批評について、私の立場の表明
- 2016/05/13
- 00:36
もう件のお話はあらかた片がついた(と思われる)ところなのですが、私の活動上避けて通れない問題でありますので一応少し触れておきたいと思います。
注:この記事では、「批判」という語をネガティブな評価を含む批評(したがって、批評∋批判)という意味で使うこととします。
● 批評はあるべき
私も全くそのとおりだと思います。じゃあ、わざわざ私が何か話す意味無いじゃん、ってことになりますけれど。しかし、人によっては、jun1sさんのこのツイートを読んで、私と違うことを考えるんじゃなかろうか、と思いまして、私なりに(勝手に)言葉を加えさせていただきたいと思います。
まず、「『相手を尊重しながら批判する』ことは、全然難しくない」という点ですが。
作者の立場で見た時、「批判をしてきた批評者が自分を尊重している」と信じることができるかどうか、と言うと必ずしもそうではありません。また、批評者の立場で見た時、「自分の批判が作者を尊重して行ったものと当の作者に感じて貰える」と(自分が)信じられるかどうか、と言うとやはり必ずしもそうではありません。
なので、批評があるべきとすれば、どうしても一時的な衝突や苦しみは避けられません(実際には批評者が作者を尊重した考えを持っていたとしても、作者がそれを信じられなかったとすれば、作者は苦しい。)し、逆に衝突をなくすべきとすれば、批評活動はかなり消極化されてしまう(自分の批評が作者を苦しめてしまう可能性を否定しきれないなら、やはり当の批評は公にすべきでないだろう、と批評者は判断する)ことになるでしょう。文字どおり読んでしまうと。
多分、このような矛盾した結論を導き出す解釈は間違っていて。どこが間違っているかというと、jun1sさんが想定している「相手を尊重した批評が為されている状況」というのは、批評者が批評を公にした時点で完結しているものではない、ということだと思うんですね。つまり、批評者が批評を公にした時点では、相手を尊重していることを互いに確信できなかったとしても、相手を信頼しようという意思を根底に持って応酬を続ける中で、互いを尊重し(それが確信でき)た意見のやりとりが実現される、そういった状況こそが「相手を尊重した批評が為されている状況」なのだと思うわけです。
というわけでですね。
● 批評に対する批評(もしくは批評間での価値の競争)があるべき
実は「批評はあるべき」なんて当たり前の結論を述べるより、こちらの方こそ注目して貰いたい意見なのでありますが。
ただとりあえず、批評に対する批評、というとちょっと比喩的かもしれません。もうちょっと実態に即して説明するなら、各々の批評において、その価値の高低の競争があって然るべきだろう、という風に私は思っているのであります。ある批評Aは然々の点において対象としているゲームについての分析が不足しているとか、ある批評Bは然々の理由によって説得力があるとか、ある批評Cは然々の事柄について検討が為されていない、とかいう風にですね、当の批評が同じゲームタイトルを対象とした別の批評と比べてより価値の高い批評となっているか、についての議論があっても良いだろうと思うんです。
発端となった件のやりとりに当てはめれば、作者の側からの反論ですね。当の反論は、デザインの意図を開陳することで、そういう在り方で受容することも可能であることを当の批評者は考慮できていないのではないか、という点で批評者の批評を批判している、とも言えるわけですが、このような批評に対する批評に対して、「作品の批評にいちいち作者が反論するな」という反応しかできなかったとしたら、まあ、元の批評自体の程度も推して知るべし、となりますわね。その点、件のお二人は、きちんとそれぞれの言説についての理由を示して応酬を行い、結果、前提の違いを明らかにできたりしたわけで、第三者の私にとっては十分意義のあるやりとりであって、根本的に問題のあるようなことは何らされなかった、と認識しています。いやまあ、当事者でない私がそんな風に分かったような顔でものを言うのはおかしいのではありますけども。
ともかく。今回の話は、作者と批評者の間での応酬でした(し、問題視されるのはたいていその両者間でのやりとりなのでしょう)が、本来はもっと批評者同士での応酬というのがあって然るべきなんじゃないかと思うんですね。というのも、そういう応酬を通してこそ、あらゆる活動(批評も含む)は洗練され高められていくものであって、そのように洗練された批評は、おそらく、洗練された作品の創作にもつながっていくはずだと思うからです。
● 価値の高い批評を。洗練された作品を。
というわけで、私個人としては、ボードゲーム言論界(そんなものがあるのか知りませんけども)は、一時的な衝突・対立にひるまず、活発な批評が行われる場であって欲しいな、と思います。衝突や対立それ自体は、どうしても否定的なものと捉えられてしまうと思いますし、実際そのとおりなのですが、
