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舞台の隅
ダイジェスト1!
書籍版と異なる点が少しありますが、ご了承ください。
創立六十六年になる漆黒鴉学園高等部の入学式で、私は前世の記憶が蘇りました。
高等部の生徒会、生徒会長の挨拶を聞いている最中に、私は思い出す。
前々から学園の名前に、違和感を抱いていた。今まで思い出さなかったことが、不思議なくらい。
"漆黒鴉学園"を舞台にした、とある乙女ゲームがあること。
この世界がその乙女ゲームの世界の中だということに、気付いた。前世の記憶が甦ったのだ。
前世の私が最後にやっていた乙女ゲームか。
前世では、病弱でほとんど外出して遊ぶことがなかったから、ゲームばかりしていた。
最期は確か、このゲームのプレイ中に吐血して、プツリと意識が切れたから、そのまま死んだのでしょう。
いきなり甦った前世の記憶を、冷静に整理している間に、生徒会長の挨拶が終わった。
漆黒鴉学園には、秘密がある。
純白の腕章をした生徒会は全員が、人外という秘密。
モンスター、なのだ。
容姿端麗の、ね。
容姿端麗のモンスターとの禁断愛が売りなその乙女ゲームは、人気だったような、そうじゃないような……。
漆黒の腕章をつけた風紀委員はそのモンスター生徒会を牽制する役目を担っている生徒にしかなれない。よって風紀委員は、その秘密を知っている。
厳密に言えばこの学園でその秘密を知っているのは、鴉天狗の理事長と学園長と教師一部と生徒会に風紀委員だけ。
漆黒鴉学園は元々、人外の子どものために設立された学園。流石に公表が出来ないので、彼らは人外だと隠して人間の姿で生活している。
ひょんなことから、乙女ゲームの主人公はその秘密を知ってしまう。そして、恋愛は始まる。
幸い、私はその主人公ではない。脇役の立ち位置である。だから。
「あたし、高等部からこの学園に入学してきた姫宮桜子。よかったら、お友だちになってくれないかな?」
入学式が終わり、各学年が自分の教室に戻ろうとしている最中に、その主人公に呼び止められて掌を差し出してきた。
茶髪のセミロングが桜の花びらとともに揺れる。愛くるしい美少女、彼女こそが主人公だ。
私は前世の名残なのか、小柄で平均以下の身長。
彼女は平均以上の身長で、制服の上からでも胸が大きいことがわかり、スカートの下から出ている二つの脚はモデル並みにスラリと細い。流石は乙女ヒロイン、と納得してしまう。
「……私は、宮崎音恋」
静かに私は名乗る。
それから差し出された手を左手で握り返す。小さくて綺麗な手でも、小柄な私の手の方が小さかった。
「よろしく」
主人公の友達その一の脇役。
だから、どうもしません。
だって生まれてからこの方、私はこの世界を生きてきた。
彼女がゲームストーリーのハッピーエンドを迎えようとも、バッドエンドを迎えようとも、私の人生が続く。
ゲームのシナリオなんて、関係ないも同然だ。なので、どうもしません。
興味ないと言えば、嘘になる。いえ、強ち嘘ではないかもしれません。
正直、モンスター生徒会の副生徒会の声が、私の好きな声優と同じ声なのかを確かめたいという気持ちがある。前世の記憶が鮮明にあるわけではないので、彼の声はうろ覚え。
乙女ヒロインの友だちその一の役割は、高等部から入学してきた乙女ヒロインにこの学園の説明をすること。ゲームだけならその程度の出番だが、当然今後も私はクラスメートとして彼女と関わることになるので、はい終わりとはいかない。
でも可愛い子になつかれたことに悪い気はしないので、休み時間も教室の移動もともにした。
「ねぇ、ネレンは生徒会の人、興味ある?」
ちゃん付けから呼び捨てになっていたが、それよりもいきなり生徒会の話が出たのでそっちに気が逸れる。ただいま、コンピュータールームへ移動中だ。
「どうして、いきなり生徒会なんて……?」
不意打ちにも程がある。
あ、入学式から一週間。今日は攻略対象キャラ達と接触する日だ。
親しいクラスメートのユリさんと森田さんが、容姿端麗の生徒会が目の保養だと、アイドルのような扱いをして、実在しているというファンクラブに入ろうと他の女子生徒と騒いでいた。
生徒会役員全員を指していて、そのなかに好きなひとがいるのかと問われる。
不安げに首を傾げてくるサクラ。
「えーと、副生徒会長の声が、好みなだけ。私、恋愛に興味はない方だよ」
「声……声フェチなんだ? どんな声なの?」
「耳に残る印象的なエロボイス」
「え、エロボイス…?」
恋愛に興味がない。
その返答に安堵した様子のサクラ。それを見て、私は思いきって直球を放つことにした。
「男子、苦手なの?」
ギクリ、とサクラは目に見えて強張る。
姫宮桜子は、軽い男性恐怖症。とある過去のせいで、話す分は問題ないが、触れられることに拒絶反応が出る。中学の友人を守ろうとして、異性に押し倒された。トラウマを話し出し、縮こまる彼女の手を私は握り締めた。押し倒されたから、抵抗して相手に怪我をさせたのだ。過剰防衛だと相手が学校に訴えてきた。彼女の反論も空しく、停学処分を食らったそうだ。
それから中学校から遠く離れたこの学園から通うことにした。寮付きだから。
あの時の恐怖が身体に染み付いてしまっているせいで、異性に触られると拒絶反応が出る。だから異性に苦手意識を持っているのだ。
きゃあきゃあと見た目麗しい生徒会に騒ぐクラスメートと、同じ反応が出来ない。それを気にして私に訊いてきたというわけだ。
「私は恋愛興味ないし、アイドルにきゃあきゃあするタイプでもないから。別に気にすることないと思う。ユリちゃん達には適当に相槌すればいいよ」
「恋愛感情、当分芽生えそうにないから、かっこいい男の子の話とかどうすればいいかわからないんだ」
安堵して顔を綻ばせるサクラ。
「大丈夫。そんなトラウマを消し去るくらい恋愛感情を抱かせる相手と出逢えるわ」
頬を赤らめるサクラは、恋愛をしたくないとは思っていないのだ。
そうです。この直後に、会いますよ。
そのトラウマを掻き消そうと相手からベタベタ触ってくる展開が待っている。
生徒会かもしれないし、風紀委員かもしれない。でも確実に、サクラがその感情を抱く時が間近に近付いている。
「本当に恋愛興味ないの?ネレンは。可愛いじゃない」
「うん、ない。学業に専念します」
「あはは、ネレンって落ち着いてて静かだけど、無表情のまま面白いこと言うよね」
学業に専念します、が面白い発言だったのか。
笑った顔を作らないから、冷たい印象を抱かれがちだが、サクラはそう捉えないらしい。愛想笑いが出来ない私の発言はそんなに面白いのかな。
すっかりサクラがリラックスしたので、よしとしよう。
その日のランチの時間。 この数日ランチ場所を転々としていたが、私のお気に入りは庭園だ。
しかし、今日ばかりは庭園を選べない。
場所を選ぶことで、今後のストーリー展開が決まる。
庭園を選ぶとダーク寄りのシナリオに進むからだ。
今日は庭園で、とあるモンスターに出会う。
そのモンスターは、人間を忌み嫌う気高き純血の吸血鬼。人間と戯れたこの学園を壊そうとするその吸血鬼と、ヒロインは戦うという展開に発展する。そうなると、激しく面倒なので、そのストーリーは回避。
「今日は食堂にしよう」
食堂を選択すると、ひたすら甘い展開にストーリーが進む。
ちなみにもう一つの選択肢、屋上を選ぶと少々過激なスキンシップがくる展開になる。
ここは友人として、ベストな選択肢を進めてやった。甘い恋愛をご堪能あれ。
一緒に行こうとしたけれど、私は教師に頼まれて教材がぎっしり詰められた段ボールを片付けにいくことになった。
まぁ、見なくともわかる。これからサクラは生徒会メンバーとファーストコンタクト。そこでサクラは誤って生徒会メンバーの一人と触れてしまい、過剰な反応をする。その反応を秘密を知っている故の恐怖した反応だと、勘違いした生徒会メンバーがこれからサクラにちょっかいを出してくることになるのだ。
甘い甘い展開になるので、私が心配することもないだろうから、彼女が恋愛している間、私は学業に専念します。
「手伝おうか?」
そこで聴こえてきたやけに耳に残る低い声に、私は過剰に反応した。と言っても、私にしては過剰という意味です。
容姿端麗の副生徒会長。嗚呼、愛しのボイス。
微笑みを浮かべて副生徒会長は、深紅の髪の持ち主で、瞳の色は暗い茶色。制服の上からでもモデルのように細身だとわかった。百人中百人がイケメンと呼ぶ。目が眩むような美しさ。
久しぶりに聴いたイケメンボイスに浸っていた私は、何故彼がここにいるんだろうという疑問の答えを探した。サクラが食堂に行ったのなら、生徒会は皆食堂にいるはずなのに。
一応先輩なので、お断りして軽く会釈をしてから、私は目的地に向かった。
多分これから食堂に行くのだろう。
ま、あの人は腹黒キャラだから、サクラにあまり近付いてほしくないかも。別にサクラが誰とくっついても、私は構わないけれど。
今回私に声をかけたのは、新入生への好感度アップでも狙っていたのでしょう。
正体は、純血の吸血鬼と人間のハーフ。
彼を選択すると、必然的に悪役キャラの純血吸血鬼が絡んでくる。
確か、仲を引き裂かれる展開と、命を狙われる展開の二つがあったっけ。
思い出して丁度東の棟校舎の廊下から見える庭園に目を向けたら───…純血の吸血鬼と目があってしまいました。
庭園には、白い薔薇が咲き誇っている。入り口には薔薇のアーチがあって、そのアーチの下に佇むだけで絵になる存在と目があった。目があって立ち止まってしまったのだけれど、私が逸らす前に彼はこちらに向かって歩み出した。
真っ直ぐ、私の方に。
「こんにちは」
「……こんにちは」
副生徒会長はイケメンボイスだと、こちらの純血の吸血鬼は美声。流石は気高き純血の吸血鬼というべきか、優雅さを感じる。
肩よりも長い髪はプラチナブロンドで艶やかな光を放ち、瞳は海のようなブルーアイ。とても若く見えるが、吸血鬼と吸血鬼の間に生まれた彼は、老いるのが遅いため、確か少なくとも五十年は生きているはずだ。
「今日は庭園でランチを召し上がらないのですか?」
優雅すぎる美男子が悪役をやって終わるには人気が高過ぎて、攻略対象キャラとして次回作は出世する話があった気がする。
次回作が出る前に、私は死んだのだけれど。
というか、優雅な美声で今なんて言ったのでしょう? 彼は。
首を傾げると薄い笑みを浮かべた彼が説明した。
一昨日と昨日は、庭園で友人とランチを取っていたところを見ていたという。
一昨日から、サクラと私は彼の視界に入っていたのか。
「私はあの庭園が好きでしてね……一度、お礼を申し上げたくて今日は待っておりました」
お礼?
