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ウェブ1丁目図書館

読書で得ること感じること。ここはウェブ1丁目にある小さな図書館です。本の魅力をブログ形式でお伝えしています。

稲作は戦争とセットで輸入された

日本史

日本に稲作が伝来したのは縄文時代とされています。

その後、稲作は徐々に普及していき、弥生時代には貯蔵できるまでにコメの生産量が増えました。農具の発達、分業体制、コメの貯蔵による社会的剰余の発生。狩猟採集だけで生活していた頃には考えられなかった社会的発展が、朝鮮半島からの稲作の輸入によりもたらされたのです。

しかし、稲作の輸入は、必ずしも日本人を幸せにしてきたとは言えません。なぜなら、稲作は戦争とセットで我が国に伝来したからです。

富は狙われる

稲作に限らず農業は、豊作の時もあれば不作の時もあります。しかし、野菜はそれほど日持ちしないので、豊作であっても余剰を蓄えておける農作物ではありません。

でも、コメは長期間にわたって貯蔵が可能です。だから、豊作の時にたくさん収穫できた場合は、倉庫に保存しておくことで不作に備えれます。自然災害に見舞われて、稲作ができなくなっても、コメが蓄えられてあれば、すぐに餓死することはありません。

コメがすぐに消費されずに蓄えられている状態は、社会的剰余が生じている状態です。つまり、社会に富が溢れていることを意味します。しかし、富が蓄えられる社会が日本に形成されたことで、それは狙われる対象となりました。

ウィーン大学日本学研究所や国際日本文化研究センターなどの客員教授を歴任した原田信男さんは、著書の「コメを選んだ日本の歴史」の中で、社会的剰余の一般的成立によって戦争が発生するようになったと述べています。

隣村が豊作なのに自分の住んでいる村が不作で餓死者が続出するようになれば、不作の村の住人は生きるために隣村の食料を襲います。それはやがて、富の魔力に魅せられた人々を生み出し、食料難に追い込まれなくても戦争を仕掛けることが当たり前となっていきます。

原田さんは、農耕民は社会的剰余の重みを知っているから、より好戦的になると述べます。

これにはもちろん、モンゴルのような遊牧民こそが、諸民族を襲って大帝国を築いたではないか、という反論が予想される。しかし遊牧民が農耕民を襲うのは、そこに蓄えられたコムギなどの社会的剰余があったからである。より厳密に言えば、農耕民が問題ではなく、農耕によって生じた社会的剰余が、”富み”の獲得をめぐって戦争の原因となるのである。
(86ページ)

富が蓄えられない社会では、奪い合いや戦争は発生しません。富を持たない者を襲っても意味がないからです。かつてのアイヌ社会で、泥棒や殺人がなかったのは、富のない社会だったからと言われています。

環濠集落は防衛目的で造られた

縄文時代の人骨には争った跡はほとんどなく、矢じりが刺さったもの、石斧による頭蓋骨の陥没といった損傷は全国的にも10例程度しかありません。

ところが、弥生時代の人骨だと、首のないもの、剣や矢じりなどによる損傷を受けたと考えられるものが100名を超えています。中には、20本も矢を浴びて死んだ事例もあるとか。

縄文時代の人骨の損傷は個人的な争いによるものだと言えそうですが、弥生時代の人骨の損傷は激しい戦闘によるものだと考えられます。

また、稲作の普及につれて戦争が激しくなっていったことは、人骨の損傷だけでなく集落からもうかがえます。

弥生に戦争が始まったとする最大の根拠は、この時代に防御的集落と武器が出現したことである。弥生の集落は一般に環濠を持つが、その機能については、水利の可能性も考えられる。しかし、濠が水濠か空濠かの判別が難しく、むしろ本来的には土塁や柵などを伴っていたと考えられる。こうした環濠集落には、防禦的な性格が強く、日本の歴史のなかでも、弥生時代と戦国時代に、典型的に出現するが、そこには、戦争が常態化していた状況があった。
(81ページ)

環濠集落は農耕目的ではなく、稲作で蓄えた富を守るために造られた砦だと言えそうです。香川県の標高352メートルの紫雲出山遺跡からは、膨大な量の石鏃が出土しており、瀬戸内海に臨む立地からも、ここが臨戦的な砦のような施設であったと考えられています。

日本に稲作技術が伝わり、コメの備蓄が可能となったことで社会的剰余が発生しました。その社会的剰余を狙った他の地域の人々が武器を持って襲ってくるようになったと考えてしまいそうですが、原田さんによると、そうではなさそうです。

むしろ戦争という一つの社会システムが、実は水田稲作とセットとなって、朝鮮半島から入って来たと理解すべきだろう。もちろん、その前提には社会的剰余の成立がなければならないが、そうした意味においては、戦争はコメとともに伝来した新しい”文化”だったのである。
(87ページ)

コメを求めた近代日本

その後、日本の稲作は全国的に広がり、江戸時代には貨幣的価値も持つようになりました。近世以降は、コメが日本の経済に大きな影響を与え、コメ本位制とも言える経済システムは、つい最近まで続きます。

明治になって日本は他国に進出するようになりましたが、これは人口増加と米食の普及により国内のコメが不足したことが一つの理由です。

もともと日清・日露の戦争も、朝鮮あるいは満州、さらには台湾・樺太も加わるが、これらは基本的に植民地支配の実現を目指すものであった。つまり欧米列強に遅れて出発した日本資本主義の独占的展開を進めるための場として、大きな意味合いをもっていた。
なかでも朝鮮では、明治四三(一九一〇)年に韓国併合を強行した後、コメ不足に対応するため、朝鮮総督府は、大正九(一九二〇)年から、産米増殖計画を実施して、土地改良事業と耕種耕作法の改善に乗り出した。
(199ページ)

しかし、日本のコメ不足は朝鮮米や台湾米だけでは解消されず、次なる農地を求めるようになりました。それが満州です。

こうした満州の位置づけの延長線上に、昭和六(一九三一)年、満州事変が勃発をみる。そして翌年に満州国が誕生することになるが、これを契機に、本格的な満州移民が開始された。昭和五年に始まる金融恐慌の下で、頻発する小作争議に象徴されるように、農村は著しい疲弊に追い込まれていたが、その打開策の一つとして、満州への農業移民が計画された。
同六年に関東軍が作成した「満州農業移民百万戸移住計画案」は、ほぼそのまま政府の重要国策とされた。
(205ページ)

急激な人口増加によるコメ不足。それを解消するためには、日本列島だけで稲作をしていたのでは追いつかず、他国の土地で稲作を拡大させていかなければならないと、当時の政府は考えたのでしょう。


戦争が起こる理由はどこにあるのか?

軍国主義が戦争を起こす」
憲法9条を守れば戦争は起こらない」

そういった思想的なことは根本的な問題ではなく、食料不足から起こる餓死への不安が他者の食料を奪うという行動になり、それが集団で行われると戦争に発展するのではないでしょうか?

武器を持たない民族は、他民族を攻撃できません。しかし、一度、社会的剰余を得た社会では、他者から富を奪われる危険を知っていますから、防衛のための武器を持つようになります。そのような防衛目的で武器を持った社会が、富を失った時、あるいは富を失う危機にさらされた時、大規模な戦争へと発展するのかもしれません。

コメを選んだ日本の歴史 (文春新書)

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