みんな分かってる当たり前(?)のことを敢えて言いますけども。どんな批判も、それを公にするためにわざわざ時間をかけて文章を書いているということは、その時点で既に、批評者が対象のゲームや作者に対して並々ならぬ、理性で抗いがたいほどの(つまらないゲームをつまらないと述べるためだけの文章を書くのに時間を費やすくらいなら、積んでるゲームのルールブックを読む方がずっと有意義である。)強い関心を寄せていることの証なのです。わざわざ時間をかけて批判する文章を書いてそれを公にするというのは、その批判への応酬を通じて「あなたとアウフヘーベンしたい」という究極の愛情表現なわけです。(←意味不明)
批判された作者にそれらを汲み取れ、という話ではないですが、そういう風にも捉えられるな、ということを頭の片隅に笑い話としてでも残しておいて貰えたら、ちょっと気が楽になるのではないかな、などと思っております。
ちなみに私の頭がお花畑なのは、私の記事や本に単純な悪口を言ってくれる人がいないからであります。もっともそれは、このぷらとんとか言う奴はなんか言ったら面倒くさいことになる危ない奴だ、ということを皆さん直観されてらっしゃるからなんだろうなとも思うんですけども、それは全くそのとおりなんでどうぞ安心して皆さんご批判下さいませ。
注:この記事では、「批判」という語をネガティブな評価を含む批評(したがって、批評∋批判)という意味で使うこととします。
● 批評はあるべき
ある作品について賛否両論が出るのは素晴らしい事だと思います。みんながこぞって褒める作品なんてむしろ気持ち悪いですし。どんどん批評すれば良いと思っています。でも、そこで「批評ならばどんな失礼な表現でもいい」という価値観の人も一定数いて、作り手をサンドバッグにするのです。
— jun1s@くだものあつめトゥーン (@jun1s) 2016年5月10日
思うのは自由、なにを感じても、なにを考えても自由。でもそれを行動に移したり、実際に発言する場合には、完全な自由などないです。何故なら、その向こうには別の人間がいて、その人間も自由を求めて行動しているのですから。だからこそ、人は互いに配慮して、折合って生きているのだと思います。
— jun1s@くだものあつめトゥーン (@jun1s) 2016年5月10日
批評空間には完全な自由があり、それこそが批評を本当に価値あるものにするために重要である、と信じている人にとっては、自分の話はまったく受け入れがたい、甘ちゃんな意見に見えるのだろうと思います。でも、この世界に完全な行動の自由など存在しません。それがあると思う方が甘ちゃんでしょう。
— jun1s@くだものあつめトゥーン (@jun1s) 2016年5月10日
「相手を尊重しながら批判する」ことは、全然難しくないはずです。その努力を怠っておいて、相手が自己を守るために反論すると「作品の批評にいちいち作者が反論するな」とくる。自分は相手を尊重したいと常に思っていますが、相手を尊重しない相手まで尊重しようとは思っていません。
— jun1s@くだものあつめトゥーン (@jun1s) 2016年5月10日
私も全くそのとおりだと思います。じゃあ、わざわざ私が何か話す意味無いじゃん、ってことになりますけれど。しかし、人によっては、jun1sさんのこのツイートを読んで、私と違うことを考えるんじゃなかろうか、と思いまして、私なりに(勝手に)言葉を加えさせていただきたいと思います。
まず、「『相手を尊重しながら批判する』ことは、全然難しくない」という点ですが。
作者の立場で見た時、「批判をしてきた批評者が自分を尊重している」と信じることができるかどうか、と言うと必ずしもそうではありません。また、批評者の立場で見た時、「自分の批判が作者を尊重して行ったものと当の作者に感じて貰える」と(自分が)信じられるかどうか、と言うとやはり必ずしもそうではありません。
なので、批評があるべきとすれば、どうしても一時的な衝突や苦しみは避けられません(実際には批評者が作者を尊重した考えを持っていたとしても、作者がそれを信じられなかったとすれば、作者は苦しい。)し、逆に衝突をなくすべきとすれば、批評活動はかなり消極化されてしまう(自分の批評が作者を苦しめてしまう可能性を否定しきれないなら、やはり当の批評は公にすべきでないだろう、と批評者は判断する)ことになるでしょう。文字どおり読んでしまうと。
多分、このような矛盾した結論を導き出す解釈は間違っていて。どこが間違っているかというと、jun1sさんが想定している「相手を尊重した批評が為されている状況」というのは、批評者が批評を公にした時点で完結しているものではない、ということだと思うんですね。つまり、批評者が批評を公にした時点では、相手を尊重していることを互いに確信できなかったとしても、相手を信頼しようという意思を根底に持って応酬を続ける中で、互いを尊重し(それが確信でき)た意見のやりとりが実現される、そういった状況こそが「相手を尊重した批評が為されている状況」なのだと思うわけです。
というわけでですね。
批評はあるべき。当然批判もあって然るべき。で、作者の側も望むならどんどん反論したら良い。その応酬の中で一時的な衝突が発生するのは仕方ない。けれど、互いを信じようという意思を失わずに応酬を続けるならば、必ず(この「必ず」という修飾は甘ちゃんどころか、お花畑でしょうが)批評者も作者も互いの尊重を感じつつ、ゲームについてより高い認識に至ることができるはず。
