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つれづれTiru's Life

ことば、メディア、教育、哲学などなど「教養」に興味・関心がある学生が徒然なるままに綴っています。

なぜテストが半強制的に行われているのか?―二つの要因の考察と私的意見

雑記 学問-人文科学-教育
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テスト期間中ほど好きな勉強をやりたい欲。あるよね~。

絶賛テスト期間中‼‼

ども!留学生活も残り半月でテスト期間なうのtiru@ture_tiru)です。

 

テストってどうしても好きになれないんですよねぇ。

 

やらなきゃいけない感がなんだかすごく気持ち悪く感じてしまいます…

テストだけじゃないけど(ボソッ

なぜやらなきゃいけないのか?

テスト勉強をする必要があるかないかでいえば、その人にとって必要ならあるし、必要じゃないならない…はず。

 

もしやりたいことがあってそれが勉強なら、どうしてこうも半強制的に勉強しなきゃいけない環境があるのでしょう?

要因①教育制度

ひとつの要因として教育制度上、致し方ないという部分があるのでしょう。

 

自分で課題を見つけてやっていく人はほっとおいても勝手にやるし、おそらく多少の縛りがあってもそれなりに勉強はこなせる。

 

でも、そうじゃない人にとってはそうした縛られた環境に身を置かざるをえないんだ。

 

そんな感じの論理があるのでしょう。

 

 

分かる。

 

 

自分も少しタイで日本語指導をお手伝いしながら「先生」と呼ばれる経験をした時に、みんながみんな好きな勉強を持って取り組むわけではないし、多少の縛りがないと社会教育的にもってとこはあるのだなと想像する。

 

だけど、思うにそれはいわゆる義務教育までの話でもうちょっと自分の趣味嗜好に合わせて風通し良く突き抜けていけるような制度があれば、勝手にやる人もそうじゃない人にもいいんじゃなかろうかとも思う。

要因②制限を設ける

これは意外と大事かなって思うのだけど、一定の制限を設けることで半強制的にアウトプットさせていくのもあるのだろうなーと。

 

というのも、やっぱり勉強はしてもしてもキリがなくてどこまでもどこまでも

 

 

「この知識が!この思考が!!足りない!!!」

 

 

ってなってしまう。

 

どっかで踏ん切りをつけて半分諦めながらもアウトプットしていかないと、前に踏み出せるものも踏み出せなくなってしまう。

 

テストっていうよりもちょっと論文を書くときのことを想定してしまっているけど、それなりに重なる部分はあるのではないかなーと。

与えられるのではなくつかみ取る勉強を

なにはともあれ、僕は与えられる勉強より自分でつかみ取っていく勉強が好きだ

 

自分にとっての問題意識(社会・論文)はあるし、もうそこに向かって突っ走っていきたい。

 

けど、どうしても大学の単位として取らないといけない授業があって、その授業が打算的に受けているものほど、やっぱりやる気は出ない。

 

結果、いつまでもギリギリのテスト週間から抜け出せない…

 

知ってはいる。

ぐぅーたら言ってないで、やること済まして好きな勉強をすればいいってことを。そんな望まない勉強でも、いろんな価値を見出していけることを。

 

だけど、分かってはいない。そして、実践できてもいない。

 

まだまだ甘ちゃんだ。間違いない。

理想に近づければそれが一番いい

だけどもし、もし制度として、教育する側にとっても、学ぶ側にとっても、効率的な学びが提供できるなら、そういった方向に舵を切っていってもいいのではないか?とよく思う。

 

 

教えるってすごく大変だ。一人ひとり違うのに、それを一辺に相手取って教えないといけない先生は本当に苦労もあるだろうと想像に難くない。実際に自分もそれをほんの2か月だけど味わった。

 

 

だからこそ、ただ単に「教える・教えられる」ではなく、相互に自発的な「教え合える」ような環境作りがもっと進めばうれしいなーと思う。

 

 

まぁ、と願っているだけじゃなくて自分も何かしらそうやって自発的に学んでいける環境を作るお手伝いをできたらと思って、いろいろ試そうとはしている。

 

 

E-leaningの発展版としてなにか考えられないだろうか…?結局のところ、勉強意欲に関してはマインドうんぬん的な側面が強いし、それをまた強制してしまってもひずみが起きるのだろうなと思いつつ…

 

 

今の制度がシステムとしてそれなりに上手く成り立っていることも承知で少しつづってみた。そして、教員の方々もそうした風にできればいいと思っている方も少なくないのだろうとも思う。これは実際に先生方と話してそう感じた。

当然、部分的なわけだけど…そうしたことを実証的ににいろいろ図ろうとする学問があることも承知。正直、こんなの考察なんてものというより、居酒屋で話すおっちゃんの他愛ないぼやきに過ぎない…

 

 

たぶん、僕は教育哲学者のフレイレ的な立ち位置にいるのかと思う。まだそうした教育学の勉強ができていないが、いつかまとまって時間取ったり、それを専門にしている人とまた話をしていきたい。

 

 

その前に、タイ語……

 

 

で、では~