「他の生徒が捨てていくゴミを、貴女は拾い集めて庭園を綺麗にしてくださりました。おかげで庭園は美しさを保っております。ありがとうございます」
瞬き三つで思い出す。
新入生が購買の食べ物のビニール袋や紙パックを捨てていったのだ。美しい白い薔薇の庭園が台無しになるので、目に留まったゴミだけを回収して捨てていた。
それだけのことなのに彼がわざわざ礼を言うのは、それほどこよなく愛しているからなのでしょう。
かつて愛した人間とともに過ごした庭園だから…────。
その人間が死んで人間を逆恨みをして、気高き純血の吸血鬼が人間と戯れることに嫌悪を抱いたように学園を破壊しようとした。悲しみに狂った悪役。描かれた美しい苦痛の表情に、母性本能が擽られたのか、"守ってあげたい! 慰めたい!"という意見が多数あったとか。
サクラが庭園を選択していないからなのか、ゲームで描かれていた禍々しさは感じられない。彼が狂って学園崩壊をするシナリオは避けられたと、ここは喜ぶべきだろう。
「差し上げます。"黒薔薇の君"」
黒に近い深紅の薔薇が一輪現れた。
彼に差し出されたその薔薇を反射的に受け取ると、チクリと痛みが走る。薬指の腹に棘が刺さってしまったようで、血が出た。謝る彼の青い瞳が揺らぐと、ほんの一瞬だけ瞳孔が猫のように鋭くなった。彼は躊躇なく私の指を舐めとる。深く息を吐くと、名残惜しそうに私の手を離した。
「……また、会いましょう。黒薔薇の君」
吐息混じりに囁くと微笑んで、彼はクルリと背を向ける。
……黒薔薇の君とは、私のことだろうか。私しかいないから……私のことですね。この薔薇、どうしよう……。
困って考えた末に、缶を代わりにすることにして自動販売機でジュースを購入。いざ、飲み干す。
「ネレン! 助けて!」
飲み込んでいる最中に、美少女に突進された。吹き出しそうになったけれど、それは堪える。噎せてしまった。
噎せて咳き込む私なんてお構い無し、サクラは私の背中に回って私を盾にする。
サクラを追ってきたであろう男子生徒を視界に捉えたけど、まだ気管が正常に戻っていない私は涙目で噎せる。
「何をそんなに怯えてんだよ?」
眼鏡の奥の瞳がギラついた橙色寄りの茶髪の男子生徒は、確か生徒会会計。
勿論モンスターである。
正体は、狼人間。そのせいか気性が荒く言葉が少々悪い人。真っ先にヒロインに絡んでくるキャラだ。ワイルド系眼鏡男子。親しくなると尻尾を振る、可愛いと評判なキャラだ。
触れたことに拒絶反応を示したサクラが、秘密を知っていると睨んで追い掛けてきた。
触れられたくない一心でサクラは私を盾にする。
噎せている人を挟んで会話をするのは些か非情ではないですか?
ま、どうせ脇役ですけど。
震えた悲鳴を上げるサクラのために、仕方なく私は一歩後ろに下がる。そうすれば必然的に背後にいたサクラも下がることなり、その手から逃れることができた。
「あ? なんだ、てめぇ……」
すると生徒会会計は鼻をひくつかせると強張った表情で後退りした。
失礼な反応ですね、と思っていれば乱入者が現れる。
「あー、カイ君が女の子泣かしたぁ」
そこで聴こえた声に、生徒会会計は顔の筋肉を痙攣させた。
後ろを振り返ってみれば、きょとんとしたサクラと目が合う。彼女は泣いていない。
あ、私でしたか。泣かされた女の子とは。
生徒会が一名を除いてその場に揃った。変ですね。
フワフワした桃色よりのベージュ色の髪をした男子生徒。身長はサクラとあまり変わらない。こう見えて、生徒会の会長。
正体は、九尾の妖狐。 会長の名は、桃塚星司。愛くるしいルックスの彼の愛称は桃会長。
主にファンクラブの子達が桃会長と呼んでいるらしい。
会計の名は、橙空海。何人ですか、とツッコミたくなる名前。愛称はカイ。
書記の名前は、緑橋ルイ。彼はハーフである。愛称はルイ。
前髪と眼鏡で顔の半分がよく見えない地味な印象を持つが、眼鏡を外したら綺麗な顔をしているというギャップを狙ったキャラ。
正体は、メデューサ。
嗅覚は鋭い会長と会計は、私の右手の薬指に注目する。甘い匂いがする。
モンスターの唾液はマーキングの役割を果たす。つまり、彼らは吸血鬼のマーキングに気付いて硬直したのだ。
モンスターの中でも吸血鬼は、貴族であり強い存在である。純血の吸血鬼ならば、恐怖の対象だ。
続いて来たのは、副生徒会長。副生徒会長も吸血鬼。嗅覚は鋭く、二人と同じく気付いた。しかし二人のように動揺することなく、人の良さそうな笑みを保つ。
ヒロインと関係なく、異様な印象を抱かれてめんどくさい方向に進んでしまいそうな予感がしたので、マーキングは意図的ではないことを率直に話すことにした。
「庭園にいた男性に頂きました。その際に棘に刺さりまして……舐められましたが」
専属餌ではないことを伝えておく。
すると副生徒会長が「一応、保健室で消毒してもらう方がいい。俺が送ろう」と言い出した。
私への気遣いではなく、サクラから私を引き離すための口実なので、きっぱり断る。
「……なんで、貴方はそんな作り笑いをするんですか? 気持ち悪い」
背後から聴こえてきたのは、棘のある直球。私を挟んで好感度を上げる言葉を放つのはやめていただきたい。
ここでは三つの選択肢が出る。
狼人間の会計。
妖狐の会長。
吸血鬼の副会長。
選択した相手に、ピリ辛い発言をして気になる存在にする。つまり興味をなお持たせるのだ。
サクラが選んだのは、副会長。
目を丸めた副会長は、やがてフッと静かに笑う。
「面白いことを言う人だ……。名前は? 俺は赤神淳」
気持ち悪いと言われて、好感度を上げるなんてマゾなのか。とか思ってしまう。
面と向かってそんなことを女子生徒は初めてだから、珍しくて関心を示しただけで、きっと彼は笑顔で否定するはず。
「姫宮桜子、です……」
名乗られたからには名乗るのが常識。渋々サクラは名乗った。
無事、自己紹介も終わったので、私は去る。
男子を目の前に一人では心細いのか、私の背中にしがみついたままサクラは一緒に来た。ジュース缶を洗って薔薇を差し込む。寮に戻るまでの応急処置完了。
寮生活は、快適である。
食堂は共同だが、女子寮は右で男子寮は左と別れてあり、お風呂場も男女別。希望により一人部屋、二人部屋、四人部屋と選べることができて、私は一人部屋を選んだ。
サクラは二人部屋を選び、ルームメートは森田さん。
一人部屋は六畳という狭い部屋だけど、私には十分。勉強する机と寝るためのベッドさえあれば十二分。
窓辺に黒い深紅の薔薇を水に入れたコップに入れて飾る。
前世の私は、病弱故に引きこもりがちの生活をしていた。
前世の名残なのか、私はどうもアウトドアなことは好まない。前世に比べたら健康体だけれども、決して元気溌剌なわけではない。
免疫力が平均と比べて低く、風邪をこじらせやすい体質。前世では友達もいなかったから、親しくなるような仲の友達も出来ないまま今に至る。
大人しくて無表情で、不気味なほど冷静沈着な子ども。それが私。
予習勉強をすると、前世で習った箇所を思い出すので、復習感覚で勉強が進んだ。
朝食タイムは五時半から七時半まで。
私が六時半にラウンジに行くと、無垢な笑顔を浮かべる桃塚先輩に手招きされたが、私は定位置になった窓際のテーブルにつくと、塚先輩はトレイを持って私の隣に移り、食事を続行する。
甘えた性格が印象的だが、子どものように騒がしくすることなく、大人しく桃塚先輩は食べる。
どうせ、サクラについて探りに来たのでしょう。食べ終えてから、サクラが来る時間だけを告げた。
主人公の友人ポジションは、こんな面倒なことになるのか。なんだか、嫌だな。まばらにいる女子の視線が痛い。
桃塚先輩が訊きたいのは、サクラの拒絶反応の理由だ。これからサクラが秘密を知ることになるのだから、今男性恐怖症だと種明かししてはいけない。この機会を逃すと、サクラはトラウマを乗り越えることが出来なくなる。
彼女にとって必要なシナリオだから、ここは明かせない。
ということで、勘違いしたままにして、私は登校した。
休み時間。
黒い物がふわふわと落ちていくのを目撃する。黒い鳥の羽根だ。
またひらり、と落ちていく。多分鴉の羽根だと思うが、何故次から次へと羽根が落ちてくるのだろうか。誰かが鴉の羽根をむしっているのか?
