記事タイトルについて書く。
PVや収益
僕はブログを始めた当初、まず欲しかったのはPVだった。とにかくPVが欲しい、月に100万というのは夢のような数字で、おこがましいけれどもそこを目指していた時期もある。ではなぜこんなにPVが欲しいのかというと、1つめは「多くの人に見られて承認欲求を満たしたい」認められたいという気持ちが、 2つめは「PV増に伴う収益を得たい」という気持ちがあったから。
この2つの目的がブログを更新する大きなモチベーションになっていたことは間違いないし、今でも基本的には変わらない。PVは欲しい、収益が欲しい。ただ、それらを欲する中でも誰かを咎めたり歪んだ情報を流さないように、という感覚は月並みに身についてきたと感じているし、何よりもブログを楽しんで利用しようという気持ちが根底にあった。
昨今、PVや収益の話をするだけで「互助会」などと批判する人間が増えたが、これについて思うことは、既存の居心地が良かった文化を我らのようなPV収益上げよう勢力に侵襲されていると感じているからなのではなかろうか。PVや収益ありきでブログを語るなんて不遜だ、冒涜だ、文化を壊すな!こういった感情をひしひしと感じる。
部族に例えられる
我らのようなモチベーションを秘め、ときに記事でそれについて書き出すユーザーを、侵襲する部族に例え、嘆く人もいる。このたとえは適切なのかどうか。僕は不適切だと考える。なぜならブログサービスを統括している会社自体がこのような構図を助長するようなシステムを実装して新規開始者を募っているから。ブロググループ機能などはその最たるものだし、そもそも商用利用を認めている時点でそれ目的でくるユーザーを拒もうという意思は見られない。
国が国境を超えて違法に迫る集団に被害を被っているなら「部族の襲来」と比喩するのは適切であるが、国自体が文化の違う人間を移民政策により国に招き入れ、さらに新たな文化を醸成しやすいような土壌まで用意している。これではPV収益論者と襲来して文化を壊す部族では例えがちぐはぐで合わない気がする。
時代の変遷
ここは僕には語れない。なぜなら商用利用を前提としていない、PVや収益をモチベーションとしないかつてのブログ文化がいかようであったかを知らないから。最初からPV収益わっしょいなモチベーションの人がちょっと前に始めたブロガーには多く、交友のある人たちもそのような集団だからね。
「おまえらPV拝金主義者がブログ文化を壊すんだ!」などと言われてもピンとこない。だって、僕らにとってはPVや収益を求めることがモチベーションであることは至極自然なことだったから。ピンとこないどころか、はじめは混乱したね。「なんでこの人たちはこんなに怒っているの?」
かつてのブロガーにとっては「古き良き時代」があったのだろう。そこには我らのようにPVや収益を追い求め、それ自体をコンテンツにするブロガーなんて少数派だったのだろうね。もしくは水面下で淡々と実行してきたか。だけど、僕らにとってみればブログを楽しんでいる今が全盛期で、良き時代なんだよ。「出ていけ!」って言われて出ていくほど、ブログ熱は低くない。みんな楽しんでやってるんだ。
これは時代の変遷なんじゃないかと考える。数年後には僕ら世代から見た若い世代が、理解しがたい文化を継起し始めるかもしれない。そこで時代についていけない人は「出ていけ!」って若者たちに言うかもしれないね。けど、今僕らを叩いている人たちの言動をリアルタイムで見ているからこそ、時代の変遷に伴う新興勢力に対して少しでも理解する気持ちは忘れたくないな。違和感は感じても、糾弾するようなことは少なくともしたくない。
旧態依然だと反論するには角が立ちすぎる。であれば温故知新の心構えで臨んだほうが健全だろう。どんなに痛烈に批判されても流すところは流して、有用な箴言は取り入れて襟を正すところは正していく。だけど我らは新世代であり、時代を逆行することはできない。このことは基本的に変わらないし、できないことをやろうとする必要はない。PV欲しい、収益欲しい、それをみんなに意思の発出として見てもらいつつブログを楽しむ。これが僕らのスタイルであり、文化だ。
お金が先行すること
賃金は下がるし景気も見通せず、将来に対して夢や希望を見いだせない中で、鋳造された自由と比喩されたた貨幣、すなわちお金に夢を預けることは避けられない流れなのかもしれない。僕も自分の状況を考えると、少しでもお金を稼いで自由になる部分が欲しい。
上がっていく給料や安心できる老後なんてない。文化を壊そうとしてお金の話をするわけじゃなく、このような時代だからこそそれが反映されたブログモチベーションが勃興しているんじゃないのって、素人ながらに思う。
かつて「PV報告や収益公開は有害」と考えていた時期もあるけど、これらのことを鑑みると公開するのもありなのかな、と思えてきた。近々、過去記事を修正してその意思発出を再開するかもしれない。どんなに忠言を受けても、それに具体性が欠けたり人間批判ともとられかねない短い言葉の痛烈なものであれば、こちらの心には届かないんだよね。時代を逆行できるとも思えないし。
批判者は古い文化を愛でる人間でさ。戻れぬ過去と現状に思いを馳せてもどかしい気持ち燻らせているだけなのかもしれない。これも仕方なし、か。