戦後、米軍政下におかれた沖縄が日本に復帰して15日で44年を迎えた。だが沖縄は真に「復帰した」と言えるだろうか。

 労組や市民団体が集まる「5・15平和行進」に初参加した大阪府の男性(42)は前日、米軍普天間飛行場の移設先、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブを訪れた。船で埋め立て予定地を視察していると、沖縄防衛局の警備船から立ち入り禁止区域に近づかぬよう警告された。

 近くで米軍関係者がカヌーをこいでいたが、彼には何も言わない。「ここは日本じゃないのか」。男性はそう実感した。

 米海兵隊は1950年代、山梨や岐阜に駐留していたが、本土の基地反対運動が高まるなかで、米軍政下の沖縄へ移った。キャンプ・シュワブもそのころできた基地の一つだ。

 復帰直後、全国土面積の0・6%しかない沖縄に、米軍専用施設の59%が集中していた。だがいま、その割合は75%近くにまで高まっている。本土の基地が大幅に減る一方で、沖縄の基地の減り方はそれだけ鈍い。

 2014年に普天間飛行場の空中給油機を米軍岩国基地(山口県)に移駐したなどの実績もあるが、沖縄県外への基地移転計画は近年も頓挫している。

 10年に民主党政権が打ち出した普天間飛行場の鹿児島県徳之島への移設案、15年の米軍オスプレイの佐賀空港暫定移駐案と、政府はともに本土の移設・移駐先の反対で断念した。

 政府の対応には本土と沖縄で落差もある。97年、米軍の実弾射撃訓練を沖縄から本土の5演習場に移転した際、当時の防衛施設庁が住宅防音工事の補助金制度を新設した。一方、沖縄ではこの制度は長く知られなかった。キャンプ・シュワブを抱える名護市は今、なぜ沖縄に制度が適用されてこなかったか、政府への不信感を募らせている。

 普天間飛行場の辺野古移設計画も、反対の民意にもかかわらず、政府に見直す意思はうかがえない。政府と県の裁判は和解が成立し、埋め立て工事はいったん中断しているが、政府が姿勢を変えなければいずれ再び裁判に立ち戻る公算が大きい。

 政府は「普天間か辺野古か」の思考停止から脱し、県外移設を含む第三の道を探るべきだ。

 「基地なき沖縄」を切望しながらかなわず、復帰後も重い基地負担にあえぐ沖縄。多くの県民にとって、政府の対応が本土と平等とは思えない現状のままで、真の「復帰」への一歩を踏み出すことはできない。

 本土の自治体、住民も他人事では済まされない。