西岡一正
2016年5月15日07時49分
「奇想」で知られる江戸中期の町絵師・伊藤若冲(じゃくちゅう、1716~1800)。その生誕300年を記念する回顧展が東京・上野公園の都美術館で開かれ、連日長蛇の列ができている。近年にわかに注目され、日本美術では有数の人気画家に。平成の「若冲ブーム」は頂点を迎えている。
若冲は花鳥画や水墨画を手がけ、モザイク風の描法や独自な技法の版画にも挑んだ。その多彩な作品から主要な89点を選んだのが、今回の「生誕300年記念 若冲展」。先月22日に開幕し、今月8日現在で入場者は20万に迫るという(会期は24日まで)。
最大の見どころは、仏画「釈迦三尊像」3幅と「動植綵絵(さいえ)」30幅の展示室。その理由を監修者の一人、小林忠・岡田美術館館長はこう話す。「若冲は京都・錦小路の青物問屋の当主だったが、40歳で弟に家督を譲り、画業に打ち込んだ。人生50年の当時、残りの10年で『釈迦三尊像』とそれを荘厳(しょうごん)するための『動植綵絵』を仕上げようと計画したのです」。つまり、両作品は一堂に安置されるのが本来の形なのだ。
若冲は両作品を京都・相国寺に寄進したが、明治22(1889)年に「動植綵絵」が宮内省(当時)に献納され、それ以降は別々に保管されてきた。2007年に京都で約120年ぶりにともに展示されたが、東京で一堂に会するのは今回が初めてだ。
「動植綵絵」は鳥や草花、魚介類から昆虫類までを濃密な色彩で精緻(せいち)に描いた花鳥画。今回、本来の形で展示されたことで、すべての命を慈しむ、信心篤(あつ)い若冲の思いがより明瞭になった。
若冲は生前は円山応挙と並び称される絵師だったが、20世紀にはなかば忘れられていた。再評価が始まったのは1960年代後半。美術史家の辻惟雄(のぶお)氏が「奇想の画家」として注目した。一般の美術ファンに知られるきっかけは、00年に京都で開かれた「没後200年 若冲」展。約1カ月の会期で10万人近くが詰めかけた。
その背景にはインターネットの普及があると、美術史家の山下裕二氏は話す。「濃彩で精緻な若冲作品はディスプレーに映える。若い世代に古美術ではなく、『いま』の画像として受け入れられた」。その後も各地で若冲を中心とした展覧会が相次いだ。
ブームは出版界にも及び、今展に向けても、女性誌「和楽」が特集を組み、カルチャー誌「Pen」はムックを刊行。「若冲への招待」といったガイド本も出ている。
異色なのはシティー情報誌から派生した「若冲Walker」。企画した玉置泰紀・KADOKAWAウォーカー総編集長は「若冲は一派をなすことなく、自分の表現を黙々と追究した。そこにサブカル系の若い世代が共鳴している」とみる。ツイッターで作品の感想を募ると「自由でポップで豊かな表現力」「スーパーポジティブ引きこもり絵師の傑作」といった投稿が200件以上寄せられたという。
作品だけでなく人物像にも関心が集まった。「若冲=オタク」説が広がったが、08年ごろ、錦小路青物市場の営業を巡る交渉に「年寄・若冲」が活躍する史料が注目され、人物像の再考が促された。小説「若冲」の作者・澤田瞳子(とうこ)氏は「若冲は一般の町人で、40歳から絵に打ち込み精緻な作品を残した。現代人は、ものづくりに励んだ等身大の人物として共感を覚えているのでは」と話す。
00年の回顧展から16年をへて、「若冲は日本美術のスタンダードとして認められた」と山下氏は断言する。畢生(ひっせい)の大作「動植綵絵」を描いたころ、若冲は「千載具眼の徒(と)を俟(ま)つ(千年、眼力のある人々を待つ)」と語ったと伝わるが、平成の若冲ブームは期待よりはるかに早く時が満ちたことを告げている。(西岡一正)
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