日々30分のブログ更新でお金を稼げるノウハウを教えるという講座やサロンをちょくちょく目にする。そのたびに「申し込もうかな…!」と考える。ブログ飯で食べていけたらいいじゃんな。羨ましい。
現在わたしの暮らしは夫の会社の手当と公的扶助、医療保険と貯金、そしてわたしの変な仕事の稼ぎで成り立っている。これらがすべてブログで賄えたら、そりゃあうれしい。
去年Googleアドセンスを導入した。このブログは一日のPVが5000くらいの日でも一日の収益は100円ちょっと。「ゆうちょの利子に買ったな!」とささやかにガッツポーズをするくらいだ。道は険しい。いや、いいんですよ。これがあるとブコメでキーキー言われるときも「PVあざーす」って思えるから。でもブログ飯の人たちは、みんなどうやってんの。毎日10万PVくらいあるの?
その辺のからくりがどうなっているのかということにも興味があって、ブログ飯エントリーがあると毎回「あ!」と思って見る。しかし集中力が持たない。結果としてお金が入ったらすてきよねえと思うだけで、SEO対策とか目を引く話作りとか、更新頻度とか考えるのが、わたしには面白いことではないからだと思う。
要するに、いっけん楽して儲かるみたいで羨ましいけれど、ブログ飯ってわたしにとってはちっとも楽じゃなさそうなので、読んでいて疲れる。きっと向き不向きがある。*1それでも仕事ブログでいくらか工夫してみたけれど、まーもー苦痛だった。嫌になった。しかも出来上がったエントリーがつまらなかった。書いていて面白くなくて読んでつまらないんじゃあやっても意味ないわ。書きたい放題のこっちのブログのほうがずっとアクセスあるしな。*2
ブログ飯に漕ぎ出す人、漕ぎ出す人を見送る人
そのようなわけで、わたしはストイックにブログ飯向けブログをカスタマイズしていく人たちにはある種の尊敬の念がある。最近は勤めを辞めてブログ一本でやっていくと宣言する若い人もいる。id:fujiponさんが彼らの将来を真剣に考えるエントリーを書いていた。
さすが良識ある大人らしい話だ。「えーわたしもサロンに入ろうかな」と浮ついているわたしとは違う。id:fujiponさんとわたしは年齢が近いのではと思っているのだけれど*3、id:fujiponさんと違ってわたしには社会的的な信頼をえられる学歴も実績も職歴もなく、それをいまから作る貯金もないので、それもあって考え方が違うのかもしれない。
安定した職業だとわかっていても医者や看護師になれる人は限られている。公務員が安定していることはみんな知っているけれど、公務員になれない人もいる。知的、体力的、学費に投資できるお金と時間の点でその種のハードルの高さは違う。なので、安定した職業といえないものであっても、それしかできないという理由で変わった仕事を選ぶ人はいる。わたしもそれで変な仕事をしている。
来年高校を卒業する甥太郎と進路の話をしていたときに聞いたのだけれど、ユーチューバーとか、ゲーム実況を仕事にすることを教える学校もあるのだそうだ。そのうちブログ飯を仕事にすることを教える学校もできるのかもしれない。イケダハヤトさんやはあちゅうさんはいずれそういうところで講師として教えたり、教材を作成したりといった仕事もくるかもしれない。
そういうコースを選ぶ人たちを見ていると、代々木アニメーション学院や青二塾へ進む人たちを見るような気持ちになる。代アニ、青二、ブログ飯、ユーチューバー。その業界で立派に食べていく人はいる。もちろん目指していても憧れの職につけない人もいるだろう。それは安定した仕事でも同じだ。*4
わたしが気になるいちばんの問題は、夢をかなえるまでにどうやって食いつないでいくかということだ。いまの仕事をはじめてみてわかったことは、就職のすばらしいところは仕事が出来ても出来なくても最低限の給料が入ることだ。就職しない分野で下積み時代なしに成功できることはそうそうない。
自分2.0
fujiponさんのエントリーを読んで思い出した本が二冊ある。まず本田健の「大好きなことをやって生きよう!」。
これはタイトル通りの背中押しまくり本なのだけれど、この本でいちばん印象に残ったのはこのくだり。
ギャンブルとリスクの違い
こういう話を聞くと、なかには勘違いして興奮状態のまま、すぐに会社を辞めようとする人がいます。…
しかし、そういう人は、どんどん大変な状況を引き寄せてしまいます。なぜなら、彼らは、リスクを冒しているのではなく、人生を使ってギャンブルをしているからです。…
人生をルーレットの上の玉に任せきる人は、潜在意識では失敗を望んでいます。だからその状態を長期的に続けると、いつか必ず破産の憂き目に遭います。…
異常な興奮状態で何かをやろうとするとき、それはリスクではなくギャンブルをしようとしているのだと気づくとよいでしょう。
リスクを冒すときは、頭は冷静です。どういうマイナスの可能性があるか、しっかり見極めた上で勝負に出ているからです。
第4章 大好きなことへの移行期をどう乗り切るか?
こういう人はなぜ人生をギャンブルにしてしまうのか。
スタンフォード大学の心理学者であるケリー・マクゴニガルは自著「スタンフォードの自分を変える教室」のなかで、人は現在の自分には達成が困難なものごとであっても、未来の自分にはそれが達成可能だと安易に考える傾向があることを指摘している。
これは自分の成長を計算に入れるということではなく、今日手を付けるのが難しい仕事を明日にまわした方が上手くやれると考える傾向のことだ。いまの自分より決断力があり、判断力にすぐれ、体力気力の充実した将来の架空の自分のことをマクゴニガル博士は「自分2.0」と呼んでいる。
次の実験には、ごく近い将来の問題でさえ、人は自分を過大評価する傾向があり、他人事になるとさらに上手にやれて当然だと考えるという興味深い結果が出ている。
また、人助けのためにどれくらい時間を提供できるかと訊かれた場合も、学生たちは同じような反応を示しました。仲間の学生の勉強を見てほしいという依頼に対し、学生たちは「次の学期」なら85分くらいなら提供できると答えました。
これが、本人に対する質問としてではなく、一般的に学生は仲間の勉強をどれくらい見てやるべきだと思うかと訊かれた場合、時間はぐっと伸びて120分という回答でした。ところが、「では、今学期中にあなた自身はどれくらい教えられますか?」と訊かれたところ、学生たちの回答はたった27分でした。
第7章 将来を売りとばす
このほかにもいくつかの実験とその結果が出ていたが、要約すると人はとかく将来の自分を他人のように考える傾向があるようだ。そして自分でするのは嫌なことでも他人がやるのだと思うとそれほど苦痛には感じない。結果的に将来自分が苦しむような計画を立てやすい。「明日の朝は5時起き」と決めて、実際5時に目覚ましが鳴ると腹立たしく思うといった経験は誰にでもある。
自分の人生を使ってギャンブルをする人は自分2.0、つまり今の自分に出来ないことが出来る将来の自分の活躍を前提に物事を決定する。そして賭けに負けたとき負債を負うことになる将来の自分が現在の自分と同一人物であることを見落としやすい。*5
現在の自分に出来ないことが将来の自分には出来るはずだと安易に自分2.0の活躍を期待して計画を立て、わくわくそわそわする様子を、昔の人は「獲らぬ狸の皮算用」といった。
狸を獲るのは誰か
ブログ飯の決算収支を見ていると、こんなに狸が取れたらいいなあ、と思う。狸の皮の剥ぎ方、売り方、手取り足取り教えてくれてこの値段なら安いと思う。
でも山に入って狸獲る方法を学んでも、山に分け入って狸を見つけて、撃って、獲って、皮をはいで売るところはひとりでやらなければならない。体力もいるし気力もいるし運もいる。これまで狸、獲ったことありますか。「いまの自分には獲れないけれど、一般的にいってこのくらい時間を費やせばこのくらいは獲れるはず、いまは難しいけれど、そのうちこれくらい獲れるかも。まずは退路を断つことだ」という考えが浮かんだら、自分2.0頼みになっているかもしれない。
勤めを辞めたあとの自分にはいまの自分に出来ないことが出来るかもしれない。その見込みは確かにある。けれども出来るようになるまでのあいだ、今の自分でどうやって食いつなぐかのプランを持つのは妥当なことだと思う。
狸しか獲れない人は狸を獲るしかない
わたしは成人して後、人生かけてやりたいことができたが、それは1円にもならないことだった。それでやりたいことをしながら食べていくための仕事をいろいろやった。お金はなかったけれど、自分で納得しての貧乏だったので「やりたいことを続けるために自分で選んだことだから仕方がない」と乗り越えられた。あのとき就職しておけばよかったとは思わない。
ブログ飯で食べていくまでのあいだの貧乏を誇りに思えるなら、やればいいと思う。安定した職業なんて究極的にはない。身体だって頭だっていつどうなるかわからない。でも本当にそこまでやりたいことなのかどうか、ちょっと考えてみてほしい。
去年のいまごろ、このブログのPVは一日3~5くらい、10人に満たない人がときどきのぞきに来てくれているだけだった。でも書くのが面白いから続いた。そんな風に誰も見ていなくても、お金にならなくても、ときに読者にキーキー言われても、ひとりで面白がってほくほくできるほどブログを書くのがすきですか。ひまさえあれば狸を探しに山に入るのがすきですきで仕方がない。そういう人はがんばって人里を離れ、前人未到の山奥へ分け入ってみたらいいと思う。
喝采を浴びて里を後にしても山奥では一人だ。地味に狸を探し回る日々がどんなものかを知るには、狸獲りを生業にしている人たちのブログの栄枯衰退を見たらいいと思う。狸獲りで身を立てている人は狸を獲る以外、生きていく道が無い人もいる。自分がそっちの人間なのかどうか、よくよく考えてみてほしい。