確かめようと、屋上に向かう。サクラも一緒。
屋上は生徒も自由に使用が出来るようになっている。フェンスの向こうに一羽の鴉を見つけた。バサバサと二つの羽を羽ばたかせて、毛繕いのように右の羽をつついている。怪我でもしているのだろうと思い、フェンス越しで目の前にまで来たが、黒い瞳で私を見ても鴉は飛び立とうとしなかった。
だから私はフェンスを乗り越えることにして、私は鴉がいる縁に立つ。
フェンスの向こうであわてふためくサクラ。私は怯えないようにゆっくりと手を伸ばした。
鴉は大人しく右羽を広げている。漆黒の右羽の中に微かに光るものが見えた。針金かなにかが引っ掛かっているのだろうと思い、その光った箇所に手を伸ばす。
平気で座れるくらいのこんな余裕の縁で、うっかり足を踏み外すようなベタなドジをやるわけがない。そう思ったのに、鴉を持ち上げた途端。
バサッ。
触られるまでが許容の範囲だったのか、胸の高さまで持ち上げた瞬間、鴉は羽を広げた。暴れ出すから驚いて手を放すと、顔すれすれに鴉は飛び立った。
仰け反った私は。
ガクッ。
ベタに踏み外して、浮遊感を味わう。サクラの短い悲鳴が聴こえた。
グシャリ?
こんな時でも冷静にも自分の行く末を予測した。しかしそんな予測は外れる。
私を助けてくれたのは、あの白金髪の純血の吸血鬼。落ちると思った時よりも、彼がここにいることに驚いた。
「また会いましたね」
いくらなんでも再会が早すぎです。
「脆い人間なのですから、危ないことはやめなさい。人生は短いのですから、身体を大事にしましょう」
人間は、脆い。そして人生は短い。前世でそれを身を持って知っていたのに、危うくまたもや短く人生を終わらせるところだった。
自分の迂闊さに悔やんだ。私には、まだ私には、この先の人生がある。前世では高校生の時に死んだ。その先を経験したい。大学に通って、働いて、老いて、人並みでもいい。そんな人生を、送りたい。その先を、生きたい。私が望むのは、ただそれだけだ。
サクラと彼がこの屋上で会うシナリオは、存在しないことを思い出す。庭園で出逢うことは回避されたはずなのに、この二人が出逢ってしまったことに、大いに困惑している。
赤神淳とヒロインの仲を裂こうと登場するが、いくらなんでも早すぎる登場だ。赤神淳と親密になった頃に出てきていたはず。
もしや私が屋上に引き連れてしまったせいか?
食堂で昨日好感度を上げた赤神淳と接触する機会を逃したせいなのでしょうか。
シナリオが狂ってる?
まさか、ダークシナリオは回避されていない?
「……ところで貴方は何故ここに……?」
「ああ……大丈夫です、私は怪しい人ではないですよ。学校関係者です」
優雅に微笑んだ彼の返答にますます困惑する。彼はこの学園の生徒ではない。そして教員でもない。
それが、学校関係者なんて……。その場しのぎの嘘、だろうか。
「私の名は、ヴィンセント・ジェン・シルベル。クラスと名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
そんな名前でしたね。
と思い出してすっきりした反面、クラスまで訊かれたことに瞬きをした。必要なのだろうか。
答えてから、あまり関わらない内に彼から引き離そうとサクラの背中を押して屋上を後にした。
翌日、また桃塚先輩が朝食時に隣に座る。大好物のししゃもをねだられたから、私は差し出す。またサクラについて問われる前に、登校した。
すると、担任が代わって、ヴィンセント・ジェン・シルベルが教卓にいました。中年太りした担任教師が、優雅な微笑みを浮かべた貴公子に代わったのだから、みんなが見惚れて呆然とした。
「……シナリオが違う」
乙女ゲームのシナリオの中に、悪役キャラの彼が担任になるエピソードは存在しない。この先の展開が予想がつかなくなってしまった。私には関係ないと言い聞かせながらも、サクラが人並みの恋愛ができたらいいと願う。
関係ないと思ったのに、何故かヴィンセント先生は庭園に来た。サクラが橙先輩に絡まれていたので、私は先にランチに来た。彼は隣に座り、他愛ない話をする。
偏食の私の健康のために、お弁当を作ってもらうことなってしまった。ヴィンセント先生は料理上手。
「ヴィンスと呼んでください」
ヴィンス先生は、私を音恋さんと呼びました。
やがて、サクラが来て、橙先輩に絡まれた件を愚痴る。そのうち仲良くなるのでしょう。
先のことがわからないのは不安だけれど、よく考えれば、もともと未来なんてどうなるかわからないもねだ。ゲームヒロインである彼女はどんな未来を選択していくのでしょうか。
ヴィンス先生と別れて、サクラと教室に戻ろうとしたら、サクラは男子生徒に呼び止められた。告白でしょう。流石、美少女。
「あ、無愛想チビ」
一人廊下を歩いていれば、橙先輩と赤神先輩にばったり会った。
何故か捕まり、橙先輩が私を押さえて、赤神先輩が私と目を合わせた。
吸血鬼には、能力がある。異性をメロメロにするフェロモンを出して魅了すること。そして瞳で暗示をかけて操ることだ。
しかし、チクリと痛みがするだけで、私に暗示はかからなかった。
「……理由を教えろ」
赤神先輩がもう一度暗示をかけるが、またチクリするだけ。何故、吸血鬼の暗示がかからないのか。
吸血鬼に吸血鬼の暗示は効かない。だから吸血鬼の血を飲み、その血が体内にあるうちは人間にも効かない。そんな設定を思い出した。
つまりは、私の体内に吸血鬼の血があるということ。ヴィンス先生のお弁当に入っていたのかもしれない。ヴィンス先生の血。
赤神先輩も同じ考えに至ったらしい。動揺した。
「何やってるんだ!?」
そこで助けてくれたのは、風紀委員の笹川竹丸先輩。風貌は不良でも、生徒思いで心優しい人。
痛みでしゃがみこんだ私が、暗示にかけられていると思い込んだ彼が頬を叩いた。
思わずカッとなり、赤いネクタイを掴んで引っ張る。首が絞まるところで、突き飛ばせば、竹丸先輩は頭を壁にぶつけました。
我に返って、謝る。やり過ぎました。
保健室に連れていかれて頬を氷で冷やすけれど、笹川先輩の方が痛かったと思い出す。
笹川先生は申し訳ないと謝り、お詫びをしたいと言いました。
赤神先輩が暗示をかけてまでサクラの秘密を探ることを不正でもらうためにも、友だちになってもらうことにしました。
保健室の先生、笹川仁先生。笹川竹丸先輩の叔父に当たる。ちょい悪オヤジな柄でスキンシップの激しいエロ教師だけど、先生に慕われる気さくな人。そして、前は最強のハンターとして活躍していた凄い人。
笹川先生は、暗示のせいで痛むので一時間休ませてくれた。
「甘えていいんだぜ? 可愛い子が来てくれると嬉しいな」
中学は保健室の常連だと知っていて、いつでも来るように笑いかけてきました。それはちょっと……。
眠って休んでいると、ヴィンス先生がそばにいました。でも私はまた眠りました。
翌朝。またラウジンに行くと、桃塚先輩がいました。
赤神先輩と橙先輩が乱暴したことを謝ってくれました。
桃塚先輩の様子からして、赤神先輩の能力に私が気付いていないと思っているようです。その日、何故かサクラとは関係ない質問ばかりされました。
お昼は、約束通りヴィンス先生のお弁当をもらい、私の好きな小説の話をしました。
「夜の学園にお化けが出るんだって!」
あとから来たサクラが、夜に忍び行こうと誘ってきました。
ついに来ました。ヒロインがモンスターを知るイベントです。
脇役の私は行かなかったので断ります。隣に先生もいますしね。
話は怖いものに代わり、ヴィンス先生は「吸血鬼は怖いと思いますか?」と訊いてきました。
理由は私に吸血鬼の小説を貸すため。面白いのなら、ぜひ。
その小説は、百五十年前のロンドンが舞台でした。
夜、夢中になって読んでいて、ふと、サクラが気になりました。
モンスターの生徒会と出会い、本格的な始まりとなる。
少し、ざわめく胸を気にしながらも私は眠りました。
学園の秘密を守るように言われても、私のことをサクラが考えていたとも知らず。
どうやらシナリオ通りみたいです。
サクラは私になにか言いたげな視線を向けますが、秘密を守り生徒会に監視されることを承諾する契約書にサインを済ませて、昼は生徒会と過ごすことになりました。
私の記憶が正しければ、ヒロインは生徒会メンバーに「貴方達は怖くない」と言うのだ。橙先輩は黒巣くんといつも喧嘩腰で口論していても、彼らがモンスターだと知っても、悪い人達ではないとサクラはちゃんと理解している。そんなサクラに、彼らは新たに関心を抱いていくのだ。
サクラはいい子。とてもいい子。
そんなサクラが選ぶ相手は誰だろう。フラグを立てた赤神先輩?
