自分が観た映画と見たい映画を記録するいい方法はないかと思っていたところ、友人に教えられて始めてみた。まぁ観たもののカウントが増えていくというのは気持ちがいいし、レンタルDVDの予告なんかで「これ見たい」というのがあったらすぐ記録しておけるので重宝する。
僕は記録用なので星もつけないしレビューも全く書かない。本当にいいなと思った映画に「最高」とコメントしておくだけだ。
しかし他の人たちは結構星もつけているし、レビューも書いている。ちょっと覗いてみると、だいたい有名な映画は平均で星3以上(5点満点)貰っている。ちなみに僕が今まで観た中で最もクソ映画だと感じたアイアムサムは平均4点だったので、結局そういう人達が利用するサービスだということがわかる。
つまり、このアプリは映画についての情報交換の場というよりは、単に人々が自分の観た映画の感想を垂れ流して気持ちよくなるための場なのであり、その様子はさながら向かい合ってオナニーしあっているようだ。
今回のテーマはそういう「好きなものを語る」ことの気持ち悪さである。
彼らの公開オナニー広場を見ていて印象的なのは、非常に多くの人が自分の好きな映画のいい点や、自分がなぜそれを好きなのかについて語る文章を書いているということだ。
僕は、好きなことについて書く、というのがものすごく恥ずかしいことだと思う。
というのも、そもそも書く必要が全くないからだ。自分がその作品のどこが好きで、なぜ好きなのか、そんなことは自分にとってはわかりきっているではないか。となると、自分がわかりきっていることを書く理由というのはもう「こう思ってる私を見て!!!」というものでしかなくなる。つまり、書いた時点で、「僕を見て!!」と言っているのと等しいのだ。
しかし問題は、自分のことを見てもらうのはめちゃくちゃ気持ちいいということだ。オナニーを見てもらうのが好きだという友人もいるが、見てもらう快感と性的快感が互いに増幅しあってそれはもう気持ちいいだろうと思う。書くことにも、それ自体の気持ちよさがあるから、構造は似ている。それで先ほどから、フィルマークスは公開オナニー広場だと言っているのだ。
何か書くといつも、「自分は気持ちよさを求める気持ちに抗えずにまた書いてしまった」と辛い気持ちになる。今もそうである。それでも、書いてしまうし、公開してしまう。自分でやってはいけないとわかっているのに、快感に逆らえずそれをやってしまうというのは、めちゃくちゃ気持ちいいからである。「まだ出しちゃだめだよ」と言われて、自分も我慢するつもりなのに出してしまい、しかもそれを見られるという瞬間は、ポルノの中でも最高に興奮するシーンであるが、それと一緒である。
結局全部ひっくるめて考えると、好きなものを好きと言ったり自分の考えを発表している人というのは、我慢できずに気持ちいいことをやっちゃう恥ずかしい人であり、発表するということは自分は恥ずかしい人間ですと公言しているのと同じなのである。単純になにかを言っているだけでも恥ずかしいし、それを恥ずかしいと知っていながら何かを言うというのも恥ずかしい。
恥ずかしくなくなるためには、沈黙すればいいのか。しかし沈黙も結局、「自分は恥ずかしい人間だと思われたくない」ということの表現であり、表現である以上、恥ずかしい。
それでは他人の批判だけしていれば恥ずかしくないぞと考える人たちもいるが、その批判を公表してしまえば恥ずかしい。つまり、「こういう独自の視点を持ってる俺を見て!!」と喚いているわけである。公表しないで黙っていてもやっぱり恥ずかしいのである。これは気づいていない人が多い。
結局考えていくとこのように何をしても恥ずかしいということになるんだから、もうオナニーを見てもらって気持ちよくなってるのを恥ずかしいと思うのやめようよ、というのが近年の風潮である。僕はこれに乗り切れないためか、僕からみたら世の中に恥ずかしい人が大量発生しているように見えるので非常にびっくりする。
いやむしろ、そのような風潮が自己欺瞞的であると考える方が自然だろう。みんな意見を言うことの恥ずかしさを知っている(上のように考えればわかるのだから、少なくとも知りうる)のに、それを恥ずかしくないことだということにしようとしている。それが、めちゃくちゃ気持ち悪いのである。
恥ずかしさは避けられないかもしれないが、自己欺瞞の気持ち悪さは避けられる。恥ずかしさを見て見ぬふりをするのをやめればいいのだ。
映画にレビューをつけまくっているような人間が、自分が恥ずかしいことをしていると思っているとは考えづらいだろう。
結論としては、フィルマークスの連中はめちゃくちゃ気持ち悪いのである。
◯あとがき
この記事を書くにあたり、「自意識」という便利ワードを封印してみたが、やっぱり難しかった。
あと、学問的営為においては考えの発表や批判の公表は恥ずかしくないぞという意見があるかもしれない。つまり、それは「真理を明らかにする」という目的に対して手段的に必要となるものだからというのである。
こんな意見に対しては、「そもそも、『真理を明らかにして気持ちよくなりたい』という欲求を抑えきれない時点で恥ずかしい」と答えておきたい。