅い私は、全力で走らないとクラスの列を乱してしまう。
校庭に整列すると、校長の話を長々と聞かされた。
ある時には
「全員が校庭に避難するまで〇分〇秒かかった。これは過去の訓練で最低の記録である。〇年〇組の一部の生徒がダラダラ走っていた。これが訓練ではなくて本物だったら、〇組は全員命がないと思え」
等と厳しく叱責された。
昔、この地区では津波で大勢の犠牲者があった。その話を何度も繰り返し聞かされていた。でも私達には昔々の物語で、全くリアリティがなかった。
記憶に残っている地震は、1978年の宮城県沖地震だ。
マグニチュード7.4、最大震度5。
私はその時母とフライヤーの側にいて、突然足元からドーンと突き上げてグラグラと揺れた。フライヤーの揚げ油が大きくうねって溢れそうになり、母が私に覆いかぶさってきた。
そして母は、大きな声で外に出るようにと私に言ったが、母を置いて行くわけにはいかなかった。その後、母は機敏にフライヤーのガス火を止めた。
地震は最初の一撃が大きかったもののすぐに収まり、油も溢れなかった。
母は小柄で、私の方が母よりも身長が高くなっていたのだが、それでもいざという時には親は子を守るものなのだなと感じた。
1993~4年は北海道で大きな地震が多かった。1994年12月と1995年1月の始めには、青森、岩手が揺れた。小さな津波も来た。
そして1月17日、あの阪神淡路大震災が起きた。
崩れたビルや、倒壊した高速道路のTV映像を見て震え、家族を亡くした被災者の取材映像を見て涙した。
2007年には、新潟県中越沖地震が起きた。
その当時、私は小さなスーパーの事務パートをしていた。長岡に実家のある若い社員さんが急遽帰省し
「家が壊れていました」と項垂れて帰ってきた。
地震では助かったのに、元々病弱だったお母さんが数か月して亡くなってしまった。
「地震さえ来なければ…」と悔しがって泣く社員さんが、本当にお気の毒であった。
大きな震災が起きても、私は傍観者であったと思う。
東北大震災が起きた時、私はすぐに帰省したいと思ったけれども交通手段がなくて出来なかった。
東京の計画停電の合間をぬって行う家事と、それまで通りのパート勤務を続けながら、自分には一体何が出来るのだろうと考えた。
考えた結果は「自分には、何も出来ない」であった。
何の資格も特技もないどころか、月1の通院が必要なメンヘラの私が行って体調を崩しても迷惑なだけだ。
向こうでは医者も薬も不足しているのだから。
だからせめて、自分の知り合い数人だけでも、ほんのささやかな事でも私に出来る何かをしようと思った。
何をしたらいいのかまるで解らなかったから、私はただ思いつくままに何かを買っては梱包してあちこちに送り付けていた。
それは、ちょっと高級な紅茶とお菓子だったり、趣味の道具だったり、支援物資としては配給されないような、個人の好みに合わせたものを考えたつもりだった。
5年も経って、やっと気がついた。
それは、ただの自己満足だったと。
津波で家をなくした友人は、家以外は何も失わなかった。
でも、地震から4か月後にやっと帰省した私と会うのを拒んだ。
「ごめん、会う気力がない」と言って。
その気力をあげに来たのにどうして?と思ったが、仕方がないので会わなかった。
これまで気丈に振る舞い過ぎて、疲れが出たのだろうと思った。
彼女もきっと、私に「頑張って」と言われたくなかったのだ。
「頑張って」と言われないよう大丈夫なフリをするのが、嫌になったのだと思う。
熊本地震が起きて、TVの取材を受けた被災者が
「この辺りはあまり地震がないから怖かった。避難所生活はしんどい。東北の被災者はこんなに大変な思いをされたのだなあと思った」
というような事を話した。
それを聞いて、人は自分自身に同じ事が起きないと、共感できないものなのだと改めて思った。
東北大震災で家を失った友人は、家を建て直し、学生だった子供達も社会人となり、穏やかに暮らしていた。
でも、熊本地震のニュースで当時の記憶がフラッシュバックしたのだろう。
再び欝々とし、何もする気にならないとLINEがきたので、何もしたくない時はダラダラしたら(笑)と返した。
東北の復興は遅く、仮設に住む人がまだまだ大勢いる。
報道は、ある一面からしかされていない。大きな声では言えないけれど…被災者は言う。
復興の歩みはゆっくりだけれど、人が作って壊れたものは、また新しく作り直してきた。
関西の街が、元のように戻るのだろうかと震えたあの惨状から蘇ったように、東北の街も少しづつ再生し、機能している。
熊本も、必ず蘇ると信じている。
熊本城も…
修復出来るだろうか?
何とか元の姿に戻って欲しい。それは熊本の人達の、生きていくための大きな力となるだろう。
とりとめなく書いたので、記事から学んだ事をまとめとする。
1.寝袋あってよかった
とりあえず1つはある。我が家は犬がいるので避難所には行かず車生活をするので家族分は用意しなければ。
2.「困ったことはないか」がつらい
薄々気づいてはいたが、私はかなりお節介でウザい性格である。
黙って出来る限りの募金をする。
そして、それを吹聴しない。ウザいから。
3.情報が入ってこない
東京が被災したら、被害状況によってはネットもどうなるか解らない。
ネット依存にならないようにしたい。
4.「がんばれ!」がつらくなる
無責任に言わないようにする。
一緒に頑張ろう、ならいいのかな?口先だけではなくて。
5.子供の相手、高齢者の相手
子供は学童で懲りた。高齢者担当で。
6.「新参者」問題
避難所が出来るだけ早くスムーズに機能するように、ガイドラインが必要なのかも知れない。
7.「ボランティア」問題
ボランティア精神は尊いと思うけれど、実際はどうなんだろう?
これも需要と供給のマッチングが機能しなければ、せっかくの精神が無駄になる。
おまけ。
関東直下型とか南海トラフとか、来る来る言われ続けて、実際には東北や九州がこんな事になってる。何なんだよ!
ってあまり騒がれないのが、逆に凄い。
結局、地震の予知とか断層の在り処なんてよく解っていないし、この国ではどこにいても地震から逃れられないという事。
こんな事も書きました。