そう思っていたのに、昼休みに図書室に行くと、赤神先輩と会いました。
また暗示をかけてきて、私はチクリと痛みを覚える。まだ体内に血があるみたい。もしや、ヴィンス先生が意図的にお弁当にいれて与えているのかもしれません。どんな理由で?
赤神先輩も同じ考えで、探るみたいに私に話し掛けてきました。
あしらおうとする私に、赤神先輩は苛立ったご様子。
フェロモンを放ち、私を魅了しようとしましたが、私もサクラと同じくそれが効かない体質。
「……なんでこう、君は思い通りにいかない? 苛々する」
激情を抑えた囁き声。フェロモンよりもその声にメロメロになりそうだ。でもその台詞は、ゲーム内で自分の利益のために行動する赤神先輩が、思い通りにいかないヒロインに言う台詞。この台詞をきっかけに、ヒロインに恋愛感情を抱く。
それを何故、私に言うのでしょうか。それはサクラに、言うべきです。
赤神先輩は勝手に私の携帯電話をいじり、自分の番号とアドレスを登録しました。登録名は、"私はこの人の物"。
イレギャラーに、私は混乱してしまいました。
けれども、図書室にもう一人いることに気付く。生徒会書記の緑橋くん。話を聞いていたことをビクビクしながら、謝ります。
彼はコンプレックスを抱えていて、自分嫌い。自信がなくて、夜も美しい姿をした吸血鬼に劣等感を抱いている子。だから、いつも顔を隠してしまっています。
私は前世からそんな彼に同族意識を抱いていました。
私も他人を羨み、病弱な自分が嫌いだった。ゲーム中に緑橋ルイの心境を知って、それを変えなくてはいけないと思いました。明るくて活発な姫宮桜子に感化されて、緑橋ルイは変わっていった。彼のハッピーエンドを見て思いました。
ありのままの自分を受け入れて、変わろう。
だから、私はつい、言ってしまった。
「貴方は緑橋ルイです。その事実を、認めましょう」
いつまでも、苦しんでしまうから。
早くコンプレックスを克服してほしかったからけど、反省する。私の役目じゃない。サクラの役目です。
「勝手にひどいこと言って、ごめんなさい」
謝って私は、会釈をしてから去りました。
休日にサクラ達とお出掛けして楽しんだあとの月曜日。
校門で服装チェックをしていた笹川先輩と挨拶したあと、校内で赤神先輩が待ち構えていた。笹川先輩は校門で、この前の仲裁は期待できない。逃げようにも、肩を掴まれてしまった。
でも、フッと現れたヴィンス先生が追い返してくれました。誰もヴィンス先生には勝てませんから。
「また彼に何かされたら、私を頼ってください」
にこっと微笑むヴィンス先生は、本当にゲームと印象が違う。
生徒思いのいい先生ですね、と私が言うと否定した。
「私は音恋さんだけを、寵愛していますからね」
確かに、お弁当をもらっている私だけが、贔屓してもらっていますね……。
翌日、体力テスト。運動不得意な私の結果は最低。最低最悪。運動音痴なんです。
長距離走のあとは、気持ち悪さを感じて、フラフラとグラウンド隅のベンチに向かおうとした。そこでぶつかった生徒は、生徒会庶務の黒巣漆くん。何故か、デジャビュを感じた。
理事長の孫で、ゆくゆくは継ぐことを夢見て生徒会長を目指している黒巣くんは、何を考えているかよくわからない人。
人の神経を逆撫でするような皮肉を放ったり、嘲笑う。それは毒舌な祖父を真似した悪癖。
「アンタ、素で友だちやってんの? なんてお人好しー」
黒巣くんは、サクラと親しいことについて、つついてきた。でもよくわからなくて、首を傾げた。緑橋くんが止めると、サクラまで来た。
黒巣くんが秘密を持っていたら親友ではないとサクラの不安を煽る。やりすぎだ。板挟みでサクラが可哀想だ。黒巣くんから離そうとしたら。
「あたし達、親友だよねっ!?」
サクラは私を手を握り、問う。初めて会ってから、まだ一月も経っていないのに、親友なんていっていいものかと少し考えた。
でも、サクラは私の親しい友人だ。優しくしたいと初めて思った親友。
幸せに導きたいと思った親友。
「親友だよ」
そう答えれば、天真爛漫な笑みになってくれました。
そんな私達の元に、ボールが降ってこようとして、サクラが受け止めようと動く。でも、先に黒巣くんが受け止めて、投げ返した。
「気を付けろって何度言わせる気ですかー?」
黒巣くんは、それだけ言うと離れました。サクラは「むかつくー!!」と地団駄踏んだ。
ゴールデンウィークは実家で過ごすと知ると、親友のサクラは寂しいとしがみついた。だから、お泊まり会をしました。
私の両親は普通だけれど少しテンションが高くて、去年宝くじを当てて隠れ億万長者。世界旅行を少しずつしている最中。なので、イタリアのお土産をもらった。ホワイトゴールドのペアリング。彼氏ができたらあげてと言われてしまいました。できる予定なんてありませんよ。
ゴールデンウィークはたっぷり両親と過ごして、寮に帰りました。次はパリ旅行だそうです。いってらっしゃい。
ゴールデンウィークの終わった翌朝は、気分が最悪だった。体調が悪いとわかりながらも、コーヒーを飲みにラウンジに出ると桃塚先輩と会う。
せっかくなので生徒会にもお土産をあげると言う話をしていたら、妙なことを聞いた。
私に会えて嬉しいのにモヤモヤする。まるで恋をしているような口振りなのに、桃塚先輩はこの表情がわからないと問う。私に恋しているんじゃないですか、とは言えない。適当にはぐらかしました。
大丈夫だと思い、登校したのですが、ホームルーム中にダウン。
ヴィンス先生に抱えられたあとは、気を失ってしまいました。
夢を見た。
早産で、なかなか泣き声を上げない赤ん坊の私。走馬灯のように、当時の光景を見る。ゴム製の玩具に歯もないのに噛んでいる私がいるのは、家。そこにいるはずのない人がいた。
リビングに佇むのは、ヴィンス先生。
目を覚ませば、保健室。そばにヴィンス先生が立っていた。夢と同じように。
ぼんやり、純血の吸血鬼は夢の中に入れる能力もある。それはヴィンス先生が貸してくれた小説に書いてあった。何故、そんな実話の小説を、私に渡したのでしょうか。
笹川先生に診察されて、少し休んだら寮に送ってもらうことに。早退です。
眠りに落ちるまで、ヴィンス先生はそばにいてくれました。
次に目を覚ませば、寮の部屋のベッドの上。そばに誰もいないことに、寂しさと心細さを覚えた。もう一人で寝込むなんて、なれていたはずなのに……。思わず、眠る前にいた彼の名を呟いた。
「はい、なんでしょう?」
「……!?」
一人言に返事がきて、私は驚きで飛び起きる。見れば部屋のドアからヴィンス先生が中に入ってきた。
恥ずかしく思いながら、なんでもないと首を振る。看病する人がいないので、ヴィンス先生はお弁当を持ってきてくれた。食べさせてもらったけれど、半分も食べれず謝罪。
すると、ヴィンス先生はデザートを出した。
「……チーズ、ケーキ」
大好物に、俄然食欲が沸いた。躊躇する私に「一口だけでも」とフォークで掬い上げて差し出した。
はう……美味しいです。
「……もっと……食べたいです」
さっきより恥ずかしかった。でもヴィンス先生は楽しげにまた食べさせてくれました。
はう……やっぱり美味しいです。
ほんのりと熱でぼやける感覚の中、甘い甘い誘惑に沈んでしまいそう。
ヴィンス先生は私の部屋を眺めた。サクラが心配していると聞き、私はメールを打つ。その間に壁に吊るしていた例のペアリングを、ヴィンス先生が見つけました。それは銀のチェーンにつけているから、ヴィンス先生が触れようとしたのを見て、彼の手を掴んで引き離す。吸血鬼は銀に弱い。
存在を知らないことにしているので、アレルギーがあると聞いたと誤魔化した。
すると、例の小説を読んでいたかを訊ねられ、あまり読み進めていないと答える。まだ意図がわからない今、なにも言わない方がいい。
「そばにいて、くださり……ありがとうございます……」
看病もケーキもそうだけれども、私は帰る前にヴィンス先生にお礼を言う。更に熱が上がった気がします。
「そばにいてほしい時は、いつでも呼んでください」
そのあと、サクラが電話がかかった。食堂で生徒会といたらしく、桃塚先輩にかわり、お土産のお礼を言われる。今、食べているそうだ。
