いまさらやめては だめなのだ
SOKA2015
“黄金の三年”を知っていますか
2015-12-26-Sat  CATEGORY: 未分類
「黄金の三年」を知っていますか。2013年の夏頃、先生が側近の幹部に語られたことを、正木理事長(当時)が指導に引用され、次のように語られました。「先生は“黄金の3年”の開幕にあたり、『深く大きく境涯を開き、目の覚めるような自分自身と創価学会の発迹顕本を頼む』と言われました。万代に続く世界宗教としての基盤を築く“黄金の3年”。なすべきことは、自身と学会の『発迹顕本』です。」

この「黄金の三年」とは、2014年~2016年に当たります。まもなく2015年が暮れようとしていますが、「黄金の三年」の二年目が終わろうとしています。残すところが一年となってしまう訳ですが、この「黄金の三年」とはどんな意味を持つものなのでしょうか。先生が「頼む」と云われた発迹顕本とはどうすれば良いのでしょうか。

先のブログ記事「発迹顕本」では、会則改正の邪義を発迹顕本の前兆であると論じましたが、これが発表されたのが2014年の11月です。「元創価学会職員3名のブログ」の3名が除名されたのも同じ2014年の6月でした。遠藤総合教学部長が副会長をはじめすべての役職を剥奪されたのも同年です。これが「黄金の三年」の初年です。

それでは二年目に当たる本年はどうであったでしょう。1月には会則改正の教学部による解説が聖教に掲載され、その後原田会長、谷川副会長、及び各部代表による、改正容認の紙面座談会が掲載されました。記憶に新しいところでは、11月に御祈念文が改訂され、大御本尊への南無が削除され、諸天善神と日目上人が消えました。

主流派の方々はこの一連の創価の流れを「創価学会の発迹顕本」であるととらえる向きもあるようです。しかし先生は「自分自身と創価学会の発迹顕本」と云われており、自身の発迹顕本なくして、創価の発迹顕本はあり得ないと考えます。原田会長が発迹顕本して創価の発迹顕本を牽引しているとは、ついぞ聞きません。

それでは先生の云われた「黄金の三年」とはどんな意味を持つのかをここで考えたく思います。この三年は創価が道を誤っていることに気付いた人たちが、自身の発迹顕本を成し遂げ、創価の発迹顕本の道筋を探し求める三年間であると思います。「いつでも、人々を変えるものに」気付くのはほんのわずかです。

「池田先生の創価学会が誤るはずがない」と主流派の方々は云います。一旦この命題を真と置きましょう。そして「現在の創価は誤っている」という命題を立て、これもまた真と置いた場合、一見矛盾しているように見えますが矛盾していません。それは何故かといえば、「現在の創価は池田先生の創価学会ではない」からです。

主流派の方々は全体の九割を超え、ほとんどを占めるものと思います。先生はその方々に、「私も原田会長と共に」、「学会は、御聖訓通りの麗しい和楽の世界」、「日本も世界も晴れ晴れと創価の新時代を迎えることができた」等々のメッセージを送られていますが、これらは主流派の方々へ対するメッセージです。それらの方々は今まで通りに学会活動に励み、功徳をいただけばよいのです。それを否定するものではありません。

しかし創価邪教化の流れに気付いた少数の人々もいます。先生はその少数の人びとにもメッセージをくださっています。「11・18 人事とメッセージ」の記事にも書いた通り、先生は撰時抄の御文を三回も引かれ、今の「時」を「見極め、逃さず、勇敢に聡明に、最善の行動をする」よう指導され、締めくくりには種種御振舞御書から、「各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず」との御文を引かれ、各々の発迹顕本の覚悟を求められています。

この人々が「自分自身の発迹顕本」を成し遂げ、邪教化阻止に動き始めるのが「黄金の三年」であると捉えています。来年は「黄金の三年」の仕上げの年です。どのような動きが出てくるか予断を許しませんが、準備おさおさ怠りなく、自身の発迹顕本を成し遂げる修行を続けていく所存です。


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自問自答
2015-12-20-Sun  CATEGORY: 未分類
「各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。」

有名な「種種御振舞御書」の一節です。少年部の頃より習い親しんだ御文です。そして先生が11・18のメッセージに引用された御文でもあります。以前の記事にも引用しましたが、その時は本部職員に当てはめて論じただけでした。今回はこの御文を自身に当てはめて考えてみたく思います。本当に親や妻子、収入源を顧みることなく、法華経のために命を捨てられるのか。

