1982年9月、右手小指を骨折した工藤氏は西武とのプレーオフ前に包帯を巻いていた【拡大】
日本ハムの投手として活躍した工藤幹夫(くどう・みきお)氏が13日午前1時40分、肝不全のため秋田市内の病院で死去した。55歳。秋田県出身。
秋田・本荘高から1979年にドラフト2位で日本ハムに入団。右のサイドスローで82年に20勝4敗をマークし、最多勝を獲得した。この年、9月に自宅のドアのノブに右手小指をぶつけて右手小指を骨折しながら、1カ月後の西武とのプレーオフに登板し、世間を驚かせた。
球史に残る“奇襲作戦”だった。骨折は全治4週間のけが。出場は絶望的とみられていたが、当時の大沢啓二監督の指示で、工藤氏は3週間後に投球練習を開始。チーム内でもその事実を知るのはごく一部で、人前では患部にギプスをはめる“偽装”をしながらプレーオフでは第1戦に先発し、第3戦では勝利投手となった。
しかし、翌83年のキャンプ中に右肩を痛め、88年に野手に転向したが、同年限りで引退。その後は秋田市内でスポーツ店を経営し、社会人野球クラブチームの由利本荘ベースボールで監督兼投手も務め、地元のスポーツ振興に尽力していた。