緑橋くんもなにか言いたいことがあると桃塚先輩が言ったけれど、彼の声は聞こえない。
すると、黒巣くんの声が聞こえた。でもサクラと桃塚先輩が声を上げて、騒ぎ出した。ぷつりと電話は切れる。
……賑やかだ。
少し、チクリとしだけれど、私は熱に溺れるように眠りました。
翌朝、一晩で完治して私は登校することにした。やっぱりヴィンス先生はお弁当に血を入れて、私を支えているようです。
ラウンジでまた桃塚先輩と会い、安心した笑みを向けられた。世話焼きな彼はコーヒーを淹れてくれようとしたけれど、イタリアのお土産をイタリア式に飲みたいので断る。桃塚先輩が興味を示したので教えた。インスタントだけれど、砂糖をかき混ぜないまま飲み干して、最後に砂糖を食べる。お気に入りのスタイルです。
香りを楽しみながら、エスプレッソの語源についても話した。
あなたのために淹れたコーヒー。そんな説もある。
「Coffee expressly for you」
そう言って、桃塚先輩は可愛らしい笑顔で差し出してくれました。
並んで座って、エスプレッソタイム。
「こうして音恋ちゃんの隣で朝食をとっているとね……一日が始まるなぁって感じるんだ、うん、しっくりする」
「一緒に食事することが、もう当たり前になってしまったせいでしょうか」
「そうなんだよね、当たり前になっちゃったから、音恋ちゃんに会えなかった朝は一日が微妙だった」
当たり前の朝。たとえるなら、家族と囲む食卓。いて当然だから、いないと違和感を抱いてしまう。いつも一緒にいる友達がいない寂しさと同じだと思う。
ああ、そうか。昨日桃塚先輩が言っていたのは、これか。恋愛フラグかと思ったけれど、違う。
私と桃塚先輩は友だちですね。
「おはよう、桜子ちゃん」
「おはようございます!桃塚先輩。あたしも桃塚先輩の友だちですよ」
「うんっ!友だちだね!」
そこに来たサクラと桃塚先輩は無邪気に笑い合う。
チクッと突き刺すような視線に気付いて周りを見てみた。
ふい、と視線は外された。私達が使っている隣のテーブルについている数人の女子生徒。その中の一人、緩いウェーブのかかったショッキングピンクの短い髪の女子生徒は、見覚えがある。
美人の分類に入る容姿の彼女は二年生だ。
ゲーム内では必ず主人公のライバルとして出てくる登場人物だ。
名前は、花園麗子。
五月のテスト直後に主人公に何かしらしてくる。それは陰湿ないじめだったり果たし状を突き付けたり、様々なパターンがあって、主人公に対する好感度が一番高い生徒会の誰かを好きで、嫉妬から主人公に何かを仕掛けてくる人。
席を立って自分の部屋に戻ろうとしたら、桃塚先輩に腕を掴まれた。
桃塚先輩に掴まれた腕を見てから、彼の視線を追い掛ければ橙先輩と黒巣くんがこちらに歩いてくるのが見える。ラウンジにいる女子の大半が二人を目で追いかけた。
「カイ君、ナナ君、おはよう。ほら!昨日のお土産のお礼を言って!」
引っ張ったかと思えば、桃塚先輩は私の背後に回って私の肩に両手を置いて、橙先輩と黒巣くんを急かす。
桃塚先輩の立ち位置は、家庭に例えるとお母さんだなぁ、と思いました。
「あー……美味かった」
「美味しかったです」
眠そうに半開きにした目で私を見つつ、眠気たっぷりの声で感想を述べるお二人。
私はもう部屋に戻ろうと思ったら、また視線を感じた。
橙先輩と黒巣くんの間から見えた彼女の鋭い視線。またすぐに逸らされた。
現在サクラに対する好感度が一番高いのは桃塚先輩で、彼女の意中の相手は彼かと思ったけれど、橙先輩?
判断するには材料が少なすぎる。
彼女から視線を外したら、黒巣くんと目が合った。
漆黒の瞳が、じっと無情に私を見ている。まるで観察するような眼差しに、見覚えがある気がしてきた。
どこかで見た? ゲーム内でも、なかったはずだ。
首を傾げると、黒巣くんはボサボサに乱れたボリュームある黒い髪を掻きながらそっぽを向くと、豪快なほど大きく口を開けて欠伸をした。
気にすることはやめて、桃塚先輩の手を退かして部屋に戻る。
花園麗子さんが誰を好きなのだろう。わかれば彼女が何を仕掛けてくるのかわかるし、誰がサクラの有力候補かもわかる。
「……探りを入れようか」
探りを入れずともサクラは色々話してくれるけれど。
彼女がどう思っているのかを、改めて知るべきだから聞いてみよう。
テストが終わる前に知って、気がある相手に守らせようか。
サクラに危ない目に遭ってほしくない。例えタフで気丈な女の子でも、悪意を持って傷付けようとすれば傷付く。
鞄の中を整理していて、目が止まった本を取り出す。革のような素材の表紙。
それを見つめた後、私はその本を机の引き出しの中に置く。
そして、静かに───…閉じた。
昼休み。約一週間ぶりの庭園でのランチ。
「今日はあの小説を読んでいないようですが、どうなさったんですか?」
まるで私達のために設置されたような踊り場に屋根が設置されていた。
そこを利用してヴィンス先生のお弁当を堪能しながら屋根を眺めていたら問われる。
「テストが間近なので、読書の時間も勉強をすることにしました」
あらかじめ用意していた答えを、淡々と口にした。
嘘ではない。事実です。
「……そうですか」
「目標は全教科、満点です」
「頑張ってください」
ヴィンス先生に視線を向ければ、薄い笑みを浮かべていた。だけれど、目標を言えばいつもの優雅な微笑みをくれる。
「テストが終わったら、必ず読んでくださいね?」
……釘を刺されました。
ヴィンス先生の私物なので焦って読む必要はありません、とまで言われてしまいました。
当然なのかもしれない。
現実の吸血鬼と酷使した……いや、純血の吸血鬼の実話だろうか。その本を世間に置いていけないだろう。それを私に渡した理由は、考えたくない。
今はヴィンス先生よりも危機が迫っているサクラだ。
被害が最小限になるように、私が出来ることをしよう。
テスト一週間前は、テスト期間で部活は休部になる。そのせいか、朝のラウンジは利用者が増えて賑わっていた。私がいつも座っている席は既に埋まっていて、野球部の男子生徒が笑い声を上げながら談笑している。普段ならこの時間は朝の練習に行っている運動部の生徒でごった返したラウンジをぼんやり見つめた。
喧騒が嫌で利用者が少ない時間帯を選んでいたのに、どうしよう。
「音恋ちゃん、おはよう」
パタパタと私の元に駆け寄ってきたのは、桃塚先輩。
今日も可愛い笑顔で挨拶されました。
「いつもの席じゃないけど、音恋ちゃんの分の席も取っておいたよ」
気が利く桃塚先輩に背中が押されるがままに向かい、喧騒のど真ん中で食事をすることになった。
もう少し早く来れば静かでしょうか…。
賑やかなのは、朝のラウンジだけではなかった。
放課後も部活の練習がない生徒が、ラウンジで勉強会をやっていたのだ。
席はほとんど埋まっていたので、私とサクラと森田さんとユリさんはラウンジで勉強会することは諦めて、サクラ達の部屋で勉強することにした。
床に寝そべって、ノートを広げる。全員の手が届く位置にポテトチップスなどのお菓子を置いた。
森田さんは、ダークショコラのポニーテールで眼鏡を掛けている。
ユリさんは小麦色の髪をハーフアップにした髪型。二人は幼馴染み。
今日は勉強会のはずなのに、何故か二人は生徒会の写真を入れたアルバムを眺めていた。生徒会のファン。もちろん会話は生徒会と親しくなったサクラはどう思っているのか、と私から聞き出してみた。
サクラ自身はまだその感情を抱いていないらしい。ゲーム内でも、確かそのテスト終わった後から芽生えていっていく。
テスト六日前。
勉強は一人でやるべきだと学んだので、学校でやることにした。
夜も就寝時間まで賑わっていたので、放課後の学校の方が空いていると推測したけれど的中したようで、翌日の放課後の学校は静かだ。
誰もいなかったわけではないから、廊下の先に人影を見付けた。
桃塚先輩だ。その小柄な桃塚先輩と変わらない身長の男子生徒が二人見えた。
あの後ろ姿……。
見付かるその前に私は遠回りしようと決めて、回れ右をする。
その瞬間、桃塚先輩が私に気付いて目を丸めたように見えたけれど、私は振り返らず早歩きで逃げた。
ダダダダダダダッ!
後ろから迫りくる駆け足。
見付かってしまった。
逃げることを潔く諦めて、くる衝撃を覚悟して目をきゅっと閉じる。
ドガッ!!
「久しぶりっ!音恋先輩っ!!」
絶妙にハモらせた声も、背中に容赦なくきた衝撃も、中等部の卒業式以来です。
そして突進の後の締め付けは、サクラ以上に苦しい。
右から顔を出しているのは、猫塚美海君。
左から顔を出しているのは、猫塚美空君。
ややつり目の大きな瞳でそっくりな顔立ちをした黒に近い藍色の髪は、垂れた猫の耳みたいに見える。綺麗系な男の子。
中等部の生徒会の双子さん。正体は猫又。
そこにどこからともなくヴィンス先生が現れると、二人は離れた。人見知りで臆病な二人には、怖い存在らしい。驚いてピンと背筋を伸ばして強張った猫そっくりだ。
「お知り合いですか?」
ヴィンス先生が桃塚先輩と同じ質問を私に微笑みを向けながらした。双子さんは廊下の壁際に身を縮めている。
「中等部の後輩です」
「後輩ですか、随分と親しいようですね」
「中等部の入学式で、白い薔薇を二年生が新入生の胸につける伝統がありまして、私は美海君につける役目でそれがきっかけで二人と知り合いになったんです」
右側の美海君に目をやれば、猫みたいに海の底のような色の瞳を細めて笑った。
あの時は私の胸くらいの身長だったのですがね……。
二ヶ月会わないうちに、また身長が伸びている。男の子は成長が早い。
「初めて言葉を交わした先輩としてなついてくれまして、それからすれ違う度に、挨拶してくれるようになりました」
最初は普通に人懐っこい笑顔で挨拶してくれていたのだけれど、半年経って抱き付いて挨拶してくるようになった。
その時も身長はまだ私の胸辺りだったので、子どもに抱き付かれた程度にしか思っていませんでした。
しかし、彼らが二年生になると身長は同等になってしまい、腰に巻かれていた腕が胸の下にくるようになったのでやめるように言ったのだけれど、この二人は聞きやしない。
中学生だからパワフルな二人は、真上にある猫じゃらしに飛び付く仔猫みたいに加減なしに突っ込んでくるので、私のダメージは計り知れなかった。
会わないようにこそこそしていた中学三年の日々を思い返していたら、遠い目になってしまったのでシャキッとする。
「私の可愛い後輩の、猫塚美海君と猫塚美空君です」
「……初めまして」
初対面のようなのでヴィンス先生に紹介すると、おずっと美海君が頭を下げて遅れて美空君が頭を下げた。
初めてでももう純血の吸血鬼だと理解しているのだろう。警戒している。
「どうも」と返したヴィンス先生は微笑んでいたけれど、まだ寒い。
「可愛い後輩が音恋さんに会いに来たのですか?」
「いえ、違います」
ヴィンス先生の問いに首を振ったのだけれど、美海君が声を上げる。
「音恋先輩に会うついでにお仕事に来たんだよ!」
「お仕事をついでにしないの」
ぐっと拳を握り締めて言い切った美海君の頭に、桃塚先輩が軽くチョップを落とす。
お仕事……?
美海君は中等部の生徒会長で、美空君が副会長。
選挙は頼まれてサポートしました。高等部に仕事に来たというなら、モンスター関連だろう。
変だな。そんなシーン、こんな時期にあっただろうか?
双子さんはゲームでは一度桃塚先輩ルートをクリアすると、攻略対象キャラとして出てくる隠しキャラだ。リアルは入学式からやり直すことはないから、そんな手順を踏まなくともサクラは接触可能だろう。
彼らは、二人で一人。一セット。
特定の人に依存する傾向があって、片割れのために身を引くという考えがなく、二人一緒に仲良く主人公を愛するというヤンデレ寄りな恋愛をするキャラ。
依存する傾向があるから、入学式で初めて言葉を交わしただけの私に依存して、なついていたのだと今気付く。
人見知りするところがあって、常に二人は互いを守るように離れることなく、なかなか他人と親密になることが出来ない。だからこその依存。
期待と不安に押し潰されてしまいそうな入学式で、初めて言葉を交わした私を心強い味方と判断した。
中等部で頼れる先輩だから生徒会選挙は手伝ってほしいとせがんできたのか……。
恋愛感情ではないけれど、私も一応依存の対象になっていたのだ。
これからはその依存が私からサクラに移ることになるのだろう。
ゲーム内では、宮崎音恋を通じて主人公と知り合うんだった。
こんなスキンシップの激しい未来のヤンデレさんを、親友に紹介すべきか迷ってしまう。
「あ、ヴィンセント先生も来ていただけませんか?」
「……私もですか?」
「はい、関係者ですので」
桃塚先輩に声を掛けられて、ヴィンス先生は首を傾げる。
こうやって桃塚先輩とヴィンス先生が廊下で話す光景は不思議に思えるけど、ヴィンス先生にも関係者として生徒会のお仕事の話をするなんて、やっぱり変だと思った。
気になっても関係者ではない私がその話を聞けるわけもなく、彼らは生徒会室へと歩き出す。
嵐が過ぎ去ったみたいに、静まり返った廊下を一人歩く。
賑やかな声は聴こえてこないので、きっと図書室の利用者は少ないだろう。図書室のドアに手をかけて、ガラッと開いた。
図書室にいたのは、たった一人。ドアの方に身体を向けて、テーブルに頬杖をついて読書をしていた彼と目が合った。
私の登場は、彼も夢にも思わなかったのでしょう。
目を見開いて驚いている。
「……こんにちは、赤神先輩」
これ以上いい環境は見付からないので、仕方なく赤神先輩の向かいに座る。
数学のテスト範囲のページを開いてから、目の前にいる赤神先輩を見てみれば、教科書に目を向けていた。やがて興味をなくしたように、自分が手にしている本に目を戻す。
上っ面な笑みすら見せないけど、私は勉強に専念した。
沈黙した図書室には、紙の上を走るシャーペンの音とページを捲る紙が擦りあう音しか聴こえてこない。
やっぱり静かな方が集中が出来る。
公式を覚えながら淡々と計算をしていく。ただそれを繰り返していた。どれくらいの時間が経ったのかわからないけれど、沈黙を破る赤神先輩の声が図書室に響く。
「それ、間違っている」
今さっき解いた問題が間違っているようだ。
「何故その答えが出た?」
何を間違えたのだろうか。
私はその問題を読み返して、もう一度計算した。その途中で赤神先輩の手が私のシャーペンを奪う。
私なら立ち上がらなければ届かないのに、向かいにいる赤神先輩は座ったまま軽く身を乗り出すだけで、手が届いているところを見ると体格の差がよくわかる。
左手でそのシャーペンを持った赤神先輩は、式を書いて答えを出した。
逆さに書かれた数字は、私が出した答えと全然違う。
どうして誤った答えを出したかと言えば、単なるケアレスミスだった。またやってしまいましたか。
「貸してみろ」
「あ」
シャーペンの次はノートが奪われた。ペラペラとページを捲りながら目を通していく赤神先輩は、私にノートを見せると「これも間違っている」と指摘する。
「……くっ」
赤神先輩が、肩を震わせた。
どうしたのかとノートから赤神先輩の顔を見てみたのだけれど、俯いていてわからない。
「くくくっ! どうしてこんなにもミスが出来るんだよ……あはは!」
「………………」
「半分も間違っているぞ……くっ……くはははっ! アンタ頭悪いのか? 酷いなっこれ!」
今度は、笑いやがりました。半分も間違っている私もどうかと思うけれど、それを大笑いする赤神先輩はどうかと思う。
これ、この前怒らせた仕返しでしょうか。
でも笑われて腹立たしい一方で、静かだった図書室に響く笑い声が素敵だなと思う私は、やはり彼の声が好きなようです。
ファンが黄色い声を上げる優しげな微笑ではなく、目尻に涙をためて弾けたように笑う顔もこれはこれでいいと思う。
……ま、私も許しましょうか。これで電話の件はチャラですね。
苛立った声も好きですが、ご機嫌な声も好きです。御馳走様。
私は今度こそノートを奪い返そうと手を伸ばして自分に引き戻そうとした。しかしその手を掴まれて止められる。
「教えてあげようか? 数学」
もう片方の手で頬杖をついて極上の笑みを浮かべて、赤神先輩は言ってきた。いつも優しそうな笑顔だが、きっとダントツに素敵スマイルだ。
とても上機嫌なところ悪いですが、お断りします。
一人で勉強することも譲りません。
ノートを引くが。
「音恋」
機嫌を損ねた赤神先輩はムスッとしかめっ面をして、私の名を呼んだ。
囁くような苛ついた声だったから、あの恋愛フラグの台詞を思い出した。
……フラグって賞味期限ないのですか。まだ立ってたりするのでしょうか。
赤神先輩の暗い茶色の瞳を見つめて、私は考えてみた。恋愛感情を抱いていたりするのだろうか。
そう言えばゲーム内では、放課後の図書室は赤神先輩と緑橋くんと会う確率が高い場所だったと思い出す。
ピシャッ!
開かれたドアが大きな音を立てた。私と赤神先輩が目を向けた先には、ヴィンス先生。赤神先輩を無表情で見据えている。
「赤神君、話があります」
怒るのかと思いきや、例のお仕事の件で呼びに来たみたいです。
「一人でごゆっくり勉強してくださいね」
再び沈黙する図書室に、私は一人取り残されてしまった。
やはりモンスター関連で何か問題でも起きたのだろうか。
思考の片隅で考えつつも、間違っていると印をつけられた問題をやり直すことにした。
ガラッ。
静かにドアが開かれたので顔を上げる。次に図書室に訪れたのは、深緑の髪と眼鏡で目元を隠した緑橋くんでした。
本を抱えた緑橋くんは、周りをよく見ないのでしょうか。私が声をかけて初めて気付きました。驚いて本を落としてしまい、踞ってしまった。
顔を上げた緑橋くんはぎこちなく口元で笑みを作る。これが桃塚先輩や橙先輩や双子さんの場合、耳やら尻尾やらが出てきて大変なことになるのだけれど、緑橋くんは出るものがないので問題なし。
緑橋くんの前にしゃがんで、分厚い本を手に取る。タイトルは"神様の使い"上巻と下巻。
「緑橋くんが借りたの?」
「えっ……いや、ナナが借りたんだ。代わりに返しにきただけで……」
ふぅん、と相槌を打ってからペラペラと中身を見てみる。インド神話をベースにした物語らしい。ガルーダという聖なる鳥族の王の物語。確か、鴉天狗のイメージはガルーダからきているという説があった気がする。
私好みではなさそうなので、本を閉じて緑橋くんに渡した。
「……ぼくはっ……ぼくは緑橋ルイです!!」
声を聞き取ろうと顔を近付けていたから、いきなり声を上げられて驚いてしまう。
「じ、自分を認めてっ……! 認めようと……見つめ、直そうと……ど、どど努力を……してて」
床に向かって叫んでいた声は、直ぐに徐々に音量を下げていく。俯いているから私の角度から緑橋くんの目元が見えたのだけれど、ギュッと閉じているから瞳は見えない。
気弱な緑橋くんが、勇気を絞り出して、言っている。
前の答えた。
「ゆっ……ゆっくり……!」
そっと前髪を掴む手を開く。くしゃくしゃになった深緑色の前髪を撫でるように整える。指先が緑橋くんの額に触れる度、口を閉じた彼はビクビクと震えた。
「うん。ゆっくり……頑張ってください」
私は静かに頷いて、言う。緑橋くんは、ゆっくりと自分のペースで変わっていこうとしている。
急かすつもりはない。
変わってくれるならいい。
ゲームで見たハッピーエンドの時の笑顔に、なれるならば私は満足です。
「ごめんなさい、また余計なことを…………緑橋くん?」
元通りにした前髪から手を退けてみれば、緑橋くんの色白の顔が真っ赤になっていることに気付いた。耳まで真っ赤。
その上、石になったみたいに固まっている。
まるでメデューサの目を見たみたいだ、というジョークをメデューサ本人に言えないのが残念です。
「些細なきっかけになれたなら、嬉しいです」
頬杖で口元を隠して、数学のノートと向き合う。
とても不思議な感じ。
"漆黒鴉学園"という乙女ゲームの中にいた緑橋ルイに勝手に同族意識を持ち、同族嫌悪を抱いたことがきっかけで、私は変わることにした。
その緑橋くんが、私の言葉をきっかけに変わることにしたのだから、とても不思議だ。
なんだか妙だけれど、でも、なんか、悪くはない。
「昔は自分を嫌い否定して、他人を羨ましく思っていました。今は違います。緑橋くんも。だから今は嫌悪はありません。昔の自分より、今の自分が好きです」
自分らしく、自分のままで、生きている現世が好きだ。
勿論、全力で生きた前世も好きだ。
自分を認めて、自分を好きでいることが、生きる活力になると私は思う。
「だから、否定的に見えた緑橋くんにも、自分を認めてほしいと思ったんです。自己満足な言動で、ごめんなさい」
「えっ! あっ、だからっ! 謝らないでっ!ぼくはっ……」
また謝った私に緑橋くんは何か言いかけたけれど、今度は彼の携帯電話が鳴ったので会話は中断。
「は、はい? 桃塚会長?」
桃塚先輩からの電話のようだ。
「桃塚会長が、中等部の生徒会の猫塚会長と猫塚副会長と一緒に、寮に送ると言っていますが……」
「…………は?」
二拍遅れて反応して、緑橋くんに顔を向けた。
つまりはあのパワフルな双子さんが図書室に来るのですか?
漆黒鴉学園高等部の校舎から、高等部の寮まで徒歩で十分程度。私の足だと十五分。
そんな短い距離だというのに、送ると言い出した桃塚先輩と猫塚双子さんが、図書室に来た。
パワフルな双子さんのせいで集中が出来なくなったので、早々に切り上げて帰ることにしました。
騒がしい二人は、図書室にいるべきではないです。
日が沈みかけて薄暗くなった夜道。
双子さんに挟まれ、後ろには桃塚先輩と緑橋くんが歩く。
双子さんはピクニックに行くみたいに、繋いでいる手をぶんぶんと前後に振っている。
後ろをチラッと見てみたけれど、桃塚先輩も緑橋くんも他所に顔を向けていた。なにかを警戒しているようにも見える。
可笑しい。
モンスター関連の事件だと思うけれど、テスト期間中にこんなイベントはなかったはずだ。
ま、私には、関係ありませんね。
中間試験まであと五日。
「ネレン! 一緒に勉強しようよぉ!」
「ごめん。一人で勉強したいから」
「ネレンとの時間が失われてる気がするぅっ!」
サクラに腕をすがり付かれる昼休み。
朝からサクラは騒がしい。
試験勉強を一緒にしようと頼み込まれるが、一緒だと全然進まないので私は一人がいいです。
昼休みも放課後も別行動になってきたので、ともに過ごしている時間は確実に減っているので、気のせいではない。
「そうだ。テスト明けに後輩を紹介するよ」
「ネレンの後輩?」
双子さんの話をしたら、見事に気が逸れたらしく目を蘭々に輝かせた。
「今、中等部の生徒会で」
「ああ、あれでしょ!猫塚っていう双子さん!」
先に言い当てられて驚く。もう会ったのかと首を傾げた。
「ううん!昨日の夜のラウンジで、桃塚先輩から聞いたんだ」
情報源は、桃塚先輩。
つまりはサクラは事件について聞いたようだ。
経緯はわかったけれど、やっぱり可笑しい。
サクラにまで伝わるなんて、こんな事件はゲームにはなかった。
これからどうなるのか、予測がつかない。サクラに危険が及ばないといいのだけれど……。
「あ、あのね! ネレン!」
「ん?」
ぐい、とサクラに引っ張られたので立っていた二階の階段に一緒に座る。
「じ、実はね!」
私の両手を痛いくらい握り締めたサクラの目に決意が見えた。
この子、打ち明けるつもりだ。
もう隠していることに耐えられなくなって、生徒会の秘密を私に打ち明けようとする。
それはまずいです、桜子さん。
「おい。なにやってんだよ」
私が止める前に、上から声が降ってきた。
顔を上げてみれば、踊り場で橙先輩が仁王立ちして私達を見下ろしている。
厳密に言えば、挑発的な笑みをサクラに向けていた。その笑みをみて、サクラの表情が強張る
「飯いくぞ。早く行かねぇと……」
「行きますよ! じゃあ、あとでね! ネレン!」
軽い足取りで階段を降りてきた橙先輩は、わざわざ私とサクラの間に割って入った。
凄む橙先輩を悔しそうに見上げていたサクラは立ち上がると食堂に早足で向かう。あとを追う橙先輩となにやら口論しながら。
「……私も行くのだけど」
食堂に。
置いていかれてしまった。
今朝、ヴィンス先生に申し訳なさそうに謝罪された。今日は忙しくてお弁当を作る暇もなかったそうだ。
だから食堂で摂るように、と言われた。
きっと通り魔の件で忙しかったのだろう。
これを機に、もうお弁当は作らなくていいと言ったのだけれど、目映い笑顔で「明日は必ず作って来ますので、明日は一緒にランチの時間をともにしましょう」と返して一歩も譲らなかった。
なかなか手強いです。
私は腰を上げて、食堂へと向かった。
昼休みの食堂で生徒会といるサクラを見たのは、それが初めてだった。
食堂の中央のテーブルは、一際賑わっている。揃いも揃って見た目がいい生徒ばかりで、周りの生徒の注目を集めていた。
黒巣くんが緑橋くんのおかずを取ったことを桜子と桃塚先輩が注意している。黒巣くんがサクラに濡れ衣を押し付けるものだからサクラは怒り、それを煩いと吠える橙先輩を赤神先輩が煩いと一蹴していた。
些細な日常の光景だと思う。
でも私の目には、スポットライトに照らされた舞台に映った。
ゲームで切り取られていたワンシーンが、今そこにある。
他愛ないはずなのに、なんだか輝いていて眩しい。
さっきまですぐ側にいたサクラが、遠くに感じた。
サクラはスポットライトが照らす舞台の真ん中に立っていて、私は舞台の隅っこが定位置。
ただ食堂の入り口に突っ立っていた私に気付いたのか、黒巣くんと目が合った気がする。けれど私は食堂に入らず踵を返した。
自然と俯く顔。肩からするりと落ちた髪が舞台の幕みたいに見えた。
舞台の中心から離れていけば、賑やかな笑い声が遠ざかる。
長い髪を右耳にかけて、校内の廊下を歩く。
なんだか感傷的になってしまう。
活発で明るくて可愛い姫宮桜子みたいな影響力が自分にもあるかもしれないと自惚れてしまった。
全部、桜子がやる前にやってしまっただけのことで、悪く言えば横取りしたようなものだ。
赤神先輩の厚意を避けて思惑を外れて動いたせいで、フラグを立ててしまった。
緑橋くんには自己満足で思ったことを吐き出して刺激してしまった。
主役の役割を一部奪ったようなものだ。
姫宮桜子は、私にとって憧れの存在でもある。
緑橋ルイを変えたのは、彼女だ。
あのハッピーエンドの笑顔を作ったのは、彼女。
真っ直ぐで天真爛漫な笑顔で照らす彼女に憧れた。羨ましくも思った。なりたいとも、思った。
でも、私は私だ。
宮崎音恋は宮崎音恋。脇役は脇役だ。
私は、私です。
ふぅ、と吐き出した息が震えた。
私は私らしく、脇役は脇役らしく、この世界を生きるべきだ。
「勉強、しよう」
学業に専念する。
優秀な成績で卒業して、大学にいって就職して働いて、人並みに生きていく。
私が望むのはただそれだけ。
サクラの主役の座も、台詞も役割も、奪うつもりはない。
私が動くと狂ってしまうから、だから余計なことをするのはやめよう。サクラなら、きっと大丈夫。
私は、隅っこで脇役をこなしつつ、傍観する。
親友の幸せな笑顔を、遠くでみておく。
「それにしても…………お腹空いた」
お腹に手を当てる。
いつもお腹一杯に食べるヴィンス先生の美味しいお弁当は今日はない。購買は食堂だから、買いに行けない。
よってお昼ご飯抜きです。
一食くらい我慢できる。食欲はそれほどないし。
私は化学室に向かうことにして足を進めた。
ガラッ。
私がドアに触れる前に、ドアが開いた。自動ドア……ではないか。
目の前には、濃い茶色のズボン。顔を真上に上げれば化学の先生。
身長百九十センチはありそうな巨体の男の先生は、白衣を着ていた。無表情に私を見下ろす面長な顔は蒼白だ。
生徒会顧問でもある城島冬樹先生。
勿論モンスターで、正体はフランケン。
かれこれ五十年この学校の先生をやっているフランケン先生。
「一年B組の……宮崎音恋さん……」
大きな口が微かに震わせて地を這うような低い声で私の名を口にした城島先生。
ゆっくりと左右に顔を動かして廊下の向こうを確認する城島先生に頷く。
一人です。ぼっちです。それがなにか。
「今日の授業でわからないところがあったので訊きに来ました。お時間大丈夫ですか?」
「……」
用件を伝えると、城島先生はまた左右に顔を動かした。
誰か探しているのだろうか。
今の時間、ほとんど生徒も教師もランチ中だろう。
「……すまないが、宮崎さん……」
「はい?」
「荷物を運ぶのを手伝ってくれないか」
「……はい」
荷物運びを手伝ってもらう人を探していたようだ。小柄な私に持たせることは気が引けるけれど、他に人が捕まらないため、仕方なく私に頼んだようです。
確かに並の腕力しかありませんが、荷物運びくらい手伝えますよ。
職員室まで運んでほしいのは、数多くのファイル。全クラスの生徒達のファイルだから、段ボール三つ分あった。
城島先生は段ボール二つをまとめて二つを抱え持つ。彼ならば三つを一度に運べるだろうが、人間らしく振る舞うべきなので、こういう手段をとる。
私が持たされた段ボールの中身は少なめらしいが、それでもどっしりした重さ。なかなか重いです。
「……大丈夫か?」
「大丈夫です」
寡黙で無表情だけれど城島先生は、生徒に無関心な人ではない。
振り返って気遣ってくる。
ま、私が無理していないか、心配でもあるのでしょう。
大きな背中を追い掛けて廊下を歩いた。
職員室は一階にあるから、一度降りないといけない。職員室の近くにある階段に向かっていたら、女子生徒数人が見えた。
廊下の端に立っていた彼女達が視界に入ったけれど、私は城島先生の背中を見ていたので、"彼女"に気付けなかった。
ガッ。
左足首に何かがぶつかったと理解したその瞬間に、右足を後ろ側に浮かせていた私の身体は前へと傾く。
両腕の間だから見えたクリーム色の廊下に─────…倒れる。
その刹那に、小学生低学年の時にお父さんに寒くてもポケットに両手を入れてはいけないと教わったことを思い出した。
いけない理由は柄が悪いとかではなく、躓いて転んだ時に咄嗟に手をついて自分を守れないから。
両手をポケットに入れて歩いてはいけない。躓いた時、顔面から転ぶことになる。
両手が段ボールで塞がった私は、ポケットに手を入れて転んだも同然。
つまりは顔面ぐしゃりです。
バタンッ!
無様に転んだ。とても痛い。
べったりと冷たい廊下に張り付いた身体の部分が痛い。両膝に胸に肘が特に。
一番痛いのは、顔を咄嗟に守ろうと下敷きにした右手。痛い。
「クスクス……」
女の人の笑う声が耳に届いたから、反射的に振り返った。
ついさっき横切った女子生徒達が廊下を丁度曲がろうとしている。笑ったであろう女子生徒の髪がふんわりと揺れた。
ウェーブのついたショッキングピンクの短い髪。
─────…花園麗子。
「宮崎さん、大丈夫か」
「……は……痛っ」
城島先生の低い声に顔を前に戻す。持っていた段ボールを手放してしまったので、転倒してファイルを散乱させてしまった。
掻き集めようと起き上がろうとしたけれど、右手に体重をかけた瞬間、強烈な痛みが走って起き上がれなかった。
「…………」
私の二回りも大きな手が私の右手を取る。城島先生の手だ。
眉間に眉毛が寄っている。
私は左手をついて起き上がる。膝も痛い。視界の縁みたいに髪が垂れるので肩の後ろへ退ける。
もう一度後ろを振り返った。
「誰かに……やられたのか?」
ぼそり、と小さく城島先生は唸っているみたいな低い声で問う。
二度も振り返った様子から、誰かに転ばされたと推測したらしい。
「……はい」
私は、こくりと頷いた。
左側にいた女子生徒の誰かに、きっと足をかけられたと思う。それで転んでしまった。
十中八九、花園麗子が主犯だ。
でも────…何故?
何故私に仕掛けてきたの?
仕掛けてくるなら、テスト明けだ。それも相手は、サクラだったはず。
どうして、彼女の怒りの矛先が私に向けられているんだ。
舞台の隅っこで、脇役が脇役をいじめてどうしたいんですか?

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