ここでいう法華経とは大聖人の正統な教義、正法正義と考えます。現在の創価はそれを捻じ曲げていると認識しています。この認識が正しいとして、創価を元の軌道に戻すために、妻子や収入源、そして自らの命まで投げ出すだけの覚悟が私にあるのかということを、自身に問うてみようと思います。

私は創価が邪教化しているとして声をあげ、ブログ等で自らの考えを発信し、「破邪顕正之書」という文書をものして、地域の幹部や信濃町に奉職する友人等へ渡し、読んでもらっています。地元の会館(神奈川文化会館)には、「破邪顕正之書」の著者が私であること、すなわち横浜のとある副支部長であることが知られていますが、査問等の呼び出しは未だありません。

たとえ査問委員会にかけられ除名等の処分があるとしても、今の時代妻子に害が及ぶことはあり得ません。しかし大聖人の時代はそうではありませんでした。事実、四条金吾は所領を没収され、熱原の農民信徒は三人が斬首され、残りは処払いとなりました。これらの先達と同様の覚悟をもって、今していることを続けられるかということです。

私には3人の子供と4人の孫がいます。目に入れても痛くないほどの孫たちは、私の宝であります。この子たちを失うことなど考えることもできません。まだ自分の命を失う方がましだと思うくらいです。それすらも失う覚悟があるかと問われれば、残念ながら今現在の私は首を縦に振ることができません。

自身の発迹顕本とは、それすらも克服することなのでしょうか。有り得ないことかもしれませんが、「そんなことを続けていたら、孫を失うことになるぞ」と脅されたとします。情けないことですが、私はその脅しに屈服するでしょう。恩返しの闘いと位置付けていますが、孫を失ってまで続けられるとは残念ながら思えません。

これが現在の私の限界です。さらに題目をあげて境涯を開いていきたいと思います。


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発迹顕本
2015-12-15-Tue  CATEGORY: 未分類
人類はこれまで二度「発迹顕本」を経験しています。一度目は釈尊在世の法華経の会座において、六万恒河沙の地涌の菩薩が出現したことにより、釈尊の久遠実成が明かされたときです。二度目は龍の口の法難で、大聖人が首の座において、まさに首を切られんとしたときで、大聖人は上行日蓮の迹を払われ、久遠元初自受用身如来の本地を現わされました。

人類は今、三度目の発迹顕本の時を迎えようとしています。一度目は釈尊、二度目は大聖人、そして三度目は創価学会が発迹顕本しなければならないのです。それは先生が「深く大きく境涯を開き、目の覚めるような自分自身と創価学会の発迹顕本を頼む」と云われたからです。先生に「頼む」と云われたからは、しないわけにはまいりません。

しかし先生は何故ご自身でなさらずに、弟子に「頼む」と云って依頼されたのでしょうか。結論から云ってしまえば、弟子がしなければ意味がないからです。来春の1月2日に米寿を迎えられる先生が、この後何十年も直接指揮を執り続けることは叶いません。しかし先生は「妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとる」とも云われています。

これは正木元理事長の指導を借りれば、「先生の心をわが心として戦う弟子がいる限り、先生が指揮をとってくださるのと同じです」と云うことになります。したがって先生の弟子が創価学会の発迹顕本を成し遂げなければならないという結論になってきます。そしてその、三度目の時が眼前に迫っているのです。

先にも述べたように一度目は虚空会の会座において、六万恒河沙の大菩薩が涌出するという壮大なドラマがあり、二度目は末法の御本仏が首の座に臨むという、未曾有の大法難が引き金となっています。このように発迹顕本には大瑞が伴うものです。創価学会の発迹顕本に先立つ大瑞とは何か。私はこれを大聖人の化法の改変という大謗法であると考えます。

具体的に何を指しているかと云えば、昨年の会則改正により大御本尊を受持の対象としないとし、教学部の解説で大御本尊を大聖人の出世の本懐でないとしたことです。先生が「だれ人も大御本尊と私共の間を切ることなど出来るはずがない。」と指導されているにもかかわらず、創価執行部はすべての学会員と大御本尊との間を切ったのです。

これ以上の大謗法がありましょうか。五逆罪さえ影を潜める大謗法です。一闡提人とは現在の創価執行部を指す言葉でしょう。しかしながらこの大謗法こそ、創価学会発迹顕本の大瑞であると考えます。先生が「頼む」と云われた発迹顕本です。必ずや弟子が成し遂げなければなりません。「本門の弟子」による大改革の嵐が吹き荒れるのは間近に迫っています。

「今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり、これをば・しらずして今の人人・善根をすすれば・いよいよ代のほろぶる事出来せり、今の代の天台真言等の諸宗の僧等をやしなうは・外は善根とこそ見ゆれども内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり」(減劫御書)ここの諸宗の僧とは現時点における創価執行部を指しています。

「いつでも人々を変えるものに、人々は気付かない」(松任谷由実 VOYAGER~日付のない墓標)。紛然と競い起こる魔に普通の人々は気付けないものです。しかしそれは、その人々の罪ではありません。けれども気付いた人が声を上げなければ、それは罪です。「説かずんば汝慳貪に堕せん」と観心本尊抄に説かれる通りです。

全国に気付いた人々がいて、それぞれに声をあげているのが聞こえてきます。しかし数百万人いる全学会員に比してあまりに少数です。その上気付き方も千差万別で、統一の取れたものではありません。それでも創価学会の発迹顕本は成し遂げなければなりません。その方途を探る旅はまだ始まったばかりですが、「いまさらやめてはダメ」な旅です。


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自受用身
2015-12-11-Fri  CATEGORY: 未分類
自受用身とは「ほしいままに受け用いる身」と読み下し、大聖人の御内証である久遠元初自受用身如来のことです。大御本尊はその御内証を法華経の虚空会の儀式を用いて顕されており、久遠元初自受用報身如来と申し上げます。報身とあるのは御本仏の智慧を文字曼荼羅として顕されているが故で、大聖人は一身即三身・三身即一身であらせられ、大御本尊は大聖人と人法一箇であらせられる故、大御本尊は報中論三(報身の中に三身を論ず)と申し上げ、また三秘総在(三大秘法、総てを在す)とも申し上げます。

大聖人は百六箇抄の「下種の法華経教主の本迹」において、「自受用身は本・上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり」と仰せです。末法の御本仏であるとの宣言であり、文底下種仏法の教主であると明確に仰せられております。

五老僧の末裔や、日興上人の裔でも日尊門流や北山門流は釈迦本仏説です。文上脱益の釈尊を本仏と立てているのは、大聖人からの相承が無いが故に、仕方がない部分ではあるのかも知れませんが、これは決定的な差異でもあります。「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」との仰せは、この現実を指しての仰せとも思われます。

相承の無い輩は百六箇抄や御義口伝を偽書呼ばわりしますが、先生はそれらを明確に否定されています。第一これほどの日蓮仏法の奥義を、大聖人以外の誰人が説けるというのでしょう。仏の内証は仏にしか説けず、唯仏与仏・唯我与我で日興上人以外にその奥義は授けられないのです。

最近の創価は教学部のアドバイザーである宮田教授の文献学的成果を以て、宗門色を払拭しようと教義の改正と称し、邪教化への道を歩み始めました。大聖人の文底下種仏法が文献学で解き明かせるとでも思っているのでしょうか。「我本行菩薩道」の文の底に秘し沈められた法門は、習いそこないの学者が夢にも知らない法門であると、日寛上人も申されています。

創価は今のところ会則の第2条で、「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ」としていますが、宮田教授は釈迦本仏説を示唆する発言をしているといいます。大御本尊を受持の対象としないとした創価ですから、次に何をしでかすか分かったものではありません。この邪教化の流れを何とか押し留めたいと思いますが、如何せん力の無い私は有効な手段を持ち合わせません。

「本門の弟子」へ申し上げます。力不足の私ですが、残りの人生を創価邪教化阻止に捧げ、貴兄の手足となって働きたく思います。現在何処にいらっしゃるか存じませんが、「迹門の弟子」である原田会長が、延長した任期を終えるこの4年間の内にご出現いただき、創価学会第七代会長として現在の流れを阻止し、「創価万代の繁栄への指揮」を執っていただきたく、伏してお願い申し上げる次第です。

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人法一箇
2015-12-07-Mon  CATEGORY: 未分類
先の邪教化でも書きましたが、現在創価のHPには人法一箇の文字がありません。日寛上人の六大秘法は否定しておきながら、人本尊・法本尊は臆面もなく使用していて、それでいて人法一箇は使えないでいるという、なんともお粗末な教義体系になってしまっているのが創価教学の現実です。

人法一箇とは云うまでもなく、人本尊たる日蓮大聖人と法本尊たる戒壇の大御本尊が、一体不二であるという日蓮仏法の根幹をなす教義です。昨年の会則改正前までは、当然のように語られていた人法一箇という教義が、会員に何の説明もなくいつの間にか削除されてしまったのはどうしたことでしょう。

大聖人は法華経の文字に対し次のように仰せです。「此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり」(曾谷入道殿御返事)。法華経に釈尊の真筆はありません。書写された文字でさえ「金色の釈尊」であると仰せです。

それでは大聖人御図顕の御本尊は、仏眼にはどう映るのでしょうか。日寛上人は「今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり」(観心本尊抄文段)、「蓮祖一身の当体全く是れ十界互具の大曼茶羅なり」(末法相応抄)と申され、御本尊は大聖人の生身であると釈せられております。

このように大聖人が仰せになり、日寛上人が釈せられてある人法一箇の法門を、創価教学は用いることが出来なくなっているのが現状です。古い会員の方は「御本尊様は日蓮大聖人様」と当然のように云われますが、私もまったくその通りと信じています。純粋な信心をされている方は、人法一箇の御本尊と信じていらっしゃいます。

各家庭にご安置の御本尊は、大御本尊の分身散体です。すなわち生身の日蓮大聖人の分身散体でもあるわけです。このように根本であるべき人法一箇の法門を用いることが出来ない創価は、やはりどう見ても邪教化の一途をたどっていると云わざるを得ません。

「傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや」との立正安国論の御金言を現在の創価に贈りたいと思います。この御金言の続きは皆さんご存知ですよね。「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」です。「この一凶」とは現在の創価の執行部を指すことは云うまでもないでしょう。

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創価学会邪教化
2015-12-03-Thu  CATEGORY: 未分類
私は昨年の会則改正以来、創価は邪教化しつつあるという立場に立つものです。その理由としては多々あります。第一の理由としては大御本尊を、受持の対象としないとしたことですが、今日はここで創価が邪教化しているのか否かを、会則改正後の創価の状況を見ながら、検証してみたいと思います。

その検証にあたり創価のHPを見渡してみたいと思います。戒壇の大御本尊を「弘安二年の御本尊」と云い替えている創価ですが、HPに1ヶ所だけ「大御本尊」という表記がありました。教学基礎情報>代表的な御書・観心本尊抄の解説で、「最後に久遠元初自受用身である御本仏、日蓮大聖人が大慈悲を起こされ、南無妙法蓮華経の大御本尊を御図顕されて、末法の一切衆生に信受せしめることを明かされています。」との部分です。

御祈念文では「南無妙法蓮華経の御本尊」と大の字を抜いている創価ですが、ここには残っていました。思うにこれは削除し忘れたというより、教学部の心ある者が故意に残したように感じられてなりません。本部の中にも会則改正や御祈念文改訂に疑義を抱く者はいるでしょう。しかし立場上、声をあげられないでいるのを、このように削除し忘れたふりをして、大御本尊を残していると考えるのは穿ち過ぎでしょうか。

次に「三宝」と「人法一箇」ですが、これは1ヶ所もありませんでした。三宝は仏教の基本であるはずですが、現在の創価教学では扱い切れない用語なのでしょう。人法一箇は日寛上人の六大秘法を否定している手前使えないのでしょうが、「法本尊」「人本尊」は観心本尊抄、開目抄の説明で各4ヶ所も出てきます。先の任用試験の解説でも、臆面もなく使われていました。整合性の取れないことに頓着しないのが創価教学のようです。

創価教学はこのように破綻をきたしています。これらは皆、大御本尊を受持の対象としない、大聖人の出世の本懐ではないとし、日寛上人の教学を部分否定したことにより起こっています。それは取りも直さず、昨年の会則改正により引き起こされたものです。日寛教学を見直すと云っておきながらこの一年、一つの解説も出てきません。御本尊を「認定」すると云っておきながら、我が家の日達法主書写の特別御形木御本尊は、いまだ認定された覚えがありません。

現在の創価は「いいかげん」としか云いようのない状況です。あれこれと美名のもとに、耳ざわりのいいことを云いますが、行動がまったくともなっていないのです。そもそも会則改正の説明が、ラインから何も降りて来ていません。さきの「日蓮世界宗創価学会」にしても、先生が揮毫されたというのに、会則の前文にいつの間にか載せて、聖教にはまったく掲載せず、ネット環境のみで閲覧できるだけ。このように不誠実な組織が現在の創価なのです。

このように一般会員を視野の外に置き去りにし、自分たちの都合のいいように創価を変えつつある本部中枢。この事実だけで創価の邪教化は間違いないものと考えます。創価は広宣流布のための組織です。それは一人一人の人間革命による、絶対的幸福の構築が基盤です。本部の一握りに都合よく、居心地の良い組織でいいはずがありません。しかし現在の創価は、そのような方向へ進んでいると看做さざるを得ないと考えます。

以上の状況を勘案しますと、結論として創価の邪教化は疑い得ないものと考えます。これには異論も数多くあると思われます。上記には意を尽くし切れていない部分もあり、論理的に飛躍した部分もあるかと思われます。願わくは皆さんの異論をお聞かせいただきたく思います。

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