議論における価値相対主義
日本では、対立する意見であっても、みんな仲良しの和の精神で、「そういう意見もあるよね」と平和的に包容される。
欧米では、対立する意見同士を徹底的に対置し、それぞれの独立した意見をさらに分析していくことによって、対立を先鋭化させ、その分析によって部分的に分割された量的連続性に、等質性ないし共通性が見出されたあと、急激に両者が牽引されるという、反発と牽引の理論に貫かれている。
この対比は、仏教と神道と儒教のチャンポン状態の日本文化と、絶対者の視点から価値体系を統一するキリスト教圏の欧米文化とに、対応しているのではないかと思った。
日本が、外来思想を受容するときは、あらゆる哲学・宗教・学問を、原理的に矛盾するものまで無限抱擁して、精神的経歴のなかに平和的に共存させるという精神的雑居性を行使する。
例えば、ドイツ観念論を朱子学に似ているとして両者を融合しようとしたり、ニーチェの反語を仏教哲学の無常観に重ね合わせたり、フィヒテの根源的同一性を禅の主客合一の見地と同一視する。
精神的雑居性の形成要因
精神的雑居性の形成要因は、仏教哲学の俗流化、神道における絶対者の不在、儒教体系の縮小の3つである。
第一に、異なったものを思想的に接合するロジックとして、何々即何々あるいは何々一如という仏教哲学が俗流化して適用されるということ。一切は空なので、あらゆるものが同権の関係項として位置づけられるのである。
第二に、神道は、開祖も経典も存在せず、究極の絶対者が存在しないので、縦にのびたのっぺらぼうの布筒のように、時代時代に有力な宗教と習合して、教義内容を埋めるという機会主義をもたらしており、仏教でも儒教でも、どんな学問でも、平和的に共存できるということ。つまり、日本神話においては、天照大神でさえ機屋で神に奉げる衣を織っているので、祭られる神は同時に祭る神であるという性格をどこまで備えており、絶対者が不在なので、絶対者によって世界秩序を論理的規範的に整序する方法が準備されておらず、思想的感染に無防備なのである。
第三に、唯一の自然法的体系だった儒教が、幕藩体制の崩壊によって、個別的な日常徳目としてのみ生き延びるという様相を呈しており、社会理論における統一的な世界像として通用しなくなったということ。
つまり、一切を相対化する仏教と、中身が空っぽで無限包容できる神道と、世界像を失って縮小した儒教によって、あらゆる思想が共存するのである。
あらゆる思想が共存すると今断定してしまったけど、この思想的寛容の伝統にとって、唯一の異質的なものがあって、それは、マルクス主義やキリスト教のような、まさに精神的雑居性そのものの原理的否認を要請し、世界経験の論理的及び価値的な整序を内面的に強制する思想である。
しかし、日本文化は化け物なんで、これも受容される。
というのも、(歴史内在的であれ、超越的であれ、)ある永遠なものに照らして事物を評価する思考法の弱い地盤に、キリスト教の終末思想やマルクス主義の史的唯物論、社会的ダーヴィニズムのような歴史的進化という観念がぶつかると、対抗できる価値体系を備えた思想がないので、思想的抵抗が少なく、その侵潤がおどろくほど早いために、かえって進化の意味内容が空虚になり俗流化して、進化が過程から過程へのフラットな移行としてとらえられ、中身が削げ落ちることで受容されるのである。
一方ヨーロッパでは、バロック建築のような天上的完結性で社会理論が建設される。近代社会理論形成期においては、キリスト教における唯一絶対の神による世界秩序の計画的創造という思考様式が世俗化されることによって、自由な責任の主体としての絶対君主による形式的法体系や合理的官僚制さらに統一的貨幣制度の創出への道を内面的に準備した。つまり、キリスト教圏における目的論的自然観の骨格が近代社会理論に適用されたことで、絶対者の視点から論理的及び価値的に整序された世界秩序が形成されており、これは日本の多視点的な秩序形成とは対比的である。
日本文化の精神的雑居性と、欧米文化の価値的統一性との対比が、それぞれの法体系や経済体制、思考様式ひいては日常的会話形式に連なっているのだとしたら、日本における「そういう意見もあるよね」の相対主義は、一切を相対化する仏教と、中身が空っぽで無限包容できる神道と、世界像を失って縮小した儒教に由来しているといえる。
『日本の思想』p.13-43参照。丸山自身は、外来思想の受容パターンを、日本の議論のパターンに接続していない。冒頭のページを何度も読み返してしまうので、3分で見返せるように暗記用にまとめた。