と言うのが、私の立場になります。jun1sさんのツイートに言葉を加えるならば…もちろんある程度言葉の表現や何かを考えはするにしても、批評はむしろ推奨するし、作者の側も批評に対する批評をしてくれたら良い、ただ、どちらも最後まで相手とちゃんと向き合って応酬してね、というところになりますでしょうか。● 批評に対する批評(もしくは批評間での価値の競争)があるべき
実は「批評はあるべき」なんて当たり前の結論を述べるより、こちらの方こそ注目して貰いたい意見なのでありますが。
ただとりあえず、批評に対する批評、というとちょっと比喩的かもしれません。もうちょっと実態に即して説明するなら、各々の批評において、その価値の高低の競争があって然るべきだろう、という風に私は思っているのであります。ある批評Aは然々の点において対象としているゲームについての分析が不足しているとか、ある批評Bは然々の理由によって説得力があるとか、ある批評Cは然々の事柄について検討が為されていない、とかいう風にですね、当の批評が同じゲームタイトルを対象とした別の批評と比べてより価値の高い批評となっているか、についての議論があっても良いだろうと思うんです。
発端となった件のやりとりに当てはめれば、作者の側からの反論ですね。当の反論は、デザインの意図を開陳することで、そういう在り方で受容することも可能であることを当の批評者は考慮できていないのではないか、という点で批評者の批評を批判している、とも言えるわけですが、このような批評に対する批評に対して、「作品の批評にいちいち作者が反論するな」という反応しかできなかったとしたら、まあ、元の批評自体の程度も推して知るべし、となりますわね。その点、件のお二人は、きちんとそれぞれの言説についての理由を示して応酬を行い、結果、前提の違いを明らかにできたりしたわけで、第三者の私にとっては十分意義のあるやりとりであって、根本的に問題のあるようなことは何らされなかった、と認識しています。いやまあ、当事者でない私がそんな風に分かったような顔でものを言うのはおかしいのではありますけども。
ともかく。今回の話は、作者と批評者の間での応酬でした(し、問題視されるのはたいていその両者間でのやりとりなのでしょう)が、本来はもっと批評者同士での応酬というのがあって然るべきなんじゃないかと思うんですね。というのも、そういう応酬を通してこそ、あらゆる活動(批評も含む)は洗練され高められていくものであって、そのように洗練された批評は、おそらく、洗練された作品の創作にもつながっていくはずだと思うからです。
● 価値の高い批評を。洗練された作品を。
というわけで、私個人としては、ボードゲーム言論界(そんなものがあるのか知りませんけども)は、一時的な衝突・対立にひるまず、活発な批評が行われる場であって欲しいな、と思います。衝突や対立それ自体は、どうしても否定的なものと捉えられてしまうと思いますし、実際そのとおりなのですが、
とターコイズさんがツイートされているように(とは言え、ターコイズさんが話しているのは「衝突・対立」ではなく「矛盾」についてなのではありますけども、ここでは触れないことにして。)、止揚されるための一時的な矛盾・対立・衝突は、より善いゲームの制作をむしろ牽引するものとも思われるのであります。無根拠だが僕はゲーム制作にはどうしても弁証法的な取り組みや思想が必要だと信じている。弁証法などと怪しい言葉を使って恥ずかしいが、難しい話でなく僕が言うの「相矛盾する価値をなんとか昇華していく取り組み」という程度の意味だ。オインクさんは紛れもなくそれをやっていると信じている。
— ターコイズ (@turqu_boardgame) 2016年5月10日
みんな分かってる当たり前(?)のことを敢えて言いますけども。どんな批判も、それを公にするためにわざわざ時間をかけて文章を書いているということは、その時点で既に、批評者が対象のゲームや作者に対して並々ならぬ、理性で抗いがたいほどの(つまらないゲームをつまらないと述べるためだけの文章を書くのに時間を費やすくらいなら、積んでるゲームのルールブックを読む方がずっと有意義である。)強い関心を寄せていることの証なのです。わざわざ時間をかけて批判する文章を書いてそれを公にするというのは、その批判への応酬を通じて「あなたとアウフヘーベンしたい」という究極の愛情表現なわけです。(←意味不明)
批判された作者にそれらを汲み取れ、という話ではないですが、そういう風にも捉えられるな、ということを頭の片隅に笑い話としてでも残しておいて貰えたら、ちょっと気が楽になるのではないかな、などと思っております。
ちなみに私の頭がお花畑なのは、私の記事や本に単純な悪口を言ってくれる人がいないからであります。もっともそれは、このぷらとんとか言う奴はなんか言ったら面倒くさいことになる危ない奴だ、ということを皆さん直観されてらっしゃるからなんだろうなとも思うんですけども、それは全くそのとおりなんでどうぞ安心して皆さんご批